天白八事散策2008年03月20日

 八事は坂の町である。なんでも八つの坂が八事交差点に集中するプレートを見た。そのうちの塩竃坂をこの前は登り損ねた。西の空が明るいので雨も午後には止む模様である。荷風よろしく雨傘を持って出かけた。
 塩釜までは植田川を渡る。すると天白川にかかる新音聞橋にあったブルーシートの住いが植田南橋に転居したのか洗濯物を干すロープまで張ってあり定住しているようである。どちらの川も濁流に近い。相当な雨量であった。
 街を抜けて塩竃神社へは少し迷いつつ歩いた。道標があるが鍵形に歩くのでまたうっかり通り過ぎてしまった。それに気づいて坂に戻り急な坂道を登ると塩竃神社はあった。昼前というのに駐車場はもう八歩どおり埋まる。安産と子育ての神様らしい。奥にはもっと広い駐車場もあるので結構盛況のようだ。
 神社をでて更に急な坂を登る。すると御幸山に着いた。国土地理院の地形図でみても一般の字体であり肩聳体ではありません。人が住むようになって山名から地名になってしまったのでしょう。しかしかつては明治天皇が野立をしたという絶景の山上でした。
 私のマンションの自宅から眺めアルプスに見立てて「八事アルプス」と呼称しているが東北の102m三角点(椙山女学園大学辺り)から南西に至ってここより高そうな山はなく急傾斜で植田川に下る丘陵地である。従って夜景が素晴らしいだろう。
 しばらくは高級住宅の間を縫うようにして歩く。するとまた自然に石屋坂(飯田街道=R153)に合流して八事交差点に着いた。例の蝶々をあしらった八つの坂のプレートを確かめた。そのまま参道坂を下る。旧飯田街道に行こうと歩いていたらすーっと市バスが停留所に着いたので栄まで乗車した。
 栄の中区役所7Fで行っている岳人写真展を見学した。初日は500人を超す来場者で賑わったようだ。今日も祝日で結構賑わう。会場をでてから名古屋城の一角にある愛知県図書館に行った。ビデオルームで映画鑑賞を申し込んだら時間切れと聞いて館を辞した。
 入口付近にに今までは気づかなかった横井也有の出生地の看板があった。そうかここで生まれて53歳で隠居し上前津辺りで晩年を過ごした。仕事は尾張藩の重臣だったと看板にあった。
 あるサイトからのコピー
「横井也有は俳人というより俳文家として知られています。最も名高い俳文集に「鶉衣(うずらごろも)」があります。天明の狂歌師大田蜀山人が、たまたまその写本の一部を読んで感激し「鶉衣」の出版に尽力したことは、良く知られています。
 永井荷風は「日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後と雖も必ず日本文の模範となるべきもの」と「鶉衣」を絶賛しています。」
 とまあ高い評価をうけているのですが今の私にはもう簡単には読めない文ばかりです。
 お堀端を歩いて東区界隈の平坦地を行く。41号に出合っていくと3/22に不発弾の処理を行う旨の大きな看板があり又もかと思う。この辺はよくよく不発弾が多い。新栄から中央線を渡り今池で地下鉄に乗車。本山で乗り換えて八事日赤駅で下車。そこからまたぞろ八事に向って歩いた。八事霊園の脇を通り抜けた。彼岸の墓参はもう盛りをすぎたのか人影は少ない。約5万基の墓があるという。
 勤務先の社長といい老友のNさんといい名古屋っ子は60歳を過ぎると「八事が近い」とか「棺おけに片足を入れた」とかいって老境に入ったことを揶揄する。聞いた当時は本人も含めて笑ったものが今はもう80歳に近くなり笑ってもいられない。八事は人生の終点でもある。山友が八事日赤病院に入院した際に口の悪い友人が霊園も近くにあるから便利だよ、と悪い冗談で励ましたが60代半ばで死んでしまった。口の悪い友人も癌で闘病中でありいずれは自分の身にに跳ね返る。
 霊園を過ぎると花屋に続いて石屋が軒を並べる。そして石屋坂に出た。なんで石屋坂なのか奥まで歩いて分かった。春の暮れの坂道を下った。旨そうなラーメン屋があり入りたくなる。夕食まではまだ少し早い。

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