面会2019年05月20日

 5月8日に中日新聞にサークルの会員を募る広報を掲載してもらった。そうしたらすぐ問い合わせがあり、面会を申し込まれたので20日に応じた。年齢は同じくらい、30歳代には南アルプスも登ったらしい。昔取った杵柄組であろう。山岳会と聞いてなつかしさを感じられたかも知れない。
 面会は30分程度。会のことよりも実の生活のことに話題を振られた。70歳近くになってからの山登りがどんなものか悩ましいとは思う。過去には65歳くらいで入会してきた人もいた。80歳を越えた今も現役で頑張っている。縁があれば入会してもいいし、定例会にお誘いして別れた。

東海市と細井平洲の顕彰2019年05月21日

 細井平洲を知ったきっかけは何だったのか。もう記憶にはない。それでも一度は米沢市の普門院などを訪れたい希望があった。今度のみちのくの山旅で実現してほっとしている。
 米沢市の普門院は南の方にあり奥羽山脈の板谷峠を越えてすぐの平野に位置するお寺である。ここで平洲が69歳の時に3度目の対面をしたことが歴史に残った。
 対面の像は平成26年に東海市から寄贈されたのだった。東海市長も訪れたそうだ。これだけ力を入れるのは何なのか。一度は行ったことがある細井平洲の記念館にまた行った。その前に太田川駅前にできた東海市芸術劇場の前に同じ対面の像が建立されたのでそれも見学に行った。2Fには小スペースながら平洲の紹介コーナーもある。
 そこに作家の童門竜二氏のビデオもあり、たぶん、童門氏の著作で知ったのではないか、と記憶がよみがえる。さらにアメリカのケネディ大統領が日本の記者団から、尊敬する日本人は、と問われて答えたのが上杉鷹山であった。その師匠にあたる細井平洲の人物が知られないままということはあり得ん。ここにはケネディ駐日大使も訪問されたらしい。
 新日鉄などの企業城下町の東海市の力の入れようはすごいと知った。師弟関係をセットにして市の顕彰事業に取り組んでいる。童門氏の講演があれば教えてほしいと希望して帰った。
 ちなみに平洲が籠に乗って越えたという板谷峠は車で行ける。今は狭いが舗装されている。新緑の真っただ中の峠であった。そこは開発がされないため秘境的な雰囲気が残っている。そっとしておきたいところである。

みちのくの山を漂泊・・・書籍編2019年05月22日

 4月末から5月中旬にかけて、青森県一円の山旅と南東北の山旅でほぼ2週間を費やした。帰宅後は一度は読んだ本を反芻するかのようにまた読む。新たな本も漁って読む。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「北のまほろば」、「羽州街道ほか」、「陸奥のみち ほか」、「会津のみち ほか」で東北は網羅される。このなかには司馬さんの人物像と歴史観が混在し、わかりやすく、あるいは難解にディープな見解が述べられる。
 例えば、その中に、菅江真澄、上杉鷹山、蒲生氏郷、松平容保などが出てくるから関連の書籍をまた読む、といった具合で、鶴ヶ城のPの脇にあった司馬遼太郎の文学碑の「最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」」も読まねばならない。
 特に福島県は海に面した県のイメージが強くある。そのために会津はどこの県との意識もなかった。今回は裏口から福島県入りしてみた。地形図を眺めてはため息をついてきた福島県の会津地方。それでその西に食い込んだ県域の広さと山の深さを実体験できたのだ。
 井上ひさしは「福島県は東北じゃないんです」と言ったというが、実際に実感する。しかしそうとも言い切れない。3000級の山こそないが、日本のもっとも深い山岳地域である。
 今回は会津磐梯山に登れたことが大きな収穫であった。実はこの山は2回目で、30年前にスキー登山で挑んで撤退した。どこから眺めても磐梯山は存在感がある。会津は磐梯山あってこその盆地であろう。
 乙川優三郎の小説『脊梁山脈』も木地師が主役で、長野県売木村と東北の木地師の山村を舞台に戦争に翻弄された運命の不思議を描く。脊梁とはまさに木曽山脈の末端にあたる売木村であり、奥羽山脈のことだった。また読み返してみたい本である。東北の山村へ、名山でもない山へと誘う。

 長い山旅でしばらく事務所へ行っていないので今日の午後は雑務処理に時間を割く。

総会シーズン2019年05月23日

 総会は年度の締めが3月31日の団体は4月か5月に行われる。所属の山岳会、三遠歴研、岳連、俳句団体は4月に済んだ。もう一つの山岳会は先週だったが山旅で欠席、23日は業界団体の支部の総会だった。
 会場は名駅前の有名高級ホテルの16Fだった。例年より多くの出席者で盛会になった。特に若い同業者が多かった。宴会は1F上で、政界の人らも招いて盛大に所せましとにぎわった。
 週末はマンション理事会、30日には業界の上部団体の総会、6月は株主総会と目白押しで続く。やれやれだが、7月8月は飛んで、9月にももう一つコスモス成年後見S/Cの総会があった。それに10月は俳句会の年次大会がある。全国から終結するので事実上の総会になろう。忙しいはずである。
 今後は徐々に減らすことになる。社会的孤立に陥らないためには少々煩わしいくらいの方が良いのだが、高齢化、収入減で会費も馬鹿にならないからだ。
 昨夜の総会でも話題に出たのは趣味(特に山岳会)の人間関係が意外に仕事の役に立ってきたことである。要するに異業種交流である。すると辞められない。元気なうちはせっせと会費を支払うことになる。

沢初めのパッキング2019年05月24日

 5/26は半年振りか、それ以上にブランクのある沢登りに行く予定のために道具類の点検と車への積み込みに少し汗をかいた。ヘルメット、沢足袋、沢スパッツ、ザイル、ハーネス、シュリング、ハーケンなどの多数の道具をいや今風に言えばギヤを積み込んだ。シュラフも冬用からスリーシーズン用の薄いものに替えた。ウエアも沢用に吸汗、即乾の機能ウエアを用意した。
 そのうえで、日進市の安売りGSへ給油に出掛ける。田園地帯はすでに水田となり、田植えの最中である。いよいよ初夏の装いになってきた。今日は暑い1日になった。押入れの夏布団も出して短時間だが日に当てた。山も日常も夏来るである。

山の話二題2019年05月25日

 今朝の中部経済新聞の朝刊最終面に「山を楽しむ」に拙稿が掲載された。果たしてこんな記事が今の読者に受け入れられるであろうか。読者の反響が一番である。中経の編集室にはいろんな反響があるだろう。これまで数年前から3回連載に応じてきた。いずれも中途で打ち切りはなかったからそれなりの好感はあったかに思う。さて今回はどうなるやら。
 朝8時過ぎから石丸謙二郎のNHKラジオで山カフェが始まった。断片的にしか聞けなかったが、気になる山名には聞き耳を立てた。曰く、山形県の雁戸山の山名である。中途で下山したから登るまでは気になる。日本三百名山に入っていない山でも良い山は良い。

奥美濃・黒津山~激登13時間、戦い済んで日が暮れて2019年05月26日

 黒津山なんて聞いたこともない山名だった。調べてみると五蛇ヶ池山と天狗山の中間に座す1197mの独立標高点だった。
 五万図「横山」の地図には黒津山と書き込みがある。2.5万図「美濃広瀬」(昭和48年測量。現地調査は昭和48(1983)年6月)には4等三角点 黒津山と書き込みしてる。この山は以前は無名の独立標高点でしかなかった。それがこの時期から4等三角点(点名は黒津)に昇格し、標石が埋設された。標高も1193.4mと変わった。山名の記載はないが登山の対象としては比較的新しい山である。

 藤橋村の最高点(徳山村と合併前の)という以外は食指も動かない。よく同行する人と行く先を検討するとお互いに登っていないという条件にはまるには黒津山になった。
 記録としては日比野和美編『記録 奥美濃の山と谷 百山百渓』(1986.10.08 私家版)があるのみ。まずは2011年3月に親谷側からスキー登山を試みたが見事に敗退させられた。次は2018年2月にわかん山行を試みたがこれも6時間、12時までに登頂できなければ下山の掟にしたがって下山のやむなきに至った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/02/19/8790659

 久々に沢初めを奥美濃の沢でやろうということになった。それじゃ、2度時間切れで敗退した黒津をやろうとなった。
 5/25の夜、地道で揖斐川に沿う国道を走る。テントで仮泊の予定だった道の駅「ふじはし」は若い人たちがたむろして異様ににぎわっていた。スルーして横山ダムを過ぎるとPにも若者らが集まって今にも暴走族の走りそうな雰囲気だった。
 奥へ走ると、新川尻橋に替わって新しく川尻橋が架かり、川尻トンネルが貫通していた。ダム湖も無名だったが今は奥いび湖に命名された。夜の国道では鹿が2頭見た。彼女らも大変化についていけるだろうか。
 結局適地を得られず、親谷に入った。ところが奥までは行けず、地形図で建物の記号の山家のある少し先で杉の倒木が道を防いでいた。ああ、これでは明日の登山に黄色信号が灯った気がした。粛々とテントを張って缶酎ハイを飲んでシュラフにもぐりこんだ。
 5/26、4時起床。薄明るい中で小鳥たちが朝の寝覚めに鳴き始めた。自然のままの暮らしはこうであっただろう。コンビニで買った寿司を食べ、白湯を飲んでテントをたたんで出発したのは5時20分であった。ちょっと遅いかな、という気もした。
 林道から沢にもっとも近づく標高730mの入渓地まではおよそ10kmはある。ハイエースの残骸のある渡渉地まで1時間強、さらにジグザグを切りながら入渓地へ急ぐ。林道は今は草地で真っ青である。クマかサルの糞が多い。鈴を鳴らしながら行く。
 入渓地へは林道から明瞭な踏み跡があった。これは獣道か、登山者だろうか。多分登山者だろう。谷名は日比野さんの本ではケツロ谷の名前があった。入渓した途端に涼しくなった。段差の大きな滝はなく、みな直登が可能である。しかも高度がぐんぐん上がってゆく。沢登りのだいご味である。
 順調に詰めてゆくと二俣になり、左へ。ところがしばらくで伏流になる。荒れた登山道という感じでどんどん登るとまた水が出てきたが長くは続かなかった。この空洞(からほら)はさらに見上げるような高さにまで続いてゆく。さっきから風の音かと聞いてきたが、隣の谷の流れの音だった。一輪だけのシャクヤクの花に癒された。
 音のする隣の谷へ踏み跡があった。辿ると何とミズゴケの緑に満ちた谷が続いていた。ここを遡ることにした。但し水は冷たかった。源流に残雪でもあるかと思った。高度差は大してなく、順調に遡る。すると1000m付近で突然15mの美しい滝が現れた。右から確保支点はあり、先ずはWリーダーがフリーで登攀した。私はザイルを出してもらい手の切れるような冷水の滝を登攀仕切った。
 ところが登りあがった所は土の中からの湧き水だけであった。多分GWのころは残雪があっただろう。谷はそこで終わった。時刻は10時。比高200m、2時間あればなんとか登れる。左の空洞に戻るか、藪を突破するか。リーダーは藪ルートを選んだ。赤布は付けないから闇雲である。コンパスで方向は見る。すると突然、目の前に現れたのはまた空洞だった。そこに降りて、登り返すとやっと稜線に着いた。完全な藪の稜線だが笹はないので漕ぎやすい。ようやく黒津山の看板のある山頂に着いたのは12時前になった。しかし三角点がない、とRがいうので、4等三角点は必ずしも最高所にはなく、少し北の低いところに埋設されていた。時は12時になった。昼食タイムもなく、撮影するとすぐ下山である。
 下山ルートは林道の終点に下ることだった。先ず南東の1180mのコブに着いて、方向を見て尾根に乗った。ところが左(西)に地形図に表現されてない明確な溝(空洞)がある。これは何だ、と協議した結果、上りなおして、林道をパスして登ってきた谷に戻ることも考慮しながら左側に振りながら、笹薮と格闘しながら激下降した。
 やや笹が空いて来た辺りから林道がある尾根が視野に入り、今度は右寄りに振って下降。するとあの冷たい水の谷につながった。ああ、これで下れる。
 適当に下降しながら見覚えのあるところを空洞へ移動すると正しく登ってきた谷になった。これを下った。やっぱり谷は早い。そして入渓地に付けた赤い布が見えてほっとする。後はもう林道を延々下るだけだ。車に戻ったのは13時間後の18時40分になった。3度目のトライでようやく落ちた。執念が実った。

 反省点は、山頂直下の地形図にない空洞と登りにとった空洞はつながっていると思った。しかし、現地では逆に戸惑いになった。私には真東のテーブルランドが雷倉とすぐわかった。尾根の方向の先の目の前の山はミノマタだ。
 だから現在地の確信は持ったがW君は不安そうだった。よく読図技術というが、違うと思う。周囲の山を見て自己の位置を判断するのだから、地図を読むのではなく、地形を読むのである。
 ミノマタも鏡山も登っているからそう判断できる。但し、雷倉を同定したのだからその先は能郷白山ということは決まっている。しかし、イソクラが判然としないので一縷の疑問はあった。あの良い山は何だろうと。帰宅して20万地勢図でチエックすると、そのはずだ、完全に重なっていたのだ。少し靄っていたのも原因だ。地勢図も持つべきだったというのが反省点になる。

高齢者講習を受講2019年05月27日

 昨夜は13時間を超える激藪の山に登った。お陰で足腰が痛む。トイレの便座にもそろりと座る。手足のあちこちが引っかき傷だらけ、ヤマビルへの献血跡もあった。部屋にやたらに笹、枯木の端っこなどが散乱するのもザックについていたからだ。そんな絶好調とはいえない体調で野並の自動車学校へ出かけた。

 今日は朝から、天白区野並の名古屋自動車学校で、運転免許証更新前の高齢者講習で2時間ばかり国民の義務を果してきました。視力が肝心ということで視野、夜間、視力の3つの検査を受診。また10分ばかり自動車学校のコースを走りました。空いている時間帯はビデオの安全教育です。
 検査結果は視野が狭くなっているそうです。そして夜間視力も衰えているというデータになっているそうです。元より、若いころは100kmから120kmで走っていましたが、衰えを自覚した今は80kmから90kmで走っています。
 最近は確かに80歳代の高齢者の交通事故が頻繁に起こっています。特にアクセルとブレーキペダルの踏み間違いが多いそうです。信じられないのですが当事者にならないように慎重に運転したいものです。
 というわけで、10月の誕生日前の更新ですが、事前の講習は4か月も前に行いました。団塊の世代は多いために体制が整わず、時期を分散化して凌いでいるようです。
 
 全身疲労は中々癒えない。とにかく水分をよくとる。昨日は水が足りず、口腔内の粘膜が干からびるような渇きを覚えた。谷にもどって1杯、車に戻って1杯、自宅で1杯と水分は吸い込まれるようによく入る。今日も変わりない。

冷蔵庫とて饐えしもの捨てるべし 福永鳴風2019年05月28日

 朝から雨。ホッとする。片づけの最中に水出しのガラス容器をうっかり倒して割ってしまった。早速買いに行く。このところ、水分補給の機会が多くて2ℓのペットボトルの空ボトルのリサイクルが増えた。
 そろそろ水出しで供給しないと間に合わないと思った。ボトルはホームセンターで1000円弱。プラスチックはもっと安いが、飲み物はガラス容器が良い。ちなみに缶ビールでも缶から飲んでも良いが、ガラスコップに注いで飲むと一段と美味く感じる。というわけで、ペットボトルのお茶よ、さようなら、水出しボトルのお茶よ、こんにちはになった。

 冷蔵庫に保存する食品の傷みも早まってきた。表題の俳句は所属する俳句結社の主宰だった故福永鳴風氏の句である。なかなか良いところを突いている。山岳会の女性会員に主婦のあんたたちでも冷蔵庫の食品を腐らせることはあるかね、と問うと、あるある、と答えてくれた。
 賞味期限と消費期限の違いがやかましく言われ、まだ食べられる食品の廃棄処分が糾弾されてきた。
 たしかに冷蔵庫は年々大型化してきた。比例して食品の廃棄も増えただろう。購入して冷蔵庫にしまった食品はもう食べる気がしないのだ。多くの主婦は多分、買い物を楽しんでいる。料理は苦手、できればやりたくない、デリカの出来合いの総菜で済ませたいのだ。
 現実に家庭料理は愛情がないと続かない。働く夫、通学の子供がいるから主婦の役目とばかりに料理に勤しむモチベーションになる。あるいは金儲けの手段でもある。あんなカレーのような料理ですら外食が当たり前になった。夫が定年後は、主婦も辞めます宣言したそうだ、とは先の山岳会の女性会員だ。

 というわけでこれから猛暑に向かう季節到来。もう一句

 団塊の世代われらに飯饐る 遠藤若狭男

・・・これはこれは大胆な句であることよ。飯は饐えても食えないことはない。洗って雑炊にしたりおじやにして食える。
 肉は毒素を出すので捨てるしかない。欧州で香辛料が発達したのは冷蔵庫なき時代に日々腐敗の進む生肉をどうやって食うかの工夫だっただろう。ハムソーセージも食塩で保存する知恵の産物だった。
 便利さは無駄にもつながる。

宗教法人法のこと2019年05月29日

 山岳会の旧知の会員のつながり(知人の元部下が税理士を開業、知人の子息が士業)で、ある宗教法人様を紹介された。宗教法人様からは会社法の定款に該当する規則の変更の相談だった。
 1万を超える許認可の仕事のすべてに精通する行政書士は少ないだろうが、宗教法人法は意外に需要があり、専門と謳う同業者もある。とりあえずは依頼主様を訪問し要望を聞き、資料を預かって手続きの段取りを検討をすることとなった。
 基本的に法人にかかわる要件は、人、モノ、カネである。まずは宗教法人法の条文の逐条解説の書籍にあたる。経験者がいたら聞くし、窓口にも当たることになる。依頼主と当局の間に立ってスムーズに行政サービスが執り行われるように計らうのが狙いであるから的を得た仕事である。
 もう一件は事業年度終了届の書類作成も依頼があった。何だか急に忙しくなった。5月前半は連休のおかげで9座も登ってしまった。1日1山と仕事のような登り方をしてしまった。山は友人らと語らい、たまに行くから楽しい。そんなペースを取り戻すことになる。