内閣を辞して薩摩に昼寝哉 正岡子規2018年02月09日

 ある俳句入門書に引用されていた一句。その著者は陳腐と批判するが子規らしい核心を突いた句である。昼寝は夏の季語。
 
 NHKの大河ドラマのせいか今や書店の店頭は西郷(せご)どんものが山積している。1冊くらいは読まねばと書棚を捜したが渡部昇一『南州洲翁遺訓を読む』ーわが西郷隆盛論(致知出版社)があるだけだった。とりあえず手に取る。

西郷隆盛の生涯
ソース:http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai.htm
 
 の中の「【私学校設立】
 全権大使として朝鮮へ渡海することを断念せざるを得なくなった西郷は、明治六(一八七三)年十月二十三日、政府に辞表を提出し、鹿児島へと帰郷しました。
 西郷の辞職と帰国は、国内に衝撃を走らせました。西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官たちは、西郷に付き従うかのように相次いで辞表を提出して、続々と鹿児島に帰郷しました。
 鹿児島に戻った西郷は、政治的なことには一切関わらず、温泉に湯治に出かけ、農耕に励み、そして魚釣りや狩猟に勤しむなど、俗事から離れた生活を始めました。」
「そして、迎えた運命の明治十(一八七七)年九月二十四日。
 政府軍は総攻撃を始め、城山に向けて集中砲火を浴びせかけました。
西郷と薩軍将兵たちは、潔く前へ進んで死のうと決意を固め、城山を下山し始めました。西郷に付き従った将兵たちは、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきましたが、それでもなお西郷は前へ前へと歩み続けました。その時、一発の銃弾が西郷の体を貫きました。政府軍が放った流れ弾が、西郷の肩と太股に当たり、西郷はその場にがっくりと膝を落としました。
 西郷は傍らにいた別府晋介に向かって言いました。

「晋どん、もうここいらでよか……」

 別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせー」と叫び、西郷の首を斬り落としました。
 西郷隆盛、四十九歳の波乱に満ちた生涯の幕切れでした。
 西郷という人物は、若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、常に人々の期待や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる立役者の一人となりました。
 しかしながら、西郷自身はその功績に決して驕ることなく、常に自らを厳しく律し、無欲でいることを心がけました。
 また、「敬天愛人」という言葉が象徴しているように、その性格は愛情深く、常に民衆の側からの政治を目指すことを理想としました。
 日本の歴史上、このような人物は、西郷ただ一人しか存在していないと言っても過言ではありません。西郷は清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えます。」
 以上は単行本になっているようです。
粒山樹『維新を創った男 西郷隆盛の実像』


 俳句では夏の季語ですが、実際は秋の出来事でした。しかも明治30年の句です。西郷が内閣を辞した頃の子規は6歳だったので空想句ですね。