伊東月草編『冬葉第一句集』(抄) ― 2025年01月29日
愛知県図書館の横断検索で吉田冬葉の『冬葉第一句集』(抄)は『現代俳句集成』第四巻に収録されていると知った。吉田冬葉の検索ではヒットしないので句集名で検索。そのはずで、編集者は本人ではなく、伊東月草が裏方となって編纂された。
但し、巻頭の凡例を読むと月草はわけあってできなくなり、実際は冬葉自身が行ったようだ。したがって編纂者として月草の名前を辞退したが許されなかった、という。
結社誌「懸葵」「常盤木」「石楠」「人生と表現」「雄弁」「炬火」「枯野」等にあった句を冬葉自身が自選して収録した。その数は1222句。全集版のこの抄録には村山故郷が200句を選出した。
巻頭には大須賀乙字の「冬葉の近業」があるが、大正7(1918)年8月の「懸葵」から転載。当句集は大正11(1922)年4月に出版。したがって乙字は亡くなった後になる。それでも掲載したのは句集の体裁を整えるためであろう。
俳論家で知られた大須賀乙字は明治14(1881)年7月29日~大正9(1920)年1月20日。
当句集は季題別に編纂されて、冬葉を特徴づけるとして旅行吟は独立して編入された。例えば大正8年の駒ヶ岳登山の7句は上松より頂上までの前書きもあり木曽駒登山の山岳詠である。大正9年の高野より吉野へは12句抄録された。
最後になったが、冬葉の経歴を書き留めておきたい。
生まれは明治25(1892)年。岐阜県中津川市苗木に生まれる。本名は辰男。少年時代名古屋市で陶器画工として働きながら育英中学校を卒業。そのころから小牧の織田烏不関に俳句を学び、明治43年上京して大須賀乙字に師事、以後俳句一筋に精進した。乙字とともに「懸葵」「石楠」「常盤木」等に拠ったが乙字没後の大正14年「獺祭」を創刊主宰。乙字の系統は伊東月草、志田素琴等に分散したが、この間冬葉は主張を枉(曲)げず乙字一筋を貫いた。
句風は、乙字風の古俳句的な格調高い風景描写に、深い自然観照を加え、独自の風格を示した。昭和31年没。
大正11年 『冬葉第一句集』
昭和6年 『故郷』
昭和8年 『青嵐』
昭和16年 『望郷』
俳句指導書多数ある。
但し、巻頭の凡例を読むと月草はわけあってできなくなり、実際は冬葉自身が行ったようだ。したがって編纂者として月草の名前を辞退したが許されなかった、という。
結社誌「懸葵」「常盤木」「石楠」「人生と表現」「雄弁」「炬火」「枯野」等にあった句を冬葉自身が自選して収録した。その数は1222句。全集版のこの抄録には村山故郷が200句を選出した。
巻頭には大須賀乙字の「冬葉の近業」があるが、大正7(1918)年8月の「懸葵」から転載。当句集は大正11(1922)年4月に出版。したがって乙字は亡くなった後になる。それでも掲載したのは句集の体裁を整えるためであろう。
俳論家で知られた大須賀乙字は明治14(1881)年7月29日~大正9(1920)年1月20日。
当句集は季題別に編纂されて、冬葉を特徴づけるとして旅行吟は独立して編入された。例えば大正8年の駒ヶ岳登山の7句は上松より頂上までの前書きもあり木曽駒登山の山岳詠である。大正9年の高野より吉野へは12句抄録された。
最後になったが、冬葉の経歴を書き留めておきたい。
生まれは明治25(1892)年。岐阜県中津川市苗木に生まれる。本名は辰男。少年時代名古屋市で陶器画工として働きながら育英中学校を卒業。そのころから小牧の織田烏不関に俳句を学び、明治43年上京して大須賀乙字に師事、以後俳句一筋に精進した。乙字とともに「懸葵」「石楠」「常盤木」等に拠ったが乙字没後の大正14年「獺祭」を創刊主宰。乙字の系統は伊東月草、志田素琴等に分散したが、この間冬葉は主張を枉(曲)げず乙字一筋を貫いた。
句風は、乙字風の古俳句的な格調高い風景描写に、深い自然観照を加え、独自の風格を示した。昭和31年没。
大正11年 『冬葉第一句集』
昭和6年 『故郷』
昭和8年 『青嵐』
昭和16年 『望郷』
俳句指導書多数ある。
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