北畠八穂・・・津軽言葉の文学者 ― 2019年05月02日
青森県近代文学館を見学し、北畠八穂のイベントのパンフを購入。平成6年10月25日から11月30日まで、同館で、北方のメルヘン作家ー展として北畠八穂特別展があった。
北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔である。八穂は嫁入りして北畠家入したのではなく、その流れの人だから世が世ならお姫様の身分だった。
両方の祖母からたぶん津軽弁の民話を聞かされて育った。それがベース資産になり、多くの作品を産んだ。深田久弥との結婚は文学の同士としてのものと解するが、病気もあり、悲劇的に別れることとなった。
同居時代の深田久弥の小説は実は八穂の作品だったという。但し、八穂は標準語で小説を書けなかったともいわれる。それを添削して一般読者に読みやすい文にしたのが深田だった。だからどっちの作品か、論議のあるところである。
女優で小説家でもある岸恵子は『津軽の野づら』のあすなろうの一節を気に入って八穂の文と断定し、自分が文学少女になった契機になったともいう。
北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔である。八穂は嫁入りして北畠家入したのではなく、その流れの人だから世が世ならお姫様の身分だった。
両方の祖母からたぶん津軽弁の民話を聞かされて育った。それがベース資産になり、多くの作品を産んだ。深田久弥との結婚は文学の同士としてのものと解するが、病気もあり、悲劇的に別れることとなった。
同居時代の深田久弥の小説は実は八穂の作品だったという。但し、八穂は標準語で小説を書けなかったともいわれる。それを添削して一般読者に読みやすい文にしたのが深田だった。だからどっちの作品か、論議のあるところである。
女優で小説家でもある岸恵子は『津軽の野づら』のあすなろうの一節を気に入って八穂の文と断定し、自分が文学少女になった契機になったともいう。
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