平凡社新書「松浦武四郎と百名山」2006年10月18日

 店頭で見つけた本。まだ新聞広告は見たことがないので発売されたばかりであろう。武四郎の本は結構集めてきたが山と関連付けた本は嚆矢か。
 200ページ未満なのですぐ読了したが武四郎の紀行集から登山に関わる部分を抜粋して登山の足跡を辿ったものである。しかし表紙の裏にあるキャッチコピーの近代登山のパイオニアという評価は言いすぎであろう。
 百名山という題を与えているのはなぜであろう。武四郎は山が好きであったかも知れないが本を売るための戦略的な命名であろう。ふと浮かぶのは小学館文庫の住谷雄幸著「江戸人が登った百名山」(1999年)である。ここでも武四郎が登場する。羊蹄山の項でやはり登山してない、と書いてある。当時の情報源は「日本名山図会」だからあまり実践的ではなかった。
 この本は結局武四郎の足跡だけに絞ったためか薄っぺらい内容になってしまったのは残念である。それに図会などを読んで憧れたが眺めて見たい、という願望であり実際に登山した山は限られよう。戸隠山も現在の山頂というわけではないように思う。近代登山は結局明治27年刊行の「日本風景論」が巻き起こした登山ブームが嚆矢と考えられる。武四郎没後数年後のことである。 
 加えて注文したいのは同郷の久居の生まれである橘南溪のことも触れておくべきであろう。 以下に津市の紹介文をコピーした。
  松尾芭蕉、松浦武四郎、大黒屋光太夫といった人物は、江戸時代、諸国を見聞して活躍した三重県の人たちですが、久居西鷹跡町出身の医学者、橘南谿(本名:春暉、1753~1805)もその一人です。
 幼少の時期から学問を好んだ南谿は、19歳で京都に上って医学を学び、漢方から蘭方まで修めました。特に西洋医術=解剖を重んじ、そのころ日本でようやく行われていた解剖医学の正誤を確かめようと数々の解剖に参加し、近代実証医学の道を開くとともに、多くの医学書を残しました。
 
 天明3(1783年)年、南谿は京都で人体解剖を行いましたが、このことが歴史に残る事実となっているのは、自らが執刀したことにあります。それ以前にも解剖例はいくつかありましたが、医者はただ傍観していただけでした。というのもその当時、解剖は残忍で無益な行為と、想像を絶する非難を受けていたのです。しかし南谿は、一人の解剖が数千人の命を救うという信念のもとに、自ら主催者としてこれを実施したのでした。
  また、自分のもとに治療を求めてくる病人だけでなく、広く世の人々の病苦も救わねばと考え、武者修行ならぬ医術修行で全国を駆けめぐりました。さらに文筆家としての才能にもたけ、修行で訪れた各地での体験を記した「西遊記」「東遊記」などの紀行文は、当時の多くの人に読み親しまれました。
 
 武四郎は名古屋で本草学を学んでいる。今で言う薬草である。これが道中大いに役立ったであろう。「図会」を見て山に憧れ、「東遊記」などを読んで旅の仕方を参考にしたであろう。辺境を好んで物見遊山的な旅をした、というのが私の想像であるが。題名に百名山をつければ売れると踏んでいるしたたかな出版社側の読みは当るでしょうか。

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