NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の山を歩く2019年12月17日

 NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は主演女優の沢尻エリカのスキャンダルで一気に注目を浴びてしまいました。TVドラマは見ないのですが戦国時代の伏兵とも言える明智光秀には少なからず関心はあります。
 今年3月には滋賀県の明智家の菩提寺・西教寺の墓と日吉神社、坂本へバスツアーに行って来たばかりです。そこでも「麒麟がくる」の幟がはためきムードを盛り上げていました。

① さて、明智さんの出生地の岐阜県では?と調べるとあちこちでNHK大河ドラマに乗っていました。明智光秀ゆかりの地としてピックアップすると。
 HP「まいまいあけち」から
明智光秀

本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。
諸説ありますが、ここ明智町も光秀公生誕の地と言い伝えがあります。
町の南側に位置する小高い丘、千畳敷には光秀公産湯の井戸と伝わるものが現在も残っています。
また、明知遠山家の菩提寺の龍護寺には、光秀公のお墓とされる供養塔があります。光秀公に関する碑はその悲痛な想いからことごとく割れるといった通説の通り、供養塔とされる碑にも斜めに大きくひび割れが入っています。
他にも、光秀公が幼少期に学問を学んだと伝わる天神神社、光秀公が柿本人麻呂を祀り建立したとされる人麻呂神社と光秀公手植えの楓、光秀公の母お牧の方のお墓があります。

1明知城址(白鷹城址)

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。
交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。
市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。
 
・四等三角点494.6mの点名は千畳敷公園です。

・これだけでは物足りない場合は2等三角点732.1mの大泉村があります。明智町杉野には4等三角点の大平720.1mがあります。

②明智光秀の出生地を標榜するのは明智町ばかりではなかった。何と可児市にもあった。
 HP「可児市の乱」には
 土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

 と紹介されている。

 名鉄広見線には明智駅もあり本気度は高そうです。 岐阜県可児市瀬田1238−3の住所をチエックすると、175.2mの3等三角点羽崎があった。しかも住宅団地に隣接するので興趣はなさそう。最寄の山は御嵩町の290mの八王子山がある。

③またまた意外なゆかりの地は瑞浪市も名乗りをあげています。

 明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。
 一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
 なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
 古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

 どの説明にも「明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ」の枕が冠せられている。直接関係はなさそうだ。

 念のため、一日市場館をチエックすると4等三角点174.0mがあり、点名もずばり、一日市場でした。行って見て無駄ではないです。他には食指をそそる山はない。

④最後は山県市の桔梗塚です。ここは2度ならぬ3度はお邪魔しました。山県市のHPはこんな紹介です。

 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の前半生は謎に包まれており、岐阜県内各地にゆかりの地とされるところが数多くあります。山県市もそのひとつで、明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将でもあり、その縁から光秀の母が身ごもった際に祈ったという「行徳岩」、明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」があります。

 また市内にはほかにも、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)跡」が現存する古城山(山県市大桑)や土岐氏ゆかりの史跡が多く現存しています。ぜひ、歴史を感じるまちをめぐってみてはどうでしょうか。

うぶ湯の井戸跡と行徳岩(ぎょうとくいわ)
 明智光秀の生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

桔梗塚
 白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。

 小和田哲男氏が来市されたと

 11月14日、小和田哲男静岡大学名誉教授が来市され、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)」跡が現存する古城山(山県市大桑)と土岐氏支流の武将の一人である明智光秀の伝承地などを訪れました。実際に古城山を登山し、尾根と尾根の斜面を平らにならして造られた曲輪(くるわ)や主郭部や竪堀などの遺構、当時の様子を感じられる大桑地区を山頂から眺望いただきました。

 小和田名誉教授は、大河ドラマなどの数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当。戦国武将などの史実に照らし合わせ、現代の世を生き抜くヒントを分かりやすい言葉で伝えるなど、戦国時代史の第一人者のひとりです。

 岐阜市と山県市の文化財担当者から説明を受けた小和田名誉教授からは、「戦国時代に権力を持っていた土岐氏の拠点である大桑城跡をようやく見ることができた。当時のまま、壊れることなく遺っているところも見られて貴重な体験ができました。」と述べられました。
以上

 4箇所ある中では4番目の古城山407.4mが一番登り甲斐もあるようです。既登ですが改めて登りたい気になります。