愛知川再発見Ⅱ ”林間煖酒焼紅葉”2006年10月02日

 愛知川の奥深くまで沢を詰めた。三重県側から雨乞岳までは何度か行ったが沢詰めは初めての事である。
 晴れていれば杉峠からイブネ・クラシまで縦走してクラシ谷を下降しタケ谷から根の平峠を越える壮大なプランであったが早朝発でしかも雨とあっては縮小せざるを得ない。今回得たものは愛知川源流部の自然の豊かさを再認識したことであった。特に2次林といわれる雑木林が素晴らしい。見たところ多くはシロモジである。紅葉というより黄葉である。
 白楽天の有名な漢詩中の詩句”林間煖酒焼紅葉”を思い出す。Kさんにそんな話をしたら「あったね」と首肯された。テントを担ぎ上げて一夜を過ごしてみたいものである。
詳細はHPの掲示板に投稿した。
http://8425.teacup.com/koyabann1/bbs

四手井綱英著『森林はモリやハヤシではない』2006年10月03日

 様々な雑用が片付き始めて解放感からかねて気になっていた表題の本を買いに丸善に行った。昨日売れたばかり、という。隣の本屋にもないので無駄足になってしまった。帰宅後アマゾンに注文しておいたら今日届いた。
 これまでにこの著者の本は少ないが読んでいる。この分野の草分け的な学者である。意外に類書はないものである。キチンと整理された理論的な本はあるが歯が立たない。
 森林学の泰山北斗なのである。早速奥付を見ると2ヶ月でもう四刷とあるから売れているのである。里山の名付け親ともいう。一番読みたかったのは本の題名となった論考である。
 森林は深い林である、という。森はシンで、深い意味を持つ形容詞というから驚く。昔学校でよく歌った「森へ行きましょう♪・・・・」という歌詞を思い出す。本当は林へ行きましょう、と直さねばならない。
 しかも森は山の分類の一つという。山頂までぎっしり森林に覆われた山は森なのだという。四国には何森という山が多い。東北には森の付いた山名が多い。今はその下に山が付いているが昔は単に森で終っていたかも知れない。東海周辺ではすぐには思いつかない。東濃の天狗森などが浮かぶ程度である。
 森は神が住む山として里から仰がれ収穫を祈った山だという。あとはゆっくり読みたい。

栃の木のある山2006年10月05日

 鈴鹿の神崎川源流を歩いていてふと足を止めさせられた大木があった。それは一目すぐトチノキと分かった。七枚の葉が掌状に広がる特徴は他の山でも良く見る。実のなる樹木は大切にされたのである。
 それなのに園芸種として品種改良されたことは聞かないし街路樹や植物園を除けば栃の植林は聞いたことはない。実は実には渋があるそうだ。手間隙かけて渋抜きをしてから栃餅などに加工して食される。いわば飢饉に備えた樹種であっただろう。
 三河では三瀬明神山に突き上げる栃ノ木沢がありもう大木は見られなかった。奥美濃では各地に見るが昨年はタケヤ谷の谷沿いで沢山見た。飛騨でも若栃山がある。木曽では福栃山がある。栃木県があるし、栃の木峠など各地に栃の地名は多い。三重県の南部には栃山があった。これは「新日本山岳誌」に取り上げた。栃が付く山は地元でも大切にされたと思うからである。
 熊の好物は栃などの団栗の実であるから今頃は冬眠に備えてせっせと食べまくっているだろう。でも鈴鹿では誰が採取するであろう。多数棲息すると見られる鹿であろうか。猿も食べるであろう。
 閑話休題。神崎川のかの大栃は幹周り2mはある。様々な樹種が薪炭林としてシロモジ中心になってしまったがそれすら今は大木になりつつある。やがて林道が延びて一斉に杉などに代わるとしたら自然もおしまいだ。どうか天然の公園として保護されたいものである。

クルマ雑感④2006年10月06日

 10月に入って自動車業界のビッグニュースが飛び込んだ。
 世界から注目されたGMと日産ルノー連合の提携交渉は破談に終ったようだ。まだ世界1のGMにとっては下位メーカーとの敗者連合にはプライドが許さなかったであろう。それにトヨタと強い提携関係にあるのだから急ぐこともない。むしろ相手に利多くGMに利少ないとそろばんを弾いたと伝えられる。 強者は強者と連合を組むのがセオリーである。トヨタは世界各地域のNo1と何らかの協力関係にある。ユーロではワーゲンを日本で販売してやり、北米ではGMの遊休工場を利用して生産を援助している。
 次はフォードであるがこの会社はいわゆる同族会社であり、GMのようなサラリーマンが経営する会社ではないからオーナーの鶴の一声でまとまる公算がある。しかし今のフォードにどんな魅力的な車があるか。ここも小型車生産ではマツダに頼っている。逆にかき回されそうな気がする。
 結局は日産は規模を拡大するより現在を充実させた方がベターだ。ゴーンさんはトヨタの石田社長に学ぶべきだ。苦境に耐え忍ぶことは誰でもやる。困難を自覚すると社員もまとまる。しかし苦境を脱してからが大切であろう。若いだけに拙速になり易い。
 対して以前のトヨタでは拙速よりも巧遅という。少なくとも豊田家から社長が出ていた時代は。だが現在のトヨタは特に奥田氏が社長になってから以降は拙速を尊ぶ社風に変った気がする。変れ変れと尻を叩いても急には変れない。雇われ社長の悲しさでゼネラリストが社長になると実績を早く出そうと兎角足元がおろそかになり品質で躓いている。技術屋の英二氏が社長だった時代はせっせと工場に足を運び現場を重視していた。規模は格段に違うがボロはでなかった。
 今の時代どこの会社でもゼネラリストが幅を利かす時代である。会社を再建し、拡大するにはいいがいいことばかりはない。
 又三菱自から旗艦車種のパジェロのモデルチエンジがなされた。ようやく利益をあげるための仕事に足腰が入り始めたようだ。価格設定は旧型より安くしたらしい。これも私の予想通りである。累積赤字がある内は法人税の負担がないからその分下げることが出来る。来年は確実に上昇気流に乗るだろう。そして他社より早くD車を出すことだ。
 しかしパジェロを購入して応援したいが今回も見送る。車幅が2m近いのは狭い林道走行の多い山やには不利だ。日本では売る気がないのであろう。トヨタのランクルに圧倒されているからか。
 トヨタは手を変え品を変えして次々新車を出すがまるで冷蔵庫か洗濯機みたいな感がある。いつでも何処でも買える日用品とか家電みたいになっている。三菱自はマイナーでもピリッとしたクルマで勝負して欲しい。

草虱2006年10月07日

 つい先だってわが住まいのマンションの狭庭を通り抜けて行った。クルマに乗り込もうと足元を見るとズボンに草虱が付着しているのを発見した。なんだか懐かしい気分がした。
 都会のマンションにこんな野草が侵入しているのだ。元々は芝生だけであったが住人が運び込んだのであろう。庭をよく見ると芝生よりも雑草の方が勢力がありそうだ。刈り取ったばかりなのにもう再生し始めている。
 車中で句作を試みたが一句もできないまま勤務先に着いた。今日は土曜日だが12月下旬までは出社することになる。天気がいいと山に気が向くが句作で慰めようか。

銚子洞から左門岳へ2006年10月11日

 ついに左門岳に立った。夢にまで見た銚子洞の遡行であった。険しい谷の遡行の末に原始の森に安らぎを求めて一夜を過ごした。翌日は等高線の緩いイメージどおりにせせらぎの中を彷徨った。山頂直下でついに水流が途絶えてヤブに突入して稜線に這い上がった。ホイッスルでコールするとKさんらしい返事が返ってきた。Kさんは待ちきれずに出迎えてくれた。
 素晴らしい快晴の山頂である。谷の中で予想したとおり白山は冠雪していた。手前の別山の草紅葉まで見えるかのような好展望である。隣には根尾富士の異名のある屏風山が険しい谷を従えて聳えている。
 夢の続きに一昨年の遡行記を日記から転記する。

2004年10月11日
 山行は無事に終わったが沢のRFを間違えたことが残念であった。銚子洞の完全遡行はならず、左門岳も行けなかった。
 9日の夜は予定通り出発した。しかし、テント予定地は雨の為に張れず東屋の中で宴会後就寝。
 10日は曇り。林道を歩いて入渓地点の三光橋へ行くと手前に立派なトンネルが貫通していた。暗いトンネルを潜って行くと日川原洞に抜けた。ここから何と遊歩道を工事中であった。沢やなど一部の人にしか行けなかった銚子滝が観光地化されるのである。
 モノレールに沿って行くと本流に出て入渓。早速腰まで浸かる徒渉が始まった。初めてなので若干は増水している気がしたが台風の影響は殆ど感じられない。原生林から流れ出る水は余程の大雨でも濁らず急な増水もない。ブナ、ミズナラの大木が抜群の保水力を以って天然のダムとなって山と谷を守る。右岸左岸を見ても増水して流れ出た枝、流木、枯葉の付着はない。毎日一定の流量を保っているのである。三重県の宮川村の不幸は稜線や沢沿いの原生林まで皆伐して杉を植林してしまったことに原因がある。
 箱洞の出合を過ぎて銚子滝に着いた。周囲に水しぶきをあげて迸っている。カメラにも水滴が降ってくるので近くでは撮影できない。ここはやはり台風の影響で増水し豪壮さを増しているのであろう。ここは大きく高巻く。右の踏み跡を辿って滑りやすい急な斜面を攀じ登る。やせ尾根に上って赤テープの所からアプザイレン2回で沢に下降した。遡行を再開。滝が次々現れる。銚子洞の核心部に入ったのである。大抵は巻き道がありヒヤヒヤしながら巻く。一部は高さ5mほどの岩尾根の登攀があり残置ハーケンを見つけて攀じ登る。しかし、ほっとしたのがいけなかったのか核心部の半ばで現れた枝沢に迷い込んだ。本谷を大平の出合と勘違いしたのである。谷をいくら進んでも北に向かい、西の方角に行かない。おかしい、おかしいといいつつ進んでしまった。思い込みはいけない。おかしいと思うとこまで戻るべきだった。RFの失敗である。ついにビバークを決意。沖積地にビバークサイトを見つけて午後4時遡行を打ち切った。今夜も玉の窪で好評だった野菜中心のポン酢仕立ての鍋料理になった。またローソクをたてて原生林内の不安な夜を癒した。
 11日。前夜は断続的に雨がツエルトの屋根を強く叩いた。ツエルト内はびしょ濡れであった。午前4時渡辺さんが満点の星といっているが私はまどろみの中にあった。5時には起きて雑炊を作って食べた。幸い雨はあがった。6時50分出発。稜線をめがけて遡行を続行した。ブナ、ミズナラの林立する原生林内のせせらぎが素晴らしい。黄葉には今一早く月末であろう。その頃には雪雲が覆うこともあり中々すべて万々歳というわけには参らぬ。細く細くなった源流はついに草に中に消えた。根曲がり竹をかいくぐり稜線に立つ。現在位置の確認だが左門岳と平家岳の中間としか見当がつかない。そこで見通しのよいピークから同定すると北に立派な山容の猿塚が座す。地図でこの山から南に下る尾根を辿ってみると1227mの独立標高点に近いことが分かった。下山は銚子滝への下降を避ける意味で水洞と内バミ洞の間の尾根にした。霧が晴れてはまた現れる。そのうちドウの天井、明神山、蕪山、高賀山、美濃平家、平家岳が同定できるまでに霧が晴れた。チャンスである。下山の尾根までは県境稜線のかすかな踏み跡、鉈目、鋸跡を拾って行く。天然桧の群生する山を目指す。そこからも神経質にRFを繰り返した。地図に表現されない吊尾根、窪地がRFを要求する。幾度かのRFから解放された。ついにブナの巨木の林立する立派な尾根になり感嘆の声を上げながら下る。下部ではミズナラの巨木が多い。地形図で等高線の詰まったところに来て尾根を外れて水洞に下りたがしばらくでまた懸垂下降をするくらいな急斜面になった。懸垂は都合3回に及んでついに銚子谷に下りた。月曜日とあって遊歩道の工事の作業員が働いていた。私たちが突然現れたのでびっくりされた。熊かと思ったそうな。また胸にまで浸かって右岸に渉り日川原洞のトンネルに着いた。もうこれからは林道歩きだけだ。暗いトンネルを再び潜ってPに着いたのは午後5時であった。板取温泉に入湯して帰った。全員負傷兵のようになって疲労した体、膝をかばいながら歩くのがおかしたかった。充実感の漲る二日間であった。

 10/7の夜はゲート近くでテントビバークしたが一晩中強風が吹き荒れた。
 10/8。朝から結構多くの工事車が往来している。大つげ谷の工事らしい。テクテク林道を歩くとまたトンネルを潜る。もはや銚子滝への遊歩道は完成近い。あとは吊橋の架橋を残すだけである。胸まで浸かって遡行した谷の遊歩道の上を歩くとわけなく滝に着いた。
 高巻き道を攀じ登る。かつてより倒木が増えた。ただでさえきつい登りのルートを塞いでいる。シュリンゲで凌ぎながら尾根に立てた。下降地点はそのままの状態で残っている。ここも2回の懸垂で降りた。
 遡行がやっと始まる。水量は多いが以前ほどではない。水流の中をジャブジャブ歩けるから快適である。悪絶な谷相が続くが記憶があるので今回はスムーズである。以前は巻いた所も今回は谷芯を溯った。間違って枝沢に迷い込んだところは何でこんな沢に入ったか、と疑問が湧く。今なら水量が格段に少ないから間違うこともない。
 いよいよ未知の領域である。深潭が現れるが左岸をへつる。すぐに右に曲がると10mの流麗な滝が落ちている。ここは左岸を攀じる。巨岩帯に入る。滝は小規模であるが悪い。すべて巻くことになる。一旦はせせらぎになり沢ノ又か、と期待したがすぐにゴルジュに入ってしまう。
 ゴルジュは大高巻きとなった。垂直に近い斜面を木の根、枝を掴みながら薄い踏み跡を辿る。眼下には青い深淵が見える。やがて明るい河原が見える所に来た。ここに小さな尾根が落ちてきている。地形図では銚子洞の印刷の銚の字辺りと推察した。外れかかった赤いテープが目に止まった。先行者もここから降りるしかないのであろう。尾根は垂壁で沢に面しているので懸垂下降で降りた。ややハングしていた。完全な宙吊り状態になる。
 ここからしばらくで沢ノ又であった。いよいよビバークサイトを探さねばならない。午後4時30分を過ぎていた。トチの巨木、ミズナラの高木の並ぶ原生林の中にある恰好の沖積平野が現れた。沢から一段高い所に草付の平がありそこにツエルトを張った。焚き火の流木はいくらでもある。先行者の焚き火跡もある。ツエルトを張ってKさんは飯炊き、W君と私は薪を集めた。だが焚き火は奮闘努力の甲斐もなく着火に失敗。強い低気圧の影響があって強風が吹き荒れていたからであろう。
 ツエルトに潜り込んで夕飯とささやかな宴会を楽しんだ。ビール、酒、ウイスキー、焼酎と何でもあり。ご飯は炊き込みご飯であるがお米を浸水しなかったせいかコゲがでた。それも香ばしいつまみになった。
 10/9。ツエルトを畳んで出発。せせらぎは昨日の戦いに疲れた体には優しい。そして原生林の重厚な森の中は幻想的である。大きな栃の木を見た。そのままでは通り過ごせない大きさである。何枚も写真を撮った。
 ブナ、トチ、ミズナラの巨木の森の王者であろう。更に遡行を重ねた。W君は左右から合流する沢をチエックしながらルートファインディングも的確である。1時間もした頃に再びビバークサイトの適地が現れた。ここにも焚き火跡があった。また来て見たいところである。
 谷は一段と狭まった。水も細くなり絶え絶えである。傾斜は強くなり、枝を掴んで登る。水はついに途絶えた。笹を掴んで明るい稜線に出た。ホイッスルでコールするとKさんから返事があった。もう着いているんだ。待ちきれずに出迎えに来てくれた。彼も根尾東谷のPで車中泊して早朝登山してきた。
 山頂に着くとさわやかな秋風が通り抜けていった。冠雪した白山、屏風山。以前登った折はまだ残雪を踏みヤブを分けて登山したが今は登山道が開かれている。
 下山は明神山との鞍部まで下ってから箱洞を下降する予定。ところがKさんの後を着いてゆくと根尾側に下っていく。大須ダムが見えて村界尾根(今は関市と本巣市との境)に入っていくきっかけがない。おかしいのでまた戻って地図でチエックするが尾根は笹と潅木のひどいヤブ尾根であった。少し下って古い赤っぽい布きれがあるところからは踏み跡があり強引に村界尾根に行けそうだ。RFに手間取り時間ロスも多い。何といっても沢の下降は優しいといっても力量次第だ。時間ぎりぎりでは危険なのでKさんの勧めもあり根尾側に下ることにした。登山道の一角からの奥美濃の眺望も素晴らしい。すぐ前に能郷白山、左に前山、その間にイソクラが見える。左には尖峰の蕎麦粒山が見え、金糞岳、伊吹山、養老山地、鈴鹿北部の山も見えた。
 登山道からPに下ってKさんの車で板取まで送ってもらった。小1時間もかかったであろうか。2日かけた距離も文明には適わない。Kさんとはで分かれた。これで板取温泉に入湯して万歳か、と思ったが好事魔多しである。バッテリーが上がってエンジンがかからない。山釣りから戻ってきた人達から救援してもらってその場を凌げた。
 是で奥美濃の三大名渓をなんとか踏破した。来年は西ヶ洞、内バミ洞、箱洞などまだ未踏の谷がある。夢の続きを見たいものである。

DVD『星にのばされたザイル』2006年10月15日

 山渓11月号の広告に「星にのばされたザイル」の広告が掲載された。インターネットの広告のコピーにはこうある。
 「フランスの伝説のアルピニスト、ガストン・レビュファがアルピニズムの神髄を物語る山岳ドキュメンタリー「新・天と地の間に 星にのばされたザイル」リリース!! 色彩が刻々と移り変わるアルプスの壮麗な美しさ、垂直の大岩壁をひたむきに登るアルピニストたちの迫力あふれるシーンが展開する。1976年6月公開作品。」
 原作を鑑賞したのは今から丁度30年前である。まだ登山を本格的にはやっていなかったし山岳会を探している時期だった記憶がある。どこかで前売りを義理で買ってあげた。むしろ併行して上映された「小さな恋のメロディー」に興味があった。ビージーズの映画音楽が素晴らしかったから。今だって口笛でメロディを吹きたくなる。誰が見ても懐かしい映画であろう。
 今から振り返ると「星にのばされたザイル」の方が不朽の名作として生き残っていくであろう。VHSのビデオに続いてDVD化されたのだから。映画のシーンの多くは忘れたが岩壁を登攀する孤独なクライマーとお客のクライマーを助けるために自ら犠牲になるシーンが脳裏に焼きついている。それがアマゾンで3000円弱で手に入るのでつい予約注文してしまった。やたらに昔を懐かしがるのは当方が加齢した証拠か。
 もう一つDVD化を望むのは映画「ふるさと」である。加藤嘉が主演のこの映画は彼の演技もさることながらもう2度と戻らない徳山村の自然と人の映像が貴重だからだ。

平凡社新書「松浦武四郎と百名山」2006年10月18日

 店頭で見つけた本。まだ新聞広告は見たことがないので発売されたばかりであろう。武四郎の本は結構集めてきたが山と関連付けた本は嚆矢か。
 200ページ未満なのですぐ読了したが武四郎の紀行集から登山に関わる部分を抜粋して登山の足跡を辿ったものである。しかし表紙の裏にあるキャッチコピーの近代登山のパイオニアという評価は言いすぎであろう。
 百名山という題を与えているのはなぜであろう。武四郎は山が好きであったかも知れないが本を売るための戦略的な命名であろう。ふと浮かぶのは小学館文庫の住谷雄幸著「江戸人が登った百名山」(1999年)である。ここでも武四郎が登場する。羊蹄山の項でやはり登山してない、と書いてある。当時の情報源は「日本名山図会」だからあまり実践的ではなかった。
 この本は結局武四郎の足跡だけに絞ったためか薄っぺらい内容になってしまったのは残念である。それに図会などを読んで憧れたが眺めて見たい、という願望であり実際に登山した山は限られよう。戸隠山も現在の山頂というわけではないように思う。近代登山は結局明治27年刊行の「日本風景論」が巻き起こした登山ブームが嚆矢と考えられる。武四郎没後数年後のことである。 
 加えて注文したいのは同郷の久居の生まれである橘南溪のことも触れておくべきであろう。 以下に津市の紹介文をコピーした。
  松尾芭蕉、松浦武四郎、大黒屋光太夫といった人物は、江戸時代、諸国を見聞して活躍した三重県の人たちですが、久居西鷹跡町出身の医学者、橘南谿(本名:春暉、1753~1805)もその一人です。
 幼少の時期から学問を好んだ南谿は、19歳で京都に上って医学を学び、漢方から蘭方まで修めました。特に西洋医術=解剖を重んじ、そのころ日本でようやく行われていた解剖医学の正誤を確かめようと数々の解剖に参加し、近代実証医学の道を開くとともに、多くの医学書を残しました。
 
 天明3(1783年)年、南谿は京都で人体解剖を行いましたが、このことが歴史に残る事実となっているのは、自らが執刀したことにあります。それ以前にも解剖例はいくつかありましたが、医者はただ傍観していただけでした。というのもその当時、解剖は残忍で無益な行為と、想像を絶する非難を受けていたのです。しかし南谿は、一人の解剖が数千人の命を救うという信念のもとに、自ら主催者としてこれを実施したのでした。
  また、自分のもとに治療を求めてくる病人だけでなく、広く世の人々の病苦も救わねばと考え、武者修行ならぬ医術修行で全国を駆けめぐりました。さらに文筆家としての才能にもたけ、修行で訪れた各地での体験を記した「西遊記」「東遊記」などの紀行文は、当時の多くの人に読み親しまれました。
 
 武四郎は名古屋で本草学を学んでいる。今で言う薬草である。これが道中大いに役立ったであろう。「図会」を見て山に憧れ、「東遊記」などを読んで旅の仕方を参考にしたであろう。辺境を好んで物見遊山的な旅をした、というのが私の想像であるが。題名に百名山をつければ売れると踏んでいるしたたかな出版社側の読みは当るでしょうか。

新・分県登山ガイド「愛知県の山」発売2006年10月20日

 日本山岳会東海支部著「新・分県登山ガイド「愛知県の山」は東海白樺山岳会の取材協力を得てついに上梓。今週末から来週中には発売される。
 表紙は千枚田を前景にした鞍掛山だ。幾何学的な千枚田を配して構図がばっちり決まって云うに云われぬ自然の造形美が表現されている。
 内容は最新の登山情報を反映して大幅にリニューアルした。旧版に比べて山座数は3座増加、16ページの増加となった。1000m級の山は4座増加。既刊のガイドブックにない新顔の山も3座デビューした。現役バリバリの登山者が実際に歩いて自ら満足のいくコースも新規に開拓し紹介した。歩き甲斐のあるコース、電車、バス利用のコースも開拓し紹介した。
 あわせてグルメ情報も少しだが脚注にて案内した。温泉情報は可能な限り紹介に努めた。山に行きたいが時間がない、雨が降りそうだ、でもどこかへ出かけたい向きにはコラム③④を設けた。登山道のある山のピークハントだけでは飽き足らなくなった向きにはバリエーションがいいがその前にロッククライミングなどの登山技術を練習しておきたい。そのきっかけを作るようにコラム②でミニガイドした。
 まずは書店で手にとって欲しいね。

荒島岳の谷2006年10月22日

 荒島岳には4本のルートがあり中でも福井工大ルートは手応えのあるルートとして知られる。今回は荒島谷川の支流の工大ルートの尾根の北側の谷を遡行することになった。
 21日夜W君と8時半に栄で合流。東海北陸道の白鳥ICから福井県入り。夜霧の国道158号を走るが下山の登山口を通過してしまい戻って神社の近くでテントビバークした。11時過ぎだった。
 28年前にも同じルートで登山しており、その時も先の谷の空き地でテントを張ったことが地図に書き込まれていた。懐かしい書き込みである。林道はまだ山の裾だけで終り、尾根の登山道を登った。尾根から急降下して渡渉し工大ルートに取り付いた。急な尾根、笹薮こぎ、喘ぎながら登った。午後2時登頂、勝原駅7時着。国鉄に乗り下山で下車、R158に出てヒッチハイクで車に戻った。夜9時に着いた。そんな書き込みである。
 もう2度と来ることはないと満足していた。しかし時移り人変りで再びこの地に来た。今度は谷の遡行で荒島岳登頂を試みたが頼みの林道は入口近くで工事中。引き返して荒島谷川沿いの道を探ったが立ち入り禁止の看板と何処へ行くか分からない情報不足が不安で引き返す。よそ者の悲しさを味わう。
 再び最初の林道を歩いて登るが倒木と落石、路肩決壊でひどい惨状だ。終点まで1時間20分もかかった。大きな登山案内の看板も空しい。そこから尾根に取り付いた。
 滝の撮影に来た奈良県の青年とすれ違う。ブナの黄葉も今一ぱっとしない。樹林越しに予定の谷が俯瞰できた。滝も結構あり面白そうである。続いて名瀑「まぼろしの大垂」のよく見える所に来た。以前もここで眺めただろうか。尾根のピークから急降下が始まる。フィックスロープが張られて登山道の安全が図られているが階段の段はどこかへいってしまい太い鉄の杭だけが残っている。ロープは随所にある。大垂が近づくと迫力が増す。
 順調に下って谷底が見えたと思ったら何と林道が見える。しまった、と悔しがってももう遅い。その上に工事で斜面が削られて下れない。ここからは懸垂で下った。17mはあるのでザイルは少し短い。
 林道に降り立ち、計画がガラガラ音を立てて崩れた気がした。せめてまぼろしの大垂でも見たいと50mほど本流を遡行したが噂に聞くように近づいてもその姿を見られない。それ故のまぼろしであった。
 手前の小滝で引き返した。工大ルートの入口も少し移動した気がした。林道をテクテク歩いて下山。途中で今日の予定の谷の入口に出会い、チエック。来年の遡行を約束した。入口が造成で削られた工大ルートを逆に登山するのは困難であろう。
 林道は工事業者が立ち入り禁止をうたうように落石多く、急カーブ、急登坂あり、ガードレールなしの危険な道であった。入口から歩いても1時間程度。下山からの登山道を経由するより圧倒的に早い。しかしまぼろしの大垂は見られないが。
 山裾を迂回して車に戻った。帰りは平成の湯に寄った。Pは満車。登山者の服装の人が大勢いた。聞くと荒島岳登山であった。入湯しても結構多い。あがると益々混雑してきた。なんでもバス3台のツアー登山客と聞いた。荒島岳は百名山の人気ゆえに登山道が掘れこんで困ったことになっているとか。深田は登ってもらうために書いたわけではない。深田自身は余り人気のない静かな山を好んだのだ。苦々しい気持ちで眺めていることであろう。