感動の北アルプス大展望!栗ヶ岳スキー登山2008年03月10日

北アルプスの剣岳の威容!
 今から20年前の1988年にヤマケイから『1等三角点100名山』が出版された。この中に御前岳が収録されている。知る限りではこの本が唯一のガイドブックであろう。『ぎふ百山』の正続ともに収録されていないのが不思議である。
 執筆者がたまたま白山に登山したら偶然御前岳とレーザー測量していたのを発見。ということは御前岳にも道があると狙った。狙い通り登山できたわけだ。その情報を聞いてすぐに単独で登った。友人は栗ヶ岳もついでに登ったらしかったが御前岳で満足したものの気になって仕方がない。地図に名前が印刷された山は登っておくものである。
 あれから20余年。その栗ヶ岳にまさかスキーで登山できるとは。森茂廃村への道は事実上峠までしかない。御前岳だけでも大変なアルバイトがいる。兵の友人達はそれこそ夜討ち朝駆けで登っている。
 私たちは最初白弓スキー場から長い山稜を伝う計画であったが2回も失敗。昨年、江黒からスキーで森茂峠を往復しているW君の計画に乗って森茂峠から御前岳を目指した。
 3//8の夕方、職場の前で待ち合わせて名古屋ICから清見ICまで走る。清見から江黒までは県道を辿る。空は満天の星である。除雪はきれいに行われてスムーズであった。除雪センターのような一角で車中泊。
 3/9朝3時非情の目覚ましが鳴る。今日こそやるぞ、と起床。お湯を沸かすも食欲なし。お湯をすすって出発。但しフロントガラスが凍結し溶かすのに時間がかかった。若干移動後4時50分歩き始める。林道入口手前で雪に閉ざされる。スキーにシールを貼って歩く。ヘッドランプも点灯する。
 幸いスノーモービルの轍があり、雪面は硬くラッセルはなし。平坦な道から徐々に高度を上げる。森茂峠には6時50分に着く。2時間もかかった。そこで軽い朝食をとる。峠の祠は雪に埋まり何も分からない。7時5分、尾根に取り付く。大変急なり。樹木甚だうるさいが上るにつれて尾根が広くなる。緩斜面になった唐松の植林帯をぬって快適にシール登高する。最初の高圧鉄塔に到着。素晴らしい展望が広がった。御岳、乗鞍岳、穂高連峰の大パノラマである。
 尾根は更に広くなり夜も明けて日が高くなるので雪面の反射もまぶしい。余り高度を上げないが快適な登高である。唐松林が終ってブナの原生林の雪稜となった。尾根の幅は一段広がる。W君が要所に赤い布を付ける。
 小さなコブをいくつも越えて行くが白山はまだ見えない。栗ヶ岳らしいピークを見たのは1600m付近まで登ってからだった。遥か遠くに見える栗ヶ岳に向って延々シールを滑らせた。
 傾斜が段々急になり高度が上る。ついに栗ヶ岳の手前の平に着いた。ここで初めて白山連峰が顔を出した。大きな感動に包まれた。栗ヶ岳へ最後の急登をした。1728mの頂上である。残念ながらW君の期待した御前岳へはまだかなりある。12時30分を持って前途を打ち切った。
 昼食をとる間は無風状態で心地よい。写真を撮った後平まで戻ってシールをはがす。13時30分、平から雪稜の滑降を開始。登る時はやわらかい雪質が今はもうバリバリのウインドクラストであったからキックターンで下った。雪質が軟らかいところではターンを試みた。雪質が急に変化するとスキーがうまく回転せず転倒する。いつまでも上手くならない。
 一旦鞍部に来たのでシールを貼って登り返す。再びはがす。軽い登り返しは階段や開脚でこなす。それでも快適である。何度かの登り返しでW君が遅れ始めた。飲まず食わず休まずのせいでペースダウンしたらしい。軽い食べ物と水で回復を図るため休止した。
 体力の消耗を避けるためにシールを貼った。鉄塔を2つやり過ごし、唐松林の中をシールのまま強引に滑る。やっと峠に戻った。17時40分、林道を滑走するが凍結し始めていて滑りすぎる。山側に寄ったり谷側をずらしてスピードを抑える。
 18時過ぎ最奥の民家に着いた。民家からは薪を燃やす臭いが漂う。もう夕餉の時間帯だろう。車に戻れたときは街灯が点灯していた。
 清見ICから入る。白鳥から先は13kmの渋滞表示。ひるがのSAで夕飯とするがラーメンしかない。また走るが渋滞は14kmに伸びた。いっそ白鳥で降りて美人の湯に入ろうと変更。美人の湯を上がってまた高速に入るがもう解消していた。
http://8425.teacup.com/koyabann1/bbs

ねんきん特別便来る2008年03月12日

 社会保険庁社会保険業務センターなる役所から「ねんきん特別便」の封書が届いた。これが新聞で見た5000万件というとてつもない年金加入記録もれの調査であった。
 早速中身を読んだ。偽りのない転職歴でもあった。よく読むと4ヶ月の空白期間に気づいた。会社から会社へは空白無く転職してきた記憶があるので年金手帳を見直すと国民年金の4ヶ月が記入もれと分かった。正しく5000万件の一件が見つかったわけである。
 これをもって12日は休暇を取り社会保険事務所に出向いた。午後遅くに訪問した。老人がかなり多いのは当然として相談員と相談者の漏れてくる声を聞くともなしに聞くと職場の名前にちょっとでも記憶がないかと問い詰めていた。もう古いことでもあり大変な作業を垣間見たのだった。かなり待たされて女性の職員が親切丁寧に応対してくれた。記憶でなく記録があるので調査は早く記入漏れを認めてくれた。但し国民年金の部分は65歳からの支給なので当面影響はない。ついでに厚生年金の支給額も調べてもらったりして安堵した。
 帰りには老友のOさんの事務所に寄ったがお休み。まだ明るいので東区にある旧友のOさんの飲み屋に回り道してみた。客はなく開業早々苦戦中とのことであった。
 飲酒運転の法規が強化されて取り締まりが厳しくなった。車で行ってはもう一滴も飲めない時代。酒を提供する飲食業はどこも苦戦のはずである。反対に交通事故の死亡件数は激減したらしい。自賠責保険も死亡保険金が少なくなり保険料を下げるという珍しい事態である。
 人の流れはカネの流れである。地下鉄にうんと近い店でないと苦しい。また友人を連れて飲みに行ってあげようか。

石川富康氏の七大大陸最高峰登頂祝賀会出席2008年03月14日

 石川冨康氏の登山経歴は著書『50歳からのヒマラヤ』に詳しい。彼がエベレストに登頂した後は世界七大大陸の最高峰に挑戦していたことはすでに知られていた。
 今年2月にそれが成功した。暗いニュースがあふれる中で一際明るい話題であった。しかも世界最高齢という付加価値も付いた。しかし面白いのは彼が段戸山に登りたいといっていることである。『新・分県登山ガイド 愛知県の山』を一冊贈呈しておいたのを読んでくれたのだろう。省みなかった足元の山に着目してくれたことは楽しい。この登山家にして愛知県にこんなにも山があるのかと目を開いてくれたのだろう。日本の山など山と思わずに突っ走ってきたのであろう。
 並みはずれた体力と技術を以って尚8000m峰へとエールを送る祝辞が延々続いたがもうヒマラヤに登山することは無いようである。人の体だと思って勝手なエールは慎みたいものである。
 原真氏が書くには登山は自分本位でいい、と発言している。その通りである。『快楽登山のすすめ』の中に明快な文で書かれている。果たして石川さんは面白いと思って世界七大大陸の最高峰制覇の登山を続けたのであろうか。自分本位であったかどうか疑問が残る。
 小津安二郎の言葉から
 なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従う。
 つまり映画は芸術であるゆえ自分本位に制作したのであった。同じことは夏目漱石も言ったように思う。登山もそれはそれとして自分本位に行きたいものである。

岳人4月号を読む2008年03月15日

 昨夜の石川富康さんの祝賀会で配布された「岳人」4月号を読む。
 P51に「登り続ける姿」の大見出しで「人生後半のヒマラヤ、そして七大大陸最高峰」として柏澄子が石川さんの快挙を紹介している。最後はやっぱり「こんな老兵がいつまでも<注は小屋番:世界の高峰を>登り続けていてはいけない。これからは地元<同:愛知県の>の山を登ってみようと思う。この辺りもいい山が沢山あるんだ」と結んでいる。そこが愉快である。
 もう1人は関根孝二さんの走り旅で日本百名山を完登した記録の紹介だった。この人もクライマーの出である。百名山を発想するところは陳腐としか言いようがない。走るのは自分本位ではあるが百名山ごっこの変り種に過ぎない。重廣恒夫さんもクライマーで日本百名山の早回り記録を作ってマスコミで騒がれたことがあった。多分余興であろう。
 石川富康さんも原真さんも価値観の多様化を認めたんだと理解した。二人とも若い頃はアルピニズムの信奉者であったと思う。岳人の豊富な記事や会報欄から伝わる熱気は水面下では多様で豊かな登山が確実に行われていることが察しられる。何も海外遠征でなければ登山を楽しめないことはない。海外の山は海外の山としてわがブログは足元の山に登る楽しみ、ささやかながらそれの伝道者でありたいと願う。

天白八事散策2008年03月16日

 春の陽気に誘われてつい外出した。新聞で見た新刊書を見るためにまた八事界隈の散策をしながら杁中駅まで歩いた。塩釜駅付近で横道に入り「天白八景」の塩竃神社を経由するつもりが高い所へ迂回してしまったようだ。南向きの日当たりがいい斜面に隙間無く住宅が建っている。さしずめ名古屋の山の手といった雰囲気である。庶民的な住宅なら洗濯物が一杯干されて生活が伺えるがこの一体は外からは伺えない。どの家もきちんと門構えがあり庭木がある。
 たぶんどの家からも外の景色が見えてすこぶる快適そうである。平地の住宅街だとこうはいかない。周囲はみな家が建ちこむとむしろ閉ざしてしまうような生活になりがちである。大雨の際の土砂崩れを心配するが山の斜面は侵食に強い古生層でありむしろ水はけはいいだろう。長久手、大久手といった久手がつく地名は水はけの悪い湿地帯だった名残の地名である。そういう便利な土地こそ庶民の暮らすところであろう。
 瀟洒な喫茶店もある。一度入ったことがある。そこから旧飯田街道に出合う。八事の交差点からは飯田街道を下り杁中に着く。八事興正寺も外から見ると閑散としてみえる。木々の梢もまだ芽吹きはみえない。春はまだ兆したばかりである。
 書店に入るがここはいつも欲しい本がない。それでも来るのは一応大型書店ゆえである。仕方なく御器所まで足を延ばした。ここもないので地下鉄に乗り千種のちくさ正文館にいく。人文系の本はたいていここで間にあう。駐車禁止の取締りの規制が強化されてから車では来にくくなった。駐車料金も本代のコストであるから。
 『小津ごのみ』、平凡社ライブラリー版『北八ッ彷徨』、『山の本』2008年春号など。見てみたい本は全部あった。小津さんの本は新鮮味なく見送り山書だけ買った。『北八ッ彷徨』は2001年の定本をすでに持っているが表紙の美しさについ買ってしまった。ブルーガイドブックスの『八ガ岳』(昭和50年)の中で著者の川口邦雄が概説の中で紹介していたが読んだのは定本が出てからであった。
 千種から再び地下鉄に乗り栄で下車。とりとめなく丸善の山書コーナーを探る。『名古屋周辺の山200コース』『新分県登山ガイド愛知県の山』が平積みになっている。いよいよ春の感を新たにする。車中泊のハウツー本が複数でていた。高速道路が普及してETCの深夜割引をゲットするには車中泊をすることもある。他に食指は動かず。
 石井スポーツの店に寄ったが春スキー用の山の板が多数陳列中だった。今年は遅くまで楽しめるだろう。しかし寂しいことにもう買うものがない。藤蔓のストックリングは製造中止で在庫なし。自作しようかと考えている。雪崩ビーコンは単独で買っても意味がないしね。ウム。

岡島裕史『ウチのシステムはなぜ使えない』を読む2008年03月18日

 久々にIT関係の本書を読んでみた。今勤務先ではレガシーマイグレーションの準備中である。1年以上にわたってソフト会社を探し選定し何度も面談して最適と思われる会社を選んだばかりである。
 たしかにいいSEはいない。何より誠意あるソフト会社が無いに等しい。今のシステムも2000年問題が迫る、と半ば驚かされて構築したものであった。構築というと聞こえがいいがオフコン専用タイプからPCを使ってオフコンのソフトを乗せ変えただけの代物である。しかも高額であった。何もおこらなかった。IT業界はこれで大儲けした。ITバブルに踊らされたのだった。
 本書は発注側の立場でSEの仕事を観察した。なるほどSEは大変な仕事である。それはユーザ側から見ても分かる。聞く以上に待遇は良くないようだ。私も30歳の時勤務先が倒産して職探しの過程でSEの募集を見て心が躍った。時代の最先端を走る職業に思えたからだった。面接に行ったことはいったが説明を聞いて30歳の頭ではもうついて行けない気がして断念した。SEには若いときの挫折からコンプレックスもあるのだ。
 本書は発注側の立場でありながら発注側の実態には触れていない。実はもっと発注側すなわちユーザ側の実態と問題点にまで踏み込まないとすっきりしない。第三部で試みられてはいるが乖離している。著者が学者であってユーザの立場になった切実な体験が無いからであろう。
 大企業はお抱えのSEもいるから多くはオープンシステムに移行を終えているだろう。非常に多数の中小企業ではいまだオフコンを長年使い続けているのが実態である。それがここ十年の内にオープンシステムに移行せざるを得ないらしい。SEの活躍はそこにあると思う。人材不在の企業でどうやって移行を達成するか。そんな問題の解決方法を提案されれば注目されると思う。
 現在のオフコンでは帳票類の印刷機である。中にあるデータを経営資料として活用できない。しかも日々大変な神経を使って入力したデータを印刷後は更新と称して廃棄している。もったいない。以前は紙の帳票をWINマシンに再度入力していたが私の提案でオフコンからTXTデータを取り出してWINに移して活用している。飛躍的にグラフ、経営資料を増やせた。
 だがここまでで精一杯かも知れない。使えないウチのシステムをそんな風にして何とか使っているのだ。副題に失敗学という言葉があるが企業は失敗した(使えない)ままではいられない。知恵、カネ、時間をかけても解決しなければならない。学者なら答えをだしてもらいたい。

天白八事散策2008年03月20日

 八事は坂の町である。なんでも八つの坂が八事交差点に集中するプレートを見た。そのうちの塩竃坂をこの前は登り損ねた。西の空が明るいので雨も午後には止む模様である。荷風よろしく雨傘を持って出かけた。
 塩釜までは植田川を渡る。すると天白川にかかる新音聞橋にあったブルーシートの住いが植田南橋に転居したのか洗濯物を干すロープまで張ってあり定住しているようである。どちらの川も濁流に近い。相当な雨量であった。
 街を抜けて塩竃神社へは少し迷いつつ歩いた。道標があるが鍵形に歩くのでまたうっかり通り過ぎてしまった。それに気づいて坂に戻り急な坂道を登ると塩竃神社はあった。昼前というのに駐車場はもう八歩どおり埋まる。安産と子育ての神様らしい。奥にはもっと広い駐車場もあるので結構盛況のようだ。
 神社をでて更に急な坂を登る。すると御幸山に着いた。国土地理院の地形図でみても一般の字体であり肩聳体ではありません。人が住むようになって山名から地名になってしまったのでしょう。しかしかつては明治天皇が野立をしたという絶景の山上でした。
 私のマンションの自宅から眺めアルプスに見立てて「八事アルプス」と呼称しているが東北の102m三角点(椙山女学園大学辺り)から南西に至ってここより高そうな山はなく急傾斜で植田川に下る丘陵地である。従って夜景が素晴らしいだろう。
 しばらくは高級住宅の間を縫うようにして歩く。するとまた自然に石屋坂(飯田街道=R153)に合流して八事交差点に着いた。例の蝶々をあしらった八つの坂のプレートを確かめた。そのまま参道坂を下る。旧飯田街道に行こうと歩いていたらすーっと市バスが停留所に着いたので栄まで乗車した。
 栄の中区役所7Fで行っている岳人写真展を見学した。初日は500人を超す来場者で賑わったようだ。今日も祝日で結構賑わう。会場をでてから名古屋城の一角にある愛知県図書館に行った。ビデオルームで映画鑑賞を申し込んだら時間切れと聞いて館を辞した。
 入口付近にに今までは気づかなかった横井也有の出生地の看板があった。そうかここで生まれて53歳で隠居し上前津辺りで晩年を過ごした。仕事は尾張藩の重臣だったと看板にあった。
 あるサイトからのコピー
「横井也有は俳人というより俳文家として知られています。最も名高い俳文集に「鶉衣(うずらごろも)」があります。天明の狂歌師大田蜀山人が、たまたまその写本の一部を読んで感激し「鶉衣」の出版に尽力したことは、良く知られています。
 永井荷風は「日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり千年の後と雖も必ず日本文の模範となるべきもの」と「鶉衣」を絶賛しています。」
 とまあ高い評価をうけているのですが今の私にはもう簡単には読めない文ばかりです。
 お堀端を歩いて東区界隈の平坦地を行く。41号に出合っていくと3/22に不発弾の処理を行う旨の大きな看板があり又もかと思う。この辺はよくよく不発弾が多い。新栄から中央線を渡り今池で地下鉄に乗車。本山で乗り換えて八事日赤駅で下車。そこからまたぞろ八事に向って歩いた。八事霊園の脇を通り抜けた。彼岸の墓参はもう盛りをすぎたのか人影は少ない。約5万基の墓があるという。
 勤務先の社長といい老友のNさんといい名古屋っ子は60歳を過ぎると「八事が近い」とか「棺おけに片足を入れた」とかいって老境に入ったことを揶揄する。聞いた当時は本人も含めて笑ったものが今はもう80歳に近くなり笑ってもいられない。八事は人生の終点でもある。山友が八事日赤病院に入院した際に口の悪い友人が霊園も近くにあるから便利だよ、と悪い冗談で励ましたが60代半ばで死んでしまった。口の悪い友人も癌で闘病中でありいずれは自分の身にに跳ね返る。
 霊園を過ぎると花屋に続いて石屋が軒を並べる。そして石屋坂に出た。なんで石屋坂なのか奥まで歩いて分かった。春の暮れの坂道を下った。旨そうなラーメン屋があり入りたくなる。夕食まではまだ少し早い。

会心の山スキー!薙刀山と日岸山を滑る2008年03月23日

 土曜日の午後仕事の引けたW君と合流し骨折後の本格的な山スキーを希望のKさんを瀬戸市で合流して一路白鳥を目指した。行き先は石徹白。30年間も毎年のように通ったが同じ山に何度も登るのでまだ日岸山、よも太郎山、天狗山、初河山が足跡を残していなかった。今回は日岸山を狙った。
 石徹白川を渡った右岸の空き地でテント泊。朧月であるのが気になる。車中泊よりも温かい気がした。午後10時、早めの就寝とした。
 午前3時起床。簡単な朝食、テント撤収、移動とテキパキやったつもりでも出発は4時55分になった。
 林道上には雪が残るも上部の日当たりのいいところや水の多いところではもう雪消であった。折角履いたスキーを脱いで肩に担いで少し歩かされた。日陰になって雪が続いたあたりから又シール登行をする。林道に忠実に登るとロスが多いので右の尾根を登る。6時30分和田山牧場跡に着いた。一面の雪の原である。一本杉のところで休憩。
 台地上を歩くと眼下の凹部も雪の原である。大小3張りのテントがあった。テントの周りで大勢が何やら動いていた。シールのまま滑りこみ、横切った。雪原を蛇行する源流が見られた。登り上がると林道に出合う。そのまま右に行く。野伏ヶ岳から降りてくる北東尾根の付根でKさんと別れた。Kさんは単独で野伏ヶ岳を目指した。
 我々は推高谷へ続く踏み跡を追った。一旦下って尾根に取り付いた。急であるがシールの食いつきが良くて後ずさりしない。グングン高度を上げると薙刀平の一角である。天然のスキー場かと思うほど素晴らしい薙刀平である。森本次男の『樹林の山旅』には今の白鳥高原スキー場も「雪の石徹白高原」の中で葡萄ヶ平と呼ばれた。おそらくここも開発されれば人気を呼ぶだろう。但し冬は北陸特有の天気が悪い。
 日岸山へは薙刀山の東側の斜面をトラバースした。向うに見える平らな尾根を目指したが目前で雪崩の跡があって進退を極めた。パックリ口を開けた雪の層の下には根曲がり笹が顔を出している。立ち木が殆ど無いので危険な個所だ。しかし上を目指すにも急斜面だし、雪崩の止まった下まで下るとロスが大きい。結局シールの食いつきのよさ、気温は高すぎるでもない、との判断で直進した。今にも雪崩れそうな斜面をそうっと静かに通過して危険箇所をパスした。目的の尾根の平らなところに行けた。
 県境稜線にはすぐだった。一旦鞍部に向けてシールのまま滑降。単独行とすれ違う。鞍部で昼食。風が非常に強い。11時、再び県境稜線を登るがまた神鳩の小屋で一泊して銚子ヶ峰、願教寺山から縦走してきた6人パーティーに会う。気持ちよく滑って行った。
 11時40分日岸山登頂。雪の平らな山頂である。三角点は無く地形図に名前が印刷されず石徹白の里からも見えない山ーこんな山こそ不遇な山というべきである。となりのよも太郎は一段低くて行く気がしない。あんな山はやはり下から登るべきだろう。願教寺山はガレているのでよく分かる。銚子ヶ峰、三ノ峰、別山、白山へと続く豪快な展望である。昨年登った芦倉山、丸山、初河山、大日ヶ岳、毘沙門岳、内波川右岸の山並も素晴らしい。赤兎山、大長山、経ヶ岳、荒島岳、部子山辺り。高曇が撮影には今一であるが展望と雪質は最上を保証している。春霞にならなくてよかった。
 12時。シールを剥がして滑降する。実に自在な滑降を楽しめた。薙刀との鞍部にある源流部も素晴らしい山スキーの別天地である。やっぱり薙刀山を越えて登山するのでなくこの山だけを目指す登山がいいだろう。テントを上げて日長山スキーを堪能したいものである。
 鞍部へは12時9分であった。40分の登りも滑降はたった9分である。源流部で再びシールを装着。薙刀を目指す。日岸山よりも低いせいか案外楽なアルバイトで12時45分に薙刀山に登頂できた。私は2回目だがW君は初。それゆえ歓びも一入である。13時、またシールを剥がして滑降。ただし推高谷に滑り込むためにしばらくは稜線沿いにトラバースした。適当なところから薙刀平に入る。緩斜面ゆえ自在に林間滑走を楽しむ。唯一付けた赤布を発見し回収。滑りこむと推高谷の取り付き点にピタリ下れた。谷底から階段登行で急な斜面を登る。和田山に向って滑る。林道跡を忠実に辿ると和田山であった。14時20分であった。1時間20分の所要時間は会心の滑降だった証明である。
 14時50分、中居神社に向けて最後の滑降は林道である。15時35分石徹白川のPに着いた。安全無事に下山できたことを白山の神に感謝した。

春の石徹白2008年03月24日

   俳句

 雪垣の残る里へと峠越ゆ

 朧夜のテントの中で酌み交はす

 湧水が雪間を広げたりしかな

 スキー板担ぎて渡る雪解川

 東雲の雪残る道照らしつつ

 林道は早も雪消やスキー脱ぐ

 春暁を背に石徹白の山を行く

 雪原の中を蛇行の雪解水

 ぽっかりと穴を見せたり雪解谷

 熊笹の露わなところより雪崩れ

 一点の黒見ぬ春の白山は 

 シール取り山の頂ゆ春スキー

 滑降は自在に春のザラメ雪 

 春泥を洗ひ納めるスキー靴

平凡社ライブラリー『日本残酷物語』2(忘れられた土地)を読む2008年03月25日

 石徹白へ行った余韻で再び手にしてみた。一見平和な争いごとなどありそうに無い山の村で実際にあった石徹白騒動。宝暦3年から8年にかけて起きた事件である。
 戦前の『樹林の山旅』は詳細に描いている。著者の森本次男は京都の教師であったが親元は宮司であるからことに関心を持ったであろう。以上は絶版であるが表題の本書は手に入りやすい形で読める。
 宝暦といえば郡上で百姓一揆が起きた年であった。郡上藩は表高と裏高の差が少ない土地であったようだ。裏はもちろん実収であり表は形式上の収量であった。その差が大きいほどやりくりは楽とされた。現代でも役所の裏金が問題になっているが財政にはつき物かもしれない。一々審議を通す手間がなくおいしい思いも出来る。会社の不正会計、家庭でもへそくりがあるのと同じだ。
 そのために検地をやると言い出して郡上一揆の発端となった。白鳥ICに近い「美人の湯」がある辺りで一揆の企てが行われた。それよりも早く石徹白では村を二つに分裂して負けた方は追放という仕打ちを受けていた。しかも96家族、534人が冬の山野を放浪させられた。72人が犠牲になった。新しく支配者となった上村豊前は96の家から略奪の限りを働いた。旧来の支配者だった杉本左近は江戸で出訴して窮状を訴えた。これが聞き入れられ上村豊前は死罪となった。
 石徹白は古くから無主無従の地であった。白山信仰に仕えた神官(御師)の村であり京都の白川家から神職の免許を受けていた。一方で吉田なる勢力が台頭してカネさえ積めば神職の免許をもらえた。上村豊前は吉田と通じ神職を得て石徹白支配を目論み杉本左近らを追放するに至ったのである。
 ところが杉本左近は無事石徹白へ戻れたものの吉田の免許を受けることになったという。何のことはない。幕府の背後で吉田は勢力を固め結局は石徹白を支配したことになった。犠牲になった大勢の人々には何ら報われなかったことになる。
 現代は少しはマシかとつらつら考えるが法王と呼ばれた日銀の総裁が未定のままであることを連想した。自民と民主の駆け引きである。日銀OBと官僚OBのたすき掛け人事の事実。政治の介在するところ必ず泥試合がある。どちらが勝っても長い間のゼロ金利を返してもらえるでもない。ただ命までは奪われないのだから今の世の方がマシと考えていいだろう。
 追放された534人の人たちは着の身着のままで裸足で雪の山野を彷徨ったのだから。ああ!想像することも出来ない。残雪に輝く山々の美しい石徹白の血塗られた歴史を忘れることはない。