国境の島・対馬の山旅④洲藻白嶽 ― 2019年12月31日
上陸後、初めて好天が期待できる日になった。早朝、ホテルを出発。R382から県道24へ左折。すぐに登山口の洲藻だ。田園の彼方にアルペン的な山容がそびえる。あちこちで遠望したが近くになると迫る感じがする。思わず降りて写真を撮る。案内板を見て左折。細い車道を走るとトイレ付のPに着いた。ここからもなお近くに迫ってくる。
車道はいっそう狭くなり、洲藻川から離れて山間の中を走るとまた洲藻川に出て洗堰を渡りヘアピンカーブを右折。未舗装を行くと終点の登山口に着く。早速身支度して出発。しばらくは杉の茂る遊歩道のような広い道を谷沿いに歩き、少しづつ高度が上がり始める。一段と高くなると巨岩を巻いて山道も細くなった。植生も常緑樹に変わる。やがて鳥居の建つ上見坂登山道との分岐だ。ここからも道が傾斜を増しジグザグを切るようになる。地形図では南へ破線路がありその分岐の道標もあったが廃道である。先ほどの鳥居からの道に変わった。道が立ってくるとロープがぶら下がるようになる。
雄嶽と雌嶽の手前の広場からは岩場の間をロープに頼って攀じ登る。乗り越すと向こう側に降りて左折、雄嶽に向かう。石英斑岩と呼ばれる硬い花崗岩のような岩質のグリップ力を確認しながら三転確保で攀じ登り、岩峰を南に回りながら行くと山頂に出る。トップに立つにはさらに数メートルほど滑落に注意しながら攀じ登る。360度の大展望だ。しかし狭いので立って味わうこともできず、少し下って撮影を済ます。
風が強く寒いので山頂を早々に辞した。一旦は鞍部の広場に戻ったが、雌嶽へも踏み跡があるので行ってみた。すると縦に裂けた岩の割れ目があり、白嶽神社の鳥居があり、立入禁止になっていた。これは雌だから女陰なのだ。振り返って雄嶽を仰ぐと男根そのものに見えた。双耳峰の意味は農業信仰なのだ。愛知県にも田縣神社の男根と大縣神社の女陰ともに五穀豊穣を祈願する信仰である。
往路を下山中、まだ時間のゆとりがあるので白岳2等三角点に行けないか、鳥居から上見坂へ入ってみた。道は植林と原始林の境になっており、植林側には有刺鉄線が張ってあった。途中、2か所の谷を渡渉して約25分歩いたが三角点に誘う踏み跡はなかったので引き返した。それでも古い破線路は藪でも歩けないかとまた登り返したが切っ掛けがない。一休みして今度は山頂直下まで登り返して三角点へのルートを探ったが見いだせなかった。往路を下山した。
洲藻まで来ると県道24を左折。対馬の東側の港や漁村に出てみた。県道24号は漁村と漁村をつなぐ道である。美津島町今里から厳原町阿連までは整備された良い道だったが、小茂田までは羊腸の道で運転テクニックを要する大変山岳路だった。小茂田には元寇の犠牲になった記念碑があり見学した。
小茂田からは県道44号を辿れば厳原町に行ける。途中、日見川の橋の近くに白嶽の案内板があった。古い登山道があったのだろう。上見坂公園への案内板を見るが、道はすぐに佐須坂トンネルに入り、抜けるとR382に出て右折すると厳原町市街地になった。
車道はいっそう狭くなり、洲藻川から離れて山間の中を走るとまた洲藻川に出て洗堰を渡りヘアピンカーブを右折。未舗装を行くと終点の登山口に着く。早速身支度して出発。しばらくは杉の茂る遊歩道のような広い道を谷沿いに歩き、少しづつ高度が上がり始める。一段と高くなると巨岩を巻いて山道も細くなった。植生も常緑樹に変わる。やがて鳥居の建つ上見坂登山道との分岐だ。ここからも道が傾斜を増しジグザグを切るようになる。地形図では南へ破線路がありその分岐の道標もあったが廃道である。先ほどの鳥居からの道に変わった。道が立ってくるとロープがぶら下がるようになる。
雄嶽と雌嶽の手前の広場からは岩場の間をロープに頼って攀じ登る。乗り越すと向こう側に降りて左折、雄嶽に向かう。石英斑岩と呼ばれる硬い花崗岩のような岩質のグリップ力を確認しながら三転確保で攀じ登り、岩峰を南に回りながら行くと山頂に出る。トップに立つにはさらに数メートルほど滑落に注意しながら攀じ登る。360度の大展望だ。しかし狭いので立って味わうこともできず、少し下って撮影を済ます。
風が強く寒いので山頂を早々に辞した。一旦は鞍部の広場に戻ったが、雌嶽へも踏み跡があるので行ってみた。すると縦に裂けた岩の割れ目があり、白嶽神社の鳥居があり、立入禁止になっていた。これは雌だから女陰なのだ。振り返って雄嶽を仰ぐと男根そのものに見えた。双耳峰の意味は農業信仰なのだ。愛知県にも田縣神社の男根と大縣神社の女陰ともに五穀豊穣を祈願する信仰である。
往路を下山中、まだ時間のゆとりがあるので白岳2等三角点に行けないか、鳥居から上見坂へ入ってみた。道は植林と原始林の境になっており、植林側には有刺鉄線が張ってあった。途中、2か所の谷を渡渉して約25分歩いたが三角点に誘う踏み跡はなかったので引き返した。それでも古い破線路は藪でも歩けないかとまた登り返したが切っ掛けがない。一休みして今度は山頂直下まで登り返して三角点へのルートを探ったが見いだせなかった。往路を下山した。
洲藻まで来ると県道24を左折。対馬の東側の港や漁村に出てみた。県道24号は漁村と漁村をつなぐ道である。美津島町今里から厳原町阿連までは整備された良い道だったが、小茂田までは羊腸の道で運転テクニックを要する大変山岳路だった。小茂田には元寇の犠牲になった記念碑があり見学した。
小茂田からは県道44号を辿れば厳原町に行ける。途中、日見川の橋の近くに白嶽の案内板があった。古い登山道があったのだろう。上見坂公園への案内板を見るが、道はすぐに佐須坂トンネルに入り、抜けるとR382に出て右折すると厳原町市街地になった。
国境の島・対馬の山旅③観音岳と姫神山 ― 2019年12月30日
昨夜のうちに考えたのは今日も天気がよくないので、とりあえず超低山の観音岳をやることにした。139mのミニだが1等三角点がある。しかも登山道がない。しかし所詮は比高140mに満たないのだから何とかなる。と、オテド(落土)を目指す。美津島町と豊玉町の境に来たら右折、すぐに右折して小さな峠を越すと見世浦に着く。行けるところまで行くがオテドへの入り口が見えない。戻ってまた来てみるとバス亭の「落土」が目に止まった。ここを入ると小さくのり越す。着いたところが細い入り江が食い込むオテドだった。マイカーは空き地に止めて、北へ湿地帯を奥へ行くとテープ類がぶら下がる。右手の北東の林に入り小さな鞍部を越える。ここからは海とは小さな自然の堤に囲まれた草地(夏は湿地)の中の踏み跡とテープを追う。さっきと同じ北東に林を分け入る。ここも小さな鞍部があり、右にもテープがあるので違うとは思うが行ってみたら小さなコブだった。海がよく見える。そして北を見ると目指す観音岳が尖がっている。鞍部に下り、前衛に向かうがかすかに踏み跡はある。まずは高いところへヤブコギで登った。すると潅木の切り開きがあるのでそれをたどると目前に観音岳が見えた。切り開きをそろそろ下って鞍部から急登すると山頂だった。10寺30分に出発して約1時間かかった。
対馬の中間にあり、北の平岳、南の有明山と結ぶ三角測量の基幹である。沖ノ島(一ノ嶽:宗像市243.6m)と有明山、平岳で△網になる。観音岳は補点かも知れません。
下山は比較的踏み跡がよく見えて早く下れた。上陸第一号なのでこのまま帰るのも詰まらないのでオテドを散策してみた。近くの家は留守らしい。最奥まで行くと、Oさん宅で行き止まり。入り口の戸が開いていたので声をかけたら奥さんが出てこられた。
今、観音岳に登ってきたばかりです、と自己紹介。すると奥へ観音岳に行ってきたそうだよ、とご主人に声をかけていた。出てきたご主人は如何にも海の男らしく赤銅色の顔だった。島津亜矢の歌「海鳴りのうた」に出てきそうな漁師さんであった。しばらくは観音岳談義になった。曰く、以前に行方不明騒ぎがあったこと、途中の電信柱は自分等が工事したこと、その柱にしたがって行けば行けるが忠実に行くと長崎鼻へ行ってしまうとのことだった。
観音岳談義が終わると、家族の話に移った。愛知県から対馬の山に登りに来たんです、と言うと内の息子もみよし市に住んでおり、アイシンに勤務しているとのことだった。みよし市なら私の自宅からは近いね、と。じゃあ、もうこの家には帰らないね、1人10万円はかかるからな、と。しかしこの家は残してくれと(息子は)言うそうだ。夏になれば孫たち19人が帰ってきて目の前の浅瀬で海に潜って遊ぶとか。
このオテドも昔は20軒あったが今は2軒だけ残った。いずれ限界集落として立ち退くことになるだろう。しかし、あそこの海で20m潜ってあわびを採ったとか、台風が来ると屋根まで波がかぶるとか、そんな野性的な生活はできまい。都会生活になるとトイレの水も有料になる暮らしになる。自然から遠ざかるなんて耐えられないだろうに。もう70代になるとか、島津亜矢の「帰らんちゃよか」の歌を思い出す。
そこまでで世間話を打ち切ってオテドを後にした。姫神山の砲台跡を見学して宿に戻った。いい一日だった。
対馬の中間にあり、北の平岳、南の有明山と結ぶ三角測量の基幹である。沖ノ島(一ノ嶽:宗像市243.6m)と有明山、平岳で△網になる。観音岳は補点かも知れません。
下山は比較的踏み跡がよく見えて早く下れた。上陸第一号なのでこのまま帰るのも詰まらないのでオテドを散策してみた。近くの家は留守らしい。最奥まで行くと、Oさん宅で行き止まり。入り口の戸が開いていたので声をかけたら奥さんが出てこられた。
今、観音岳に登ってきたばかりです、と自己紹介。すると奥へ観音岳に行ってきたそうだよ、とご主人に声をかけていた。出てきたご主人は如何にも海の男らしく赤銅色の顔だった。島津亜矢の歌「海鳴りのうた」に出てきそうな漁師さんであった。しばらくは観音岳談義になった。曰く、以前に行方不明騒ぎがあったこと、途中の電信柱は自分等が工事したこと、その柱にしたがって行けば行けるが忠実に行くと長崎鼻へ行ってしまうとのことだった。
観音岳談義が終わると、家族の話に移った。愛知県から対馬の山に登りに来たんです、と言うと内の息子もみよし市に住んでおり、アイシンに勤務しているとのことだった。みよし市なら私の自宅からは近いね、と。じゃあ、もうこの家には帰らないね、1人10万円はかかるからな、と。しかしこの家は残してくれと(息子は)言うそうだ。夏になれば孫たち19人が帰ってきて目の前の浅瀬で海に潜って遊ぶとか。
このオテドも昔は20軒あったが今は2軒だけ残った。いずれ限界集落として立ち退くことになるだろう。しかし、あそこの海で20m潜ってあわびを採ったとか、台風が来ると屋根まで波がかぶるとか、そんな野性的な生活はできまい。都会生活になるとトイレの水も有料になる暮らしになる。自然から遠ざかるなんて耐えられないだろうに。もう70代になるとか、島津亜矢の「帰らんちゃよか」の歌を思い出す。
そこまでで世間話を打ち切ってオテドを後にした。姫神山の砲台跡を見学して宿に戻った。いい一日だった。
国境の島・対馬の山旅②対馬へ上陸 ― 2019年12月29日
午前4時半ごろ、対馬の厳原港に入港。しかし周囲は真っ暗だ。スマホに有明山の登山口を入力してみたが今は廃道という万松院へ行くとUターンせよという。また舞い戻って、6時過ぎ、ホテル探しを始めた。東横インが空いていたので窓口まで行って12/31まで抑えた。応接掛の女性は阿比留さんという。いかにも対馬へ来たという気にさせるお名前である。司馬の『壱岐・対馬』に出てくる。
天気は曇り。芳しくないので、島の北までドライブで偵察行にした。R382を北上。未知の土地を走るのは面白い。万関瀬戸の風景が面白いのでここで長く遊んだ。かつて海軍がつながっていた土地を開削して軍艦が通過できるように運河を建設した。対馬海峡の流れは対馬に当り、西水道と東水道に分流する。西から東へとかなり早く流れている。ここに発電機を設置すれば海流で電気を起せるのではないか、などと夢想。
午後になり、万関園地へクルマで登ると展望台があり、さっき見た白嶽の双児峰(雄岳と雌岳)がよく見える。ここにもメボシマ山70mの3等三角点が土盛して保全されていた。上陸第一号の三角点である。ここでガスコンロでお湯を沸かしアルミ鍋のうどんを食した。ここなら管理されたトイレの水道もあるし近くに民家もないので安心して車中泊できそうだ。Pの外にはゴミが多いのが残念。
どんどん北上して、『街道をゆく 壱岐・対馬』に出てくる佐須奈を通過。比田勝まで走った。ここだけは国際港らしい雰囲気はあった。上対馬町泉まで行って引き返す。途中、何があるかと左折、何と東横イン対馬比田勝が建っていた。となりに上対馬温泉渚の湯が営業中だったので入湯した。ガラガラである。ここも海岸付近のトイレが利用でき車中泊が可能だ。後はR382を厳原まで戻った。途中の美津島町鷄知(ケチ)には大きなスーパーが集積(食品、ドラッグ、ホームセンターなど)しており、今夜の夕食と酒を買った。
鷄知は阿比留さんの営業用看板も多い。宗氏以前の支配者の末裔であろうか。約80km以上はあり着いたのは夜になった。
天気は曇り。芳しくないので、島の北までドライブで偵察行にした。R382を北上。未知の土地を走るのは面白い。万関瀬戸の風景が面白いのでここで長く遊んだ。かつて海軍がつながっていた土地を開削して軍艦が通過できるように運河を建設した。対馬海峡の流れは対馬に当り、西水道と東水道に分流する。西から東へとかなり早く流れている。ここに発電機を設置すれば海流で電気を起せるのではないか、などと夢想。
午後になり、万関園地へクルマで登ると展望台があり、さっき見た白嶽の双児峰(雄岳と雌岳)がよく見える。ここにもメボシマ山70mの3等三角点が土盛して保全されていた。上陸第一号の三角点である。ここでガスコンロでお湯を沸かしアルミ鍋のうどんを食した。ここなら管理されたトイレの水道もあるし近くに民家もないので安心して車中泊できそうだ。Pの外にはゴミが多いのが残念。
どんどん北上して、『街道をゆく 壱岐・対馬』に出てくる佐須奈を通過。比田勝まで走った。ここだけは国際港らしい雰囲気はあった。上対馬町泉まで行って引き返す。途中、何があるかと左折、何と東横イン対馬比田勝が建っていた。となりに上対馬温泉渚の湯が営業中だったので入湯した。ガラガラである。ここも海岸付近のトイレが利用でき車中泊が可能だ。後はR382を厳原まで戻った。途中の美津島町鷄知(ケチ)には大きなスーパーが集積(食品、ドラッグ、ホームセンターなど)しており、今夜の夕食と酒を買った。
鷄知は阿比留さんの営業用看板も多い。宗氏以前の支配者の末裔であろうか。約80km以上はあり着いたのは夜になった。
国境の島・対馬の山旅①ロングドライブ ― 2019年12月28日
12/27の午後4時前、名古屋の自宅を発つ。スマホのナビにしたがう。まずは関ヶ原から湖北、湖西へ行き、雪混じりの雨の中を小浜市へ行く。小浜市から舞鶴市を経て福知山市からはR9を鳥取市、島根県松江市、浜田市へ。途中、休憩と仮眠をいれながらひたすらに走った。浜田市から萩市を経て南下し、無料の山陰道を走るうちに美祢東JCTで有料の中国道に誘い込まれた。後は門司まで行くが旧小倉市が分かりにくくて、おまけに北九州文学館はリニューアル中と知りパス。R3で福岡市博多を目指す。壱岐・対馬フェリーか九州郵船のフェリー乗り場ではなく、那の津地区にあると分かった。スマホでも迷わされた。午後10時からの乗船には十分間に合った。12/29の零時10分に出港。
対州は大山国やほととぎす 河野静雲 ― 2019年12月22日
「(一社)対馬観光物産協会ブログ」から
2011年 1/11 【高浜虚子の歌碑】
上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、正岡子規の弟子、高浜虚子の俳句です。
「対州は 大山国や ほととぎす」
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と(^_^;)
対州は対馬の古い呼び方です。
以上
・・・簡単明瞭な俳句です。虚子ではなく、河野静雲と思われます。高浜虚子の弟子で福岡市の俳人です。大山国はおおやまぐに、と読むんでしょう。5万図3枚でカバーする中堅的な規模の島嶼です。
『魏志倭人伝』の一節はHPからコピペすると
原文
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」
読下し文
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」
口語訳
「始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。」
2011年 1/11 【高浜虚子の歌碑】
上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、正岡子規の弟子、高浜虚子の俳句です。
「対州は 大山国や ほととぎす」
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と(^_^;)
対州は対馬の古い呼び方です。
以上
・・・簡単明瞭な俳句です。虚子ではなく、河野静雲と思われます。高浜虚子の弟子で福岡市の俳人です。大山国はおおやまぐに、と読むんでしょう。5万図3枚でカバーする中堅的な規模の島嶼です。
『魏志倭人伝』の一節はHPからコピペすると
原文
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」
読下し文
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」
口語訳
「始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。」
司馬遼太郎・街道をゆく『壱岐・対馬の道』を読む ― 2019年09月23日
HPから目次をコピペする。
【壱岐・対馬の道】対馬の人/壱岐の卜部/唐人神/宅麿のこと/壱岐の田原/郷ノ浦/豆腐譚/曾良の墓/曽祖父の流刑地/神皇寺跡の秘仏/風濤/志賀の荒雄/厳原/国昌寺/対馬の〝所属〟/雨森芳洲/告身/溺谷/祭天の古俗/巨済島/山ぶどう/佐護の野/赤い米/千俵蒔山/佐須奈の浦
この中の対馬の”所属”、雨森芳洲を読んだ。p165から申維翰(しんゆはん)の『海游録』(東洋文庫252)を引いて、朝鮮人と日本人の考え方の違いを解説する文は、現代にも通じる。芳洲はこの人物の扱いに困惑した。対馬藩主は申と会わずにことを治めた。
申は現代でいえば、文大統領だ。申は朝鮮人官僚を自縄自縛してしまったというのだ。これもまた儒教の弊害であろう。福沢が「封建制は親の仇」と嘆いたのも儒教の毒が回った封建制のことである。新しい時代を開明してゆくには儒教は弊害になる。戦前の李氏朝鮮は日本が徹底的に儒教を叩き壊したから発展を見たがしょせん自分の頭ではなかったから今に至るまで抵抗がある。
芳洲は長寿を得てこの対馬の土になった。長寿院に葬られた。「市指定史跡。江戸時代有数の儒学者として知られた人物の墓。」と紹介されている。
対馬に曽良の墓があるとは意外だ。観光用HPには「江戸幕府の命により諸国の実態調査員である巡見使に任命された河合曽良は1710年、この任務のため壱岐に渡った際、病に倒れ、この地に没しました。」とあるからホントに死んだのだろう。
・・・対馬には1等三角点が3座あり、最高点の矢立山648m、白嶽なども良い山だ。いつかは登山と芳洲の墓を訪問する目的で行きたい。
俳人の高浜虚子も訪れている。こんな句碑もある。
「上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、
「対州は 大山国や ほととぎす」 虚子
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と」
【壱岐・対馬の道】対馬の人/壱岐の卜部/唐人神/宅麿のこと/壱岐の田原/郷ノ浦/豆腐譚/曾良の墓/曽祖父の流刑地/神皇寺跡の秘仏/風濤/志賀の荒雄/厳原/国昌寺/対馬の〝所属〟/雨森芳洲/告身/溺谷/祭天の古俗/巨済島/山ぶどう/佐護の野/赤い米/千俵蒔山/佐須奈の浦
この中の対馬の”所属”、雨森芳洲を読んだ。p165から申維翰(しんゆはん)の『海游録』(東洋文庫252)を引いて、朝鮮人と日本人の考え方の違いを解説する文は、現代にも通じる。芳洲はこの人物の扱いに困惑した。対馬藩主は申と会わずにことを治めた。
申は現代でいえば、文大統領だ。申は朝鮮人官僚を自縄自縛してしまったというのだ。これもまた儒教の弊害であろう。福沢が「封建制は親の仇」と嘆いたのも儒教の毒が回った封建制のことである。新しい時代を開明してゆくには儒教は弊害になる。戦前の李氏朝鮮は日本が徹底的に儒教を叩き壊したから発展を見たがしょせん自分の頭ではなかったから今に至るまで抵抗がある。
芳洲は長寿を得てこの対馬の土になった。長寿院に葬られた。「市指定史跡。江戸時代有数の儒学者として知られた人物の墓。」と紹介されている。
対馬に曽良の墓があるとは意外だ。観光用HPには「江戸幕府の命により諸国の実態調査員である巡見使に任命された河合曽良は1710年、この任務のため壱岐に渡った際、病に倒れ、この地に没しました。」とあるからホントに死んだのだろう。
・・・対馬には1等三角点が3座あり、最高点の矢立山648m、白嶽なども良い山だ。いつかは登山と芳洲の墓を訪問する目的で行きたい。
俳人の高浜虚子も訪れている。こんな句碑もある。
「上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、
「対州は 大山国や ほととぎす」 虚子
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と」
薩摩の山と風雪流れ旅 ― 2015年01月18日
12/29の夜、名古屋を発って12/30昼、鹿児島県に着く。
風狂の薩摩の山へ晦日にて
12/30 清見岳
池田湖の彼方開聞岳眠る
みんなみの薩摩半島冬霞
青々と薩摩の山の冬木立
冬の日を浴びて嬉しき山の村
人影の無き山村や石蕗の花
小家建つ山懐に石蕗の花
12/31 御岳と甫与志岳
冬空に高隈山の双耳峰
冬空に噴煙高く桜島
大枯野湾曲鳴之尾牧場
擂鉢のやうなる冬の牧場
高隈山(たかくま)の冬でも青き尾根を行く
塔の上の手水鉢に氷張る
大晦日高隈山に登頂す
甫与志岳
登頂と同時に霰降りにけり
雪雲が押しよせて来ぬ甫与志岳
1/1 権現ノ尾と野間岳
薩摩なる権現ノ尾に雪しまき
枯芝に埋まる一等三角点
帽子飛ぶほどの風雪吹きまくる
野間岳
野間岳にいよよますます雪降れり
初詣岬の山の寂しさよ
知覧特攻平和会館
隊員の涙か冬の雨降れり(知覧護国神社)
館内を暖める記事や赤崎氏(南九州市出身)
1/2 帰名
冬ぬくき都城を訪ねおり
風狂の薩摩の山へ晦日にて
12/30 清見岳
池田湖の彼方開聞岳眠る
みんなみの薩摩半島冬霞
青々と薩摩の山の冬木立
冬の日を浴びて嬉しき山の村
人影の無き山村や石蕗の花
小家建つ山懐に石蕗の花
12/31 御岳と甫与志岳
冬空に高隈山の双耳峰
冬空に噴煙高く桜島
大枯野湾曲鳴之尾牧場
擂鉢のやうなる冬の牧場
高隈山(たかくま)の冬でも青き尾根を行く
塔の上の手水鉢に氷張る
大晦日高隈山に登頂す
甫与志岳
登頂と同時に霰降りにけり
雪雲が押しよせて来ぬ甫与志岳
1/1 権現ノ尾と野間岳
薩摩なる権現ノ尾に雪しまき
枯芝に埋まる一等三角点
帽子飛ぶほどの風雪吹きまくる
野間岳
野間岳にいよよますます雪降れり
初詣岬の山の寂しさよ
知覧特攻平和会館
隊員の涙か冬の雨降れり(知覧護国神社)
館内を暖める記事や赤崎氏(南九州市出身)
1/2 帰名
冬ぬくき都城を訪ねおり
南九州一等三角点の山旅④ 都城市の旧友を訪ねる ― 2015年01月03日
鹿児島県の1等三角点を訪ねる山旅は結局薩摩半島から3座、大隅半島から2座という成果を得た。天気は今一だったが全国的に荒れたので仕方ない。映画「ローマの休日」のアン王女ではないが、それぞれに良いところがあって一概に甲乙は付けがたい。でもやっぱり高隈山が良かったと思う。以前から登りたいと思っていた山は唯一高隈山だった。
さて、2日の朝も朝食バイキングを楽しんだ。荷物を片付けて車に運びこむともう帰名するだけである。その前に以前から訪ねたい人がいた。宮崎県都城市に住む人だ。もう40年来会っていないエスペランチストのTさんだった。といっても今も現役か分からない。深い交流はなかったが不思議と忘れがたい人であった。
20歳前後の頃、指導者のMさんを中心に交流があった。私は豊橋市に行き、その後名古屋に転居。Tさんは親の面倒を見るということで帰郷された。以来音信は不通だったが、昨年、2009年のMさんの死後、文集を出版することになりTさんがワープロ作成を手伝った関係で久々に名前を聞いた。
帰名する前に都城市へ迂回するようにR10を走った。右には終始冠雪した桜島が見える。手前まで来たところで電話すると驚かれた。声を交わすだけでも良かったのだが、自宅に招かれた。
都城市は盆地で高い建物がないのですっきりした街である。青空に高千穂峰があの独特の姿で迎えてくれた。他県が曇りでもここは晴れているらしい。霧島連山が雪雲を遮っているのだろうか。
Tさんの家は飲食店を経営している。丁度お孫さんたちが参集して賑やかだった。頭髪が少し白くなった他は印象は変わっていない。それはお互い様である。
長期間のブランクにもかかわらず話が弾んだ。ちょっと顔見世の積りが昼食もいただき、午後2時を回ってしまった。話の種はいくらでも出てくるのでそこを遮って名古屋での再会を約して別れた。
R10に戻り、宮崎自動車道に入った。高千穂峰が素晴らしい。九州道に入っても車は順調に走れたが北へ近づくほどに渋滞に悩んだ。特に古賀SA付近は緩やかな上り坂で、しかもSAに入る車が行列をしている。すっかり夜になってしまった。植木IC辺りでは明るかったが北部は次々、長崎や大分からの支線から本線への車が集まってくるから尚更だ。本州へ渡るとさすがに渋滞はなかったが路面の凍結があって全体に速度制限を余儀なくされた。姫路辺りから夜が明けて京都のSAで朝食にした。新名神、東名阪、伊勢湾岸道を走り抜けて自宅に着いたのが、1/3の11時近くになった。荷を片付けてとりあえず、洗車と給油に向かった。ボディは塩で白っぽいからすぐに洗っておきたかった。走った距離は2600kmを越えた。片道では1100km位である。現地で500km位は走り回ったことになる。こうして南九州のピークハントは終わった。
さて、2日の朝も朝食バイキングを楽しんだ。荷物を片付けて車に運びこむともう帰名するだけである。その前に以前から訪ねたい人がいた。宮崎県都城市に住む人だ。もう40年来会っていないエスペランチストのTさんだった。といっても今も現役か分からない。深い交流はなかったが不思議と忘れがたい人であった。
20歳前後の頃、指導者のMさんを中心に交流があった。私は豊橋市に行き、その後名古屋に転居。Tさんは親の面倒を見るということで帰郷された。以来音信は不通だったが、昨年、2009年のMさんの死後、文集を出版することになりTさんがワープロ作成を手伝った関係で久々に名前を聞いた。
帰名する前に都城市へ迂回するようにR10を走った。右には終始冠雪した桜島が見える。手前まで来たところで電話すると驚かれた。声を交わすだけでも良かったのだが、自宅に招かれた。
都城市は盆地で高い建物がないのですっきりした街である。青空に高千穂峰があの独特の姿で迎えてくれた。他県が曇りでもここは晴れているらしい。霧島連山が雪雲を遮っているのだろうか。
Tさんの家は飲食店を経営している。丁度お孫さんたちが参集して賑やかだった。頭髪が少し白くなった他は印象は変わっていない。それはお互い様である。
長期間のブランクにもかかわらず話が弾んだ。ちょっと顔見世の積りが昼食もいただき、午後2時を回ってしまった。話の種はいくらでも出てくるのでそこを遮って名古屋での再会を約して別れた。
R10に戻り、宮崎自動車道に入った。高千穂峰が素晴らしい。九州道に入っても車は順調に走れたが北へ近づくほどに渋滞に悩んだ。特に古賀SA付近は緩やかな上り坂で、しかもSAに入る車が行列をしている。すっかり夜になってしまった。植木IC辺りでは明るかったが北部は次々、長崎や大分からの支線から本線への車が集まってくるから尚更だ。本州へ渡るとさすがに渋滞はなかったが路面の凍結があって全体に速度制限を余儀なくされた。姫路辺りから夜が明けて京都のSAで朝食にした。新名神、東名阪、伊勢湾岸道を走り抜けて自宅に着いたのが、1/3の11時近くになった。荷を片付けてとりあえず、洗車と給油に向かった。ボディは塩で白っぽいからすぐに洗っておきたかった。走った距離は2600kmを越えた。片道では1100km位である。現地で500km位は走り回ったことになる。こうして南九州のピークハントは終わった。
南九州一等三角点の山旅③ 権現ヶ尾と野間岳 ― 2015年01月01日
今日は元旦だ。全国各地の神社仏閣は初詣で賑わっていることだろう。1等三角点教の信徒としてはまず権現ヶ尾484.5mを目指した。ホテルの美味しい朝食バイキングも2回目で要領を覚えた。正月らしく料理も揃っている。洋風雑煮もあった。コーヒーも飲みたいだけ飲める。
権現ヶ尾へ
ホテルを出てR225から県道20号に入る。途中の錦江高原ホテルへ左折。再び左折してそこを目指す。雪が降っているので合羽を着た。ホテルのフロントに風の丘への通行許可をもらいに行く。所定のカードを預かった。徒歩10分くらいらしいがありがたく車で楽させてもらった。風の丘らしく風車が1基据えつけてある。かなりの強さの風雪混じりで帽子が飛ばされた。少しよろけながらヨーロッパのお城のような建物の階段を上がる。建物の山頂にちゃんと1等三角点が埋まっていたのには感心した。2015年の最初の三角点であるがこの風と雪では長居は出来ない。早々に下った。雪は少し積もりそうなくらい降ってきた。急いで下りフロントにカードを返却した。ホテルからは鹿児島湾、桜島などの夜景が楽しめそうだ。ゴルフ場であるが泊まるたけに来ても良い。
ホテルを出ると次は野間岳を目指した。県道20号からR270、R226と走る。野間岳は野間岬からそそり立つような絶壁の上に聳える山で南さつま市辺りから遠望すると開聞岳をスケールダウンした山容に見える。最初はあれっ、開聞岳が見えるのかな、と思った。
野間岳へ
アクセスはいくつもあるが地図で見当をつけて笠松から入った。峠を越すと立派な山容の野間岳が現れて車を止めて眺め、写真も撮った。少し先まで下ると黒瀬と祓川を結ぶ県道に出て、野間岳への道標まで現れてあとは椎木からスムーズに登山口まで来れた。野間岳の登山口は野間神社である。今日は元旦とあって清められた境内には淑気があった。登山靴に履き替えて野間岳まで0.7kmの道標に導かれて神社への石段を登る。宮司さんは1人で頑張って居られた。高い杉の方に道標があり、そこから遊歩道が続いていた。最初はセメントで固められていたが、泥んこの道に変わった。登山道は全体に照葉樹林の下で何も見えないが、途中には東シナ海を眺めるポイントが2ヶ所あった。低い割には高度感がある。登るほどに急登になり岩を攀じる。鉄の鎖もあって急峻な登山道を安全に登れるように配慮されていた。
山頂に着くとまた雪が降ってきた。こんな南西の山で雪だなんて。実は北西の季節風の影響をまともに受けるからで、今日でも宮崎県の方は晴れているのである。薩摩半島の東端の1等三角点に登ったことになる。
海は俯瞰できたが、360度の展望は天気のせいで駄目だった。粘ってもだめと諦めてくだった。神社に下ると誰も居なくなっていた。正月というのに淋しい。社務所に寄った。名古屋から来ました、と告げると、僕も名古屋に居た、というではないか。よく聞くと伊勢の皇學館大学のOBだった。皇學館大の博物館こも行ったことがある、とか、神宮といえばそれは伊勢神宮のこと、とか、日本三大遊郭だった古市の話もして少し話がシンクロしてきた。懐かしそうにされた。次は下山岳ですが、この雨では中止して、知覧特攻平和会館にと告げて去った。ここが初詣になった。
登山口のPまで来ると女性の登山者2人とすれ違った。登りに来る人も居たのだ。
知覧特攻平和会館へ
椎木まで下って黒瀬から野間半島を一周した。国道からも野間岳の岩壁が良く見えた。半島の先端には九州電力の風車があった。行ってみたが遊べるような施設はなかった。R226から県道、R225、また県道を走り南九州市の知覧特攻平和会館を目指した。
小高い丘にあった。また雪が舞うので傘をさした。知覧の護国神社に参拝後、平和会館に入館。すると目に飛び込んできたのはノーベル賞受賞の赤崎先生の新聞記事だった。へー、ここが出身地だったのか。名古屋では鹿児島県出身というくらいの紹介であるから気がつかなかった。先生は継続は力なり、を実践。その哲学の背景には若くして国のために命を犠牲にした同胞への無念の思いがあったのか。研究成果を挙げるまでの道のりは臥薪嘗胆の言葉が似合う。
入館して一回りする。400名以上の特攻隊員の遺書と写真がある。中には当時日本国だった朝鮮人の名前もあった。朝鮮の人らも日本人として戦ったのである。敗戦後は戦勝国を気取り、狼藉を働いた人と同じとは思えない。それにしてもこれだけあると涙がこぼれそうになる。
「ホタル」という映画にもなったようだ。私をここへ連れてきたのは映画「永遠のゼロ」だった。沖縄を米軍に奪取されまいと最後の手段として特攻が考えられたらしい。当時としてはこれしかなかったのだろう。
W・ウェストンの『日本アルプス 登山と探検』(英文)の冒頭にこう書いてある。「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『『日本アルプス 登山と探検』(英文)を著す。明治29年の発刊である。
この英人宣教師にして登山家は「おそらくどんな自己犠牲でも払える」と看破している。特攻の精神を見るとまさにその通りであった。鬼畜米英は日本民族の性格を知り抜いた上で石油禁輸で挑発し、戦争に引きずり込んだのであろう。調子に乗って戦線を広げすぎたこともあるが、「どんな自己犠牲でも払う」という性格はわが民族独自の性格なのであろう。だから畏怖され、孤立することもあるのだ。
ますます降雪強まった知覧を後にした。ホテルへは県道23号を辿った。R225からは桜島が冠雪していた。美しい。
一等の徒に風雪のお元日 拙作
日本の南の果や初詣 拙作
シナ海の怒涛寄せ来る冬の海 拙作
権現ヶ尾へ
ホテルを出てR225から県道20号に入る。途中の錦江高原ホテルへ左折。再び左折してそこを目指す。雪が降っているので合羽を着た。ホテルのフロントに風の丘への通行許可をもらいに行く。所定のカードを預かった。徒歩10分くらいらしいがありがたく車で楽させてもらった。風の丘らしく風車が1基据えつけてある。かなりの強さの風雪混じりで帽子が飛ばされた。少しよろけながらヨーロッパのお城のような建物の階段を上がる。建物の山頂にちゃんと1等三角点が埋まっていたのには感心した。2015年の最初の三角点であるがこの風と雪では長居は出来ない。早々に下った。雪は少し積もりそうなくらい降ってきた。急いで下りフロントにカードを返却した。ホテルからは鹿児島湾、桜島などの夜景が楽しめそうだ。ゴルフ場であるが泊まるたけに来ても良い。
ホテルを出ると次は野間岳を目指した。県道20号からR270、R226と走る。野間岳は野間岬からそそり立つような絶壁の上に聳える山で南さつま市辺りから遠望すると開聞岳をスケールダウンした山容に見える。最初はあれっ、開聞岳が見えるのかな、と思った。
野間岳へ
アクセスはいくつもあるが地図で見当をつけて笠松から入った。峠を越すと立派な山容の野間岳が現れて車を止めて眺め、写真も撮った。少し先まで下ると黒瀬と祓川を結ぶ県道に出て、野間岳への道標まで現れてあとは椎木からスムーズに登山口まで来れた。野間岳の登山口は野間神社である。今日は元旦とあって清められた境内には淑気があった。登山靴に履き替えて野間岳まで0.7kmの道標に導かれて神社への石段を登る。宮司さんは1人で頑張って居られた。高い杉の方に道標があり、そこから遊歩道が続いていた。最初はセメントで固められていたが、泥んこの道に変わった。登山道は全体に照葉樹林の下で何も見えないが、途中には東シナ海を眺めるポイントが2ヶ所あった。低い割には高度感がある。登るほどに急登になり岩を攀じる。鉄の鎖もあって急峻な登山道を安全に登れるように配慮されていた。
山頂に着くとまた雪が降ってきた。こんな南西の山で雪だなんて。実は北西の季節風の影響をまともに受けるからで、今日でも宮崎県の方は晴れているのである。薩摩半島の東端の1等三角点に登ったことになる。
海は俯瞰できたが、360度の展望は天気のせいで駄目だった。粘ってもだめと諦めてくだった。神社に下ると誰も居なくなっていた。正月というのに淋しい。社務所に寄った。名古屋から来ました、と告げると、僕も名古屋に居た、というではないか。よく聞くと伊勢の皇學館大学のOBだった。皇學館大の博物館こも行ったことがある、とか、神宮といえばそれは伊勢神宮のこと、とか、日本三大遊郭だった古市の話もして少し話がシンクロしてきた。懐かしそうにされた。次は下山岳ですが、この雨では中止して、知覧特攻平和会館にと告げて去った。ここが初詣になった。
登山口のPまで来ると女性の登山者2人とすれ違った。登りに来る人も居たのだ。
知覧特攻平和会館へ
椎木まで下って黒瀬から野間半島を一周した。国道からも野間岳の岩壁が良く見えた。半島の先端には九州電力の風車があった。行ってみたが遊べるような施設はなかった。R226から県道、R225、また県道を走り南九州市の知覧特攻平和会館を目指した。
小高い丘にあった。また雪が舞うので傘をさした。知覧の護国神社に参拝後、平和会館に入館。すると目に飛び込んできたのはノーベル賞受賞の赤崎先生の新聞記事だった。へー、ここが出身地だったのか。名古屋では鹿児島県出身というくらいの紹介であるから気がつかなかった。先生は継続は力なり、を実践。その哲学の背景には若くして国のために命を犠牲にした同胞への無念の思いがあったのか。研究成果を挙げるまでの道のりは臥薪嘗胆の言葉が似合う。
入館して一回りする。400名以上の特攻隊員の遺書と写真がある。中には当時日本国だった朝鮮人の名前もあった。朝鮮の人らも日本人として戦ったのである。敗戦後は戦勝国を気取り、狼藉を働いた人と同じとは思えない。それにしてもこれだけあると涙がこぼれそうになる。
「ホタル」という映画にもなったようだ。私をここへ連れてきたのは映画「永遠のゼロ」だった。沖縄を米軍に奪取されまいと最後の手段として特攻が考えられたらしい。当時としてはこれしかなかったのだろう。
W・ウェストンの『日本アルプス 登山と探検』(英文)の冒頭にこう書いてある。「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『『日本アルプス 登山と探検』(英文)を著す。明治29年の発刊である。
この英人宣教師にして登山家は「おそらくどんな自己犠牲でも払える」と看破している。特攻の精神を見るとまさにその通りであった。鬼畜米英は日本民族の性格を知り抜いた上で石油禁輸で挑発し、戦争に引きずり込んだのであろう。調子に乗って戦線を広げすぎたこともあるが、「どんな自己犠牲でも払う」という性格はわが民族独自の性格なのであろう。だから畏怖され、孤立することもあるのだ。
ますます降雪強まった知覧を後にした。ホテルへは県道23号を辿った。R225からは桜島が冠雪していた。美しい。
一等の徒に風雪のお元日 拙作
日本の南の果や初詣 拙作
シナ海の怒涛寄せ来る冬の海 拙作
南九州一等三角点の山旅② 高隈山(御岳)と甫与志岳 ― 2014年12月31日
昨晩からの天気予報では午後から雨模様と思わしくない。予定は高隈山だった。他の候補も考えて見た。朝食は6時半からと聞いた。早起きする積りが実際には1時間も遅くなった。食事を済ますと7時半になっている。しかし、レストランの大きな窓から眺めた桜島とその右奥の双耳峰は素晴らしい。高隈山地の一角らしい。はやり予定通り行くべき、と思い直した。現地に行く交通時間をフロントに相談すると意外なアクセス方法を教えてくれた。垂水港からフェリーで行くという方法だった。それだと対岸まで40分の時間で行けた。時刻表を見ると8時15分なら間に合う。車をホテルから200mほど移動して並ぶ。ここのフェリーは観光よりも生活の足になっているようだ。港から離れると桜島が近づき、鴨池港は小さくなる。泊まっているレンブラントホテルは海上から見ると立派なホテルに見える。双耳峰はどんどん近づく。
鳴之尾牧場へ
フェリーを降りてから2150円の料金を払う。垂水からはR220を走る。登山口の鳴之尾牧場を目指した。バイパスに入り、高原台地の鶴羽を左折。農道を走って花里町を抜け、NHKの電波塔への道標のある道路に交差点を左折。それからもつづら折れの山道を走った。鳴之尾牧場への道を分けてからは山の稜線に近いかなり高度感のある山岳路で少々恐かった。前方に電波塔の建つ山が見えた。登山口には1台、しばらくすると浜松NOが1台来た。登山口の標高は750mほど。1等三角点の御岳は1181.7m。比高430m登ることになる。約1時間半。
御岳の1等三角点へ
丁度10時に出発。全山照葉樹林に覆われた西南日本を象徴するような山の植生である。NHKの電波塔はすぐに着いた。登ってみると石の手水鉢には薄氷が張っていた。降りて、若干下って登りかえす。急登が続く。すると意外にも水場があるので寄った。冬でも少しは湧いている。小石を敷き詰めて水の溜まり場を作ってみた。出発しようとすると浜松の人が着いた。一緒に歩くことになったが彼は軽く登って行く。いつかはなれてしまった。T字の分岐でまた下山の2人連れに会った。分岐は左折。やや緩くなった尾根路を登った。一休みしたいのをこらえながら登ると登頂だ。11時10分だった。先行者が座っていた。彼以外は誰も居ない。素晴らしい展望である。そして、大箆柄岳(おおのがらだけ)をはるかに眺めて御岳だけにした。ここから往復4時間はかかるだろう。すると登山口まで50分として、17時に近くなってしまう。南国だからといって日照時間が延びるわけではない。日没につかまらないようにするには断念することだ。それに早くも空は怪しくなってきた。11時20分、踵を返すように下った。
甫与志岳1等三角点へ
まだ12時だ。このままホテルに帰るには早過ぎる。やはり1等三角点の甫与志岳を目指すことにした。南なら少しは天気も良いだろう。ナビがないので道路地図と首っ引きで走った。国道から県道、町から町へ、農村の中を走った。高山川に沿う県道を走ると高山キャンプ場があり、左に登山口の道標はあったが、林道にチェーンがかかって閉鎖。更に登って肝属山地を貫通する二股隧道を潜る。すると久保田川水系姫門川に沿う林道に左折。峠を越えると登山口があった。ここにも先行の福山NOの車があった。好き者は居るものだ。既に2時半。すぐに支度して出発だ。杉の植林地をしばらくで照葉樹林帯の尾根になる。急登が続く。828mを過ぎて下山者に会う。車の人だろう。何も言葉を交わさず、すれ違う。
唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 山口誓子
冬山に会ひて別れて身を明かさず 山口誓子
いずれもロープウェイが無かった時代の御在所岳登山の句である。誓子の句には詩がない。即物的である。しかし、孤独になってみるとその句境が良く分かる。気のあった大勢の仲間と登る幸せの中では生まれない句である。御岳で会った人も話しかけても寡黙であった。15時間かけて名古屋から来たんですよ、というと自分は3ヶ月も山から山を歩いているとの話に絶句した。人嫌いだから山に来るのか、孤独を味わいに来るのか、色んな人がいる。
登山口では凄い風が強かったが、上に上がるともっと強まった。山頂へは60分ほどだったろうか。ついに雪雲につかまったようで、霰混じりの霙が降ってきた。合羽を着た。山頂滞在は5分もかからず下山となった。大箆柄岳を目指していたら既に降られていただろう。下山は早い。元来た道を戻った。山間部の高山川の県道では雨に降られた。肝付町の農村地帯では止んだ。どんな由来があるのだろう。珍しい地名ですね。鹿屋市まで来て給油した。9.5km/㍑だった。3000CCのディーゼルにしてはまあまあの燃費。ついでにオートバックスでスオイル交換も頼んだら何と4500円という。名古屋市の2倍以上とあってキャンセルした。店員も驚いていた。仕入量による地域差があるようだ。
垂水港まで戻った。すると強風と雨になった。既に暗くなった。また40分船に揺られて鴨池港に行く。着いてすぐに外食に行き夕食を済ます。何とか波乱のあった大晦日の登山が終わった。
あるサイトにはこうある。
「高隈山に「高隈山」というピークはない。最高峰は大篦柄岳なのだが、これに登っただけで高隅山に登ったということにはならないようだ。この山は古くからの修験道の山で、その「岳参り」というのは白山から横岳・平岳・妻岳・御岳・小篦柄岳・大篦柄岳の七岳を巡ることなのだ。私はこの七岳すべてに登ろうと思っている。」白山ははっさん、と呼ぶらしい。すると、最高峰を逃したからまた来ることになるだろう。今度は6座を縦走するのもいいなあ。ともあれ、御岳の点名は高隈山なので満足したい。
鳴之尾牧場へ
フェリーを降りてから2150円の料金を払う。垂水からはR220を走る。登山口の鳴之尾牧場を目指した。バイパスに入り、高原台地の鶴羽を左折。農道を走って花里町を抜け、NHKの電波塔への道標のある道路に交差点を左折。それからもつづら折れの山道を走った。鳴之尾牧場への道を分けてからは山の稜線に近いかなり高度感のある山岳路で少々恐かった。前方に電波塔の建つ山が見えた。登山口には1台、しばらくすると浜松NOが1台来た。登山口の標高は750mほど。1等三角点の御岳は1181.7m。比高430m登ることになる。約1時間半。
御岳の1等三角点へ
丁度10時に出発。全山照葉樹林に覆われた西南日本を象徴するような山の植生である。NHKの電波塔はすぐに着いた。登ってみると石の手水鉢には薄氷が張っていた。降りて、若干下って登りかえす。急登が続く。すると意外にも水場があるので寄った。冬でも少しは湧いている。小石を敷き詰めて水の溜まり場を作ってみた。出発しようとすると浜松の人が着いた。一緒に歩くことになったが彼は軽く登って行く。いつかはなれてしまった。T字の分岐でまた下山の2人連れに会った。分岐は左折。やや緩くなった尾根路を登った。一休みしたいのをこらえながら登ると登頂だ。11時10分だった。先行者が座っていた。彼以外は誰も居ない。素晴らしい展望である。そして、大箆柄岳(おおのがらだけ)をはるかに眺めて御岳だけにした。ここから往復4時間はかかるだろう。すると登山口まで50分として、17時に近くなってしまう。南国だからといって日照時間が延びるわけではない。日没につかまらないようにするには断念することだ。それに早くも空は怪しくなってきた。11時20分、踵を返すように下った。
甫与志岳1等三角点へ
まだ12時だ。このままホテルに帰るには早過ぎる。やはり1等三角点の甫与志岳を目指すことにした。南なら少しは天気も良いだろう。ナビがないので道路地図と首っ引きで走った。国道から県道、町から町へ、農村の中を走った。高山川に沿う県道を走ると高山キャンプ場があり、左に登山口の道標はあったが、林道にチェーンがかかって閉鎖。更に登って肝属山地を貫通する二股隧道を潜る。すると久保田川水系姫門川に沿う林道に左折。峠を越えると登山口があった。ここにも先行の福山NOの車があった。好き者は居るものだ。既に2時半。すぐに支度して出発だ。杉の植林地をしばらくで照葉樹林帯の尾根になる。急登が続く。828mを過ぎて下山者に会う。車の人だろう。何も言葉を交わさず、すれ違う。
唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 山口誓子
冬山に会ひて別れて身を明かさず 山口誓子
いずれもロープウェイが無かった時代の御在所岳登山の句である。誓子の句には詩がない。即物的である。しかし、孤独になってみるとその句境が良く分かる。気のあった大勢の仲間と登る幸せの中では生まれない句である。御岳で会った人も話しかけても寡黙であった。15時間かけて名古屋から来たんですよ、というと自分は3ヶ月も山から山を歩いているとの話に絶句した。人嫌いだから山に来るのか、孤独を味わいに来るのか、色んな人がいる。
登山口では凄い風が強かったが、上に上がるともっと強まった。山頂へは60分ほどだったろうか。ついに雪雲につかまったようで、霰混じりの霙が降ってきた。合羽を着た。山頂滞在は5分もかからず下山となった。大箆柄岳を目指していたら既に降られていただろう。下山は早い。元来た道を戻った。山間部の高山川の県道では雨に降られた。肝付町の農村地帯では止んだ。どんな由来があるのだろう。珍しい地名ですね。鹿屋市まで来て給油した。9.5km/㍑だった。3000CCのディーゼルにしてはまあまあの燃費。ついでにオートバックスでスオイル交換も頼んだら何と4500円という。名古屋市の2倍以上とあってキャンセルした。店員も驚いていた。仕入量による地域差があるようだ。
垂水港まで戻った。すると強風と雨になった。既に暗くなった。また40分船に揺られて鴨池港に行く。着いてすぐに外食に行き夕食を済ます。何とか波乱のあった大晦日の登山が終わった。
あるサイトにはこうある。
「高隈山に「高隈山」というピークはない。最高峰は大篦柄岳なのだが、これに登っただけで高隅山に登ったということにはならないようだ。この山は古くからの修験道の山で、その「岳参り」というのは白山から横岳・平岳・妻岳・御岳・小篦柄岳・大篦柄岳の七岳を巡ることなのだ。私はこの七岳すべてに登ろうと思っている。」白山ははっさん、と呼ぶらしい。すると、最高峰を逃したからまた来ることになるだろう。今度は6座を縦走するのもいいなあ。ともあれ、御岳の点名は高隈山なので満足したい。
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