さわやかな風の緑の輝山に登る ― 2026年06月13日
梅雨の晴れ間に一座やりたい、との要望があり、このところ低山歩きばかりでダニや蛭に悩まされていたから2000m級の輝山を提案した。輝山はかつて雪山登山の対象だった。平湯峠への入り口に車を停めて3人で登ったが私は足を傷めて平湯峠で撤退した苦い記憶がある。それ以前もスキー登山を夢みたがかなわなかった。今回はもう夏山で登っちゃえ、と飛騨入りした。
名古屋市の自宅は午前4時半に出た。東名高速から中央道の小牧東で降りて可児で合流。美濃加茂から環状道、東海北陸道とカネはかかるが時は金也とフルに活用。平湯峠手前まで来たらナビは平湯トンネルを抜けて平湯温泉側の一車線の細い道から登るように指示して来た。ようやく平湯峠に到着。久手側に車を停めた。10台以上の先行車がいた。
出発したのは10時30分過ぎ、峠の若山牧水の歌碑の右手にクマザサの茂みを分け入って鉄塔に登る。左手に電波塔へ行く刈り分けが続く。地形図の実線である。1740mまでは笹の刈り分けの道だ。ダケカンバの生える明るい森の中を登ると針葉樹林の中へ続く。1750mの等高線辺りから斜度も緩くなり歩きやすい。昔からこんな道があったのだろう。
標高1800mに到達。1748mの独立標高点への分岐は送電鉄塔巡視路の道だ。この一帯は湿地になっている。登高差の少ない針葉樹林帯を歩いていくと「白雲の池」に来た。今回の登山の狙いはこの池を見たかったこともある。樹林の中の池は何とかの瞳として珍重される。白雲の池は水位はなく、水草が生えて苗代のようなイメージであった。
北へ北へと登るでもなく下るでもない横断道を行くと右手からの道と合流。最近整備された平湯温泉からの登山道である。ここからは急登の連続だった。
万葉集に詠まれた
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓履け我が背
の刈刃ばねの道そのもので歩きにくい。
分岐に着いてまず1975mの輝山荘跡に寄ることにした。
検索で「明治のシンデレラボーイ?人を愛し、人に愛された社会教育者・篠原無然」を読むと
「彼は平湯の輝山(てらしやま)をはじめとして上宝村の中に、断食修行のための山荘を3カ所ほど持っていた。どれも山荘というよりは山小屋で、入り口にはむしろを垂らし、いろりが切ってあったようだ。無然にとってはたいそう居心地が良かったが、山中には熊などの危険な野生動物もいる。平湯の人々は独りで何日間も山にこもる無然を心配した。」
「5、6日に一度は登山に慣れた青年会の誰かが片道4時間ほどかけて、食糧と無然あての手紙や本を届けに山荘に上がった。時には火山の噴火など自然の脅威にさらされることもあったが、無然は薪割りをしたり、山菜を摘んだり、小鳥たちの訪問を受けながら暮らした。そして自分自身と対峙していったのである。」
今は何もないちょっとした平地である。但し眺めが素晴らしい。乗鞍岳の北方稜線からアカンダナ山、焼岳?、槍ヶ岳と奥穂高岳、更に笠ヶ岳も見える。奥飛騨で社会教育者として活躍した篠原無然にはこの眺めが癒しになったのだろう。
1975m峰も往復、充分な滞在時間を得たので山頂に向かった。分岐まで下って山頂まではやはり針葉樹林の中の踏み分け道を登る。比高110mほどだが老体にはきついアルバイトだった。登頂すると目の高さには「酒盛り山」の山頂標がある。数mの高さにも山頂標がいくつも縛り付けられていた。かつては雪山登山の対象だったからだ。樹林帯、笹の海の中をどうやって下るのか、「スキーがあれば怖くない」のである。今は夢想に終わった。
飛騨山岳会編『ふるさとの山 飛騨100山』の輝山の項には平成13年頃、南尾根の山頂付近まで伐採したことがあった。それならばスキーが使える。山火事や伐採があると真っ先にダケカンバが生える。今ダケカンバの林は伐採の跡の二次林かも知れません。
下山は往路を戻った。クルマに着いたのは16時47分。
平湯峠スタート10時30分~白雲の池11時40分~平湯からの道の合流地11時55分~輝山と輝山荘跡への分岐12時17分頃~輝山荘跡12時26分頃~休憩~山頂14時14分~14時35分~平湯峠16時47分
行動時間6時間余り(休憩を含む)
名古屋市の自宅は午前4時半に出た。東名高速から中央道の小牧東で降りて可児で合流。美濃加茂から環状道、東海北陸道とカネはかかるが時は金也とフルに活用。平湯峠手前まで来たらナビは平湯トンネルを抜けて平湯温泉側の一車線の細い道から登るように指示して来た。ようやく平湯峠に到着。久手側に車を停めた。10台以上の先行車がいた。
出発したのは10時30分過ぎ、峠の若山牧水の歌碑の右手にクマザサの茂みを分け入って鉄塔に登る。左手に電波塔へ行く刈り分けが続く。地形図の実線である。1740mまでは笹の刈り分けの道だ。ダケカンバの生える明るい森の中を登ると針葉樹林の中へ続く。1750mの等高線辺りから斜度も緩くなり歩きやすい。昔からこんな道があったのだろう。
標高1800mに到達。1748mの独立標高点への分岐は送電鉄塔巡視路の道だ。この一帯は湿地になっている。登高差の少ない針葉樹林帯を歩いていくと「白雲の池」に来た。今回の登山の狙いはこの池を見たかったこともある。樹林の中の池は何とかの瞳として珍重される。白雲の池は水位はなく、水草が生えて苗代のようなイメージであった。
北へ北へと登るでもなく下るでもない横断道を行くと右手からの道と合流。最近整備された平湯温泉からの登山道である。ここからは急登の連続だった。
万葉集に詠まれた
信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓履け我が背
の刈刃ばねの道そのもので歩きにくい。
分岐に着いてまず1975mの輝山荘跡に寄ることにした。
検索で「明治のシンデレラボーイ?人を愛し、人に愛された社会教育者・篠原無然」を読むと
「彼は平湯の輝山(てらしやま)をはじめとして上宝村の中に、断食修行のための山荘を3カ所ほど持っていた。どれも山荘というよりは山小屋で、入り口にはむしろを垂らし、いろりが切ってあったようだ。無然にとってはたいそう居心地が良かったが、山中には熊などの危険な野生動物もいる。平湯の人々は独りで何日間も山にこもる無然を心配した。」
「5、6日に一度は登山に慣れた青年会の誰かが片道4時間ほどかけて、食糧と無然あての手紙や本を届けに山荘に上がった。時には火山の噴火など自然の脅威にさらされることもあったが、無然は薪割りをしたり、山菜を摘んだり、小鳥たちの訪問を受けながら暮らした。そして自分自身と対峙していったのである。」
今は何もないちょっとした平地である。但し眺めが素晴らしい。乗鞍岳の北方稜線からアカンダナ山、焼岳?、槍ヶ岳と奥穂高岳、更に笠ヶ岳も見える。奥飛騨で社会教育者として活躍した篠原無然にはこの眺めが癒しになったのだろう。
1975m峰も往復、充分な滞在時間を得たので山頂に向かった。分岐まで下って山頂まではやはり針葉樹林の中の踏み分け道を登る。比高110mほどだが老体にはきついアルバイトだった。登頂すると目の高さには「酒盛り山」の山頂標がある。数mの高さにも山頂標がいくつも縛り付けられていた。かつては雪山登山の対象だったからだ。樹林帯、笹の海の中をどうやって下るのか、「スキーがあれば怖くない」のである。今は夢想に終わった。
飛騨山岳会編『ふるさとの山 飛騨100山』の輝山の項には平成13年頃、南尾根の山頂付近まで伐採したことがあった。それならばスキーが使える。山火事や伐採があると真っ先にダケカンバが生える。今ダケカンバの林は伐採の跡の二次林かも知れません。
下山は往路を戻った。クルマに着いたのは16時47分。
平湯峠スタート10時30分~白雲の池11時40分~平湯からの道の合流地11時55分~輝山と輝山荘跡への分岐12時17分頃~輝山荘跡12時26分頃~休憩~山頂14時14分~14時35分~平湯峠16時47分
行動時間6時間余り(休憩を含む)
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