玉砂利の参道踏みて初詣2018年01月01日

 愛知県護国神社へ初詣。周辺に人だかりはないのに境内は賑わっていた。みなマイカーで来た年賀客が多かったようだ。甘酒をいただいて神社を後にした。その後那古野神社、東照宮とお参りして事務所へ行く。事務所の年賀状をチエックして返礼を書いて投函。
 元旦の栄近辺はデパートも休業でさすがに静かな繁華街です。2日は初売りも始まり賑わうだろう。
 栄からそのまま大須まで歩いてみました。大須は人があふれていました。特にアジア系外国人が目立った。中国語、英語などが聞こえてきた。アーケード街にはいると韓国系、台湾系の店がありそれで多いのかと思いました。
 大須・万松寺は新装なりビルになっていた。何の行列か聞くと奥が拝殿だとか。あのからくりはどこへ行ったのか。一層混雑していたが大須観音まで歩いた。ここも大行列で、警備員に聞くと参拝客が空いてくるのは午後6時以降というので地下鉄の駅へ行って帰宅した。

初読や温故知新をあらためん2018年01月03日

 『渓谷3』の前書きに「修練というのはおそろしいもので、30才から40才、あるいは50才の人が若い登山者とそれほど差のないはげしい登山をこなしている例をよく見る。
 これは若い自分から長年続けてきた経験の積み重ねを貯金として、この貯金を全部引き出さないでもちつづけてきたからにほかならない。登山をまったく行わない同年代の人には到底まねのできない芸当である。」
 執筆者は『鈴鹿の山と谷』の西尾寿一氏。まさに至言である。
 関西の登山家には見識の高い人がいる。西尾氏も間違いなくその1人としてあげてよい。登山家の中には初登頂や初登攀にこだわる人が多い。そして一気にやり遂げようとして遭難死する。そんな人に比べると関西の登山家は落ち着いて山を考えていることが分かる。
 中年になってから登山を始めたり、再開した人は機が熟するのを待てないのだろう。つまり経験の積み重ねを急ごうとする。ブランクを埋めようとする。そこに無理がある。最悪は遭難ということになる。
 ある登山家は臆病になれと諭す。その人自身も失敗の経験を積むほどに臆病になった。他人からは笑われた。後になってみると笑った人が事故に遭遇していた。
 松尾芭蕉の俳句理論に「不易流行論」がある。不易とは時代が変わっても変わらないこと、流行は時代とともに変わることの謂い。
 登山においても慎重(臆病)であることは不易といえる。様々な情報が飛び交い、流行に接するが振り回されないようにしたいものです。

添へ書きによぼよぼとある賀状受く2018年01月04日

 年賀状を新たに購入して返礼を書いて投函した。今日でほぼ終わっただろう。今年は1/7以降はプラス10円だそうな。
 あらためて年賀状を読み直すと年長の友人からよぼよぼと添え書きがあった。90歳に近づくとそんなことになるのだろう。年はとりたくないものだが、やむを得ない。
 気力で生きる。だから何か夢を持ちたい。終生終わらない仕事を抱えるのが良い。 
 そうだ、徳川家康の遺訓を思う。
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
 家康は論語を学んだという。その学殖が滲み出ているような遺訓である。特に堪忍は無事長久の基というところ。出番を待つこと。一生昼行灯で終わるかも知れないが・・・。

星野さへ癌には勝てず四日逝く2018年01月06日

 6日付日刊スポーツは
 「楽天の星野仙一副会長が4日午前5時25分に死去した。70歳だった。6日、楽天が発表した。

 楽天の発表によると、星野氏は16年7月に急性膵炎(すいえん)を発症したことをきっかけに膵臓(すいぞう)がんであることが判明。その後、体調に波があったものの仕事に支障を来すことなく過ごしていた。昨年12月に行われた野球殿堂入りを祝うパーティーでは元気な姿を見せていたが、昨年12月末から病状が悪化した。

 最期は昼寝でもしているかのような安らかな表情で、家族にみとられて旅立ったという。」と報じた。
以上

 さらに略歴を見ると

 1947年(昭22)1月22日、岡山県生まれ。というから団塊の世代のトップランナーだった。
 「倉敷商から明大を経て68年ドラフト1位で中日入団。中日一筋でプレーし「燃える男」と呼ばれた。82年引退まで通算500試合に登板し146勝121敗34セーブ、防御率3・60。「巨人キラー」として巨人から35勝を挙げた。74年最多セーブ、沢村賞。87年に中日監督に就任。中日で88、99年、阪神で03年に優勝。史上初めてセ2球団を優勝へ導いた。中略。17年野球殿堂入り。」
 とあり、野球人生で、取れるものはみんな取った。国民栄誉賞をもらっても良いような活躍ぶりだった。燃え尽きたのだろうか。ファンではなかったが存在感のある人だった。それにしても70歳で逝くなんて早過ぎる。
 ご冥福を祈る。

映画「鉄道員(ぽっぽや)」観賞2018年01月07日

 浅田次郎『鉄道員』(1997年、集英社文庫)原作は直木賞受賞。映画化は1999年。監督・脚本は 降旗康男。DVDは2001年。
 やがて廃線になる北海道のローカル線の駅長が主人公。佐藤乙松は機関車の罐焚きから駅長に出世した。いわばたたき上げのぽっぽやだった。結婚して一女をもうけるが数ヶ月で死なせる。妻も早くに死ぬ。そんな時でも乙松は駅頭に立って駅長の役目を愚直にこなした。仕事第一の不器用な男に描かれている。
 そして物語の中盤から浅田次郎の世界に引き込まれる。それは亡くした女児が幻になって乙松にまとわりつく。少女、女生徒になり変わる。生と死、黄泉の国から一時帰国させて、リアルに描くと暗くなりがちなドラマをほのぼのとさせる。やがて乙松も職場の駅頭で倒れる。雪に埋もれるのだった。
 野外の特に山岳のショットの切り取り方に不思議な既視感があった。DVDの撮影監督を見るとやはり木村大作だった。「八甲田山」「剣岳点の記」など山岳映画の撮影で一人気を吐く職人さんである。
 浅田ワールドは初見でした。原作も買ってきて読んだ。さらに深まった。 高倉健が主人公役を演じるのは好適としても女房役の大竹しのぶはミスキャストのように思われた。田中好子が出ていたらしいが気がつかなかった。志村けんもはまり役だ。男優陣には不足はない。女房役にもう少し苦労が顔に刻まれた女優は居なかったのだろうか。余りにも儚い演技でした。否それが彼女の演技なんですね。
 でもね小津安二郎なら哀しい時は哀しさを見せないんだという。難しい役です。台詞を与え過ぎるのかな。
  露の世は 露の世ながら さりながら     小林 一茶

浅田次郎『神坐す山の物語』を読む2018年01月08日

 浅田次郎。双葉文庫。2017.12.17刊。単行本は2014年に双葉社から刊行。
 東京都の御嶽山が舞台。母が御師の娘だったせいで昔話を聞かされて育ったという。それを浅田流の怪異な小説に仕立てた。言わば母が語り部であり、浅田が書き手になった。遠野物語も原作(種本)があり柳田国男が韻文で著した。
 大衆小説家の第一人者の浅田次郎がなぜこんな小説を、と思うが山岳書の世界で怪異な物語本がロングセラーになっていることが影響しているかに思う。例えば山と渓谷社の『山怪 山人が語る不思議な話』は増刷に増刷を重ねている。続編も刊行された。続けて『定本 黒部の山賊 アルプスの怪』も復刊された。
 本書もその流れに乗ったのだと思う。
 私も小学生の時代、住んでいた小さな農村では狐憑きにあって山へ逃げ込んだ人がいて、火事で鳴らす半鐘を叩いて村人を集めて夜中に山狩り(捜索)がされたことがいまでも記憶の底にある。あるいは2つ3つ年下の近所の男の子が神隠しに遭いこれも大騒動することがあった。山は怖いところだという印象をその自分に叩きこまれたのである。 
 今でも単独行で山中で相手も1人というときは緊張する。女性だと尚さらに警戒心が働く。山をひとりで彷徨う人間ほど怖いものはない。
 さて、過去の日記か報告書のような文体である。登山でもいつしか迷い易い平を歩いていて、とんでもない道に入ることがある。だから気をつけていないと何が書いてあるのか脈絡がとれなくなる気分である。それでまた丁寧に虚実の分かれ目をたどるように読み直すことがしばしばであった。
 中でも「兵隊宿」は傑作であろう。東京都の山奥から遥かなる中国大陸の日露戦争の戦場へと導かれる。知ったが終いなのでそれは読んでのお楽しみである。
 『鉄道員』の中盤にも赤ちゃんのままで死んだ娘の亡霊が成長した姿で主人公にまとわりつく場面がある。本書と併せて読んでみてははん、浅田次郎の小説の真骨頂はこれなんだな、と納得する。たくましい想像力と子供のころに培った御嶽山の昔話とがないまぜになって浅田ワールドを構築しているんだ。たった2冊を読んだくらいで分かったふりするなと紙つぶてが飛んできそうだ。
 
 話は代わるが俳人の岡田日朗は御嶽山の俳句を多く残している。都民には親しい山なのであろう。
 山上に御師の町あり月照らす
 老鶯や裏道抜け道御師部落
 春暁の雲に埋まりし御師部落

 御師部落とは山の神に仕える神官のことで、その神官の村。東海地方では岐阜県白鳥町の石徹白が知られる。全戸神官で名字帯刀が許されたという。白山への登拝を代わりにする代参をしたという。

冬晴れの遠州・常光寺山に登る2018年01月14日

 名古屋・金山駅前発7時、4名で同乗。高辻ICから鳳来峡ICへ。R151から浦川経由水窪を目指す。水窪川に沿う谷底のR473はいつまでも日がささない。かと思えば、上の山腹を見上げれば明るい谷間の村もある。少しでも太陽の恵みを得たくて上へ上へと住んだ。
 高速をでてからも長いドライブが続いてやっと水窪に着いた。山住神社の案内を確認して県道に入る。古い5万図には最奥の山里から山住神社へ破線路があった。登拝の道であった。それは今も大きな鳥居を建てて古道として残しているようだ。
 最奥の山里を離れると道は細くタイトなカーブが続く。上部に上がると太陽が一杯降り注ぐ。やがて山住神社であった。予定は右の井戸口山だったがゲートで閉ざされている。逆に諦めていた常光寺山への車道は家老平まで走れた。本当に平らな高原であり、野鳥観察の施設があった。バードウォッチャーらしい車があり1人だけいた。

 家老平から登山口の案内板があり1時間30分の表示もあった。最初はほとんど高度をあげない。空気は冷たいが風もなく日だまり山行に終始する。野鳥の森らしく雑木林をカケスが飛び交う。右にはスーパー林道が見えたが1173m辺りから離れて高度があがり急登になった。ちらほらあった雪も出てきて数センチに積もって冬山らしい。
 広い尾根からアセビのからまる痩せ尾根になる。一旦緩やかに下って登り返すと1418mのピークになる。手前には地形図にもある大きな崩壊地を通過する。1418mからは意外にも大きな下りが待っていた。北西面のためか雪が凍って滑りやすいので時間がかかった。鞍部から登り返すと山頂だ。点名常光寺の3等三角点である。
 ネット情報では展望がないとのことだったが落葉期の今は360度の大展望だった。仰角の関係か、富士山は見られず残念。20万の地勢図飯田、甲府、豊橋等を広げて山岳同定を楽しむ。(肝心な駿河は紛失した。)伊那山脈や南アルプス深南部の山々(多分麻布山から前黒法師山)、熊伏山の背後の真っ白な木曽駒と中央アルプス、意外な三角錐の恵那山等が遠望できた。南には京丸山が見えたし、遠州灘が鈍く光っていた。往路を下山。

 今年の干支の山犬を守護神とする山住神社に参拝した。御手洗の水も凍結するような厳寒の神社でも宮司が1人居られた。大杉は見ごたえがある。和銅2年(709)伊予の大山祇神(おおやまづみのかみ)を勧請して山住(やまずみ)大権現と称した。当初は、勝坂、あるいは門桁、あるいは宮川に創建された後、現在地に遷座したという。イザナミが祀られている。
 神社の由緒から「徳川家康が武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し、ウォーウォーという山犬の大音声がおこり、武田勢を退散させた。以来、徳川家康の崇敬を受けたという。そのためだろうか、当社の神紋は葵の紋だ。徳川家康を助けた山犬の声でも明白だが、当社は、山犬(狼)信仰の神社。当社の神札には、山犬様が描かれている。
 山犬(狼)は、農作物を荒らす猪や鹿を退治する益獣であり、焼畑の作物の守り神。奥三河一帯には、山住神社の山犬信仰が浸透しているという。昭和27年の佐久間ダム建設の時、
周囲の猪が、いっせいに愛知県東栄町方面へ移動し、作物に多大な被害を与えた。この時にも、猪害をさけるため、小字単位で山住の小祠を作って祀ったという。猪退治の山犬信仰は、その後、悪霊除け、猿除けへと拡大した。」

 参拝後は神社の北の1108mの三角点に詣でた。常光神の入り口から山道を登ると小社がある。その少し尾根を歩くと山住峠の看板があった。ネット地図で検索すると点名は家老峠になっていた。当初予定した井戸口山の点名は山住山という。
 
 水窪ではお買いものをした。栃餅、コンニャク、山の味噌などを購入。ついでに双体道祖神を拝んだ。美男美女の兄妹が互いに縁が薄く旅に出て相手を探すが見つからずついに兄妹で結婚したという。同行者が「兄妹じゃいかんがね」と近親結婚をとがめた。「いとこ同士は鴨の味」という俚諺もあるが兄妹はないな。勝手知ったる相手ならいざこざもない。幸せなら良いじゃないか。帰路も往路を走った。

 干支の山として山犬の段から高塚山を予定したがS林道は冬の通行止めで走れず。開通後は山犬の段から房小山に行く予定。

スタッドレスタイヤのエアアップ2018年01月15日

 昨日は往復365kmのスタッドレス交換後で初の長距離走行だった。何となくハンドルが重い気がした。給油してみると燃費は9.6km/Lと、4名乗車かつタイトなカーブの山道を走った割りには悪くもない。それで9ヶ月間ベランダに保管した間に空気が抜けたのかと規定どおりにアップした。アップ後はあれっと思うほど軽快になった。タイヤが空気圧で硬くなった分微振動が発生する。特にカーブでのロールが抑えられて気持ちいい運転感覚になった。

新年会2018年01月17日

 今夜は山岳会の新年会だった。会場は東区の「よ志や」さん。家庭的な料理でもてなす居酒屋である。主は元会員である。現役当時は家族ぐるみでハイキングに行っていた。その当時の小学生も今や30歳を越え子供もいる。つまり主からみれば孫が出来た。
 多分開業以来のつきあいだろう。元会員という気安さがあるが、参加者には料理が好評でもある。チエーン店とはひと味違う手料理がうまいからだ。それでないと長くは使えない。
 出席者は17名。お座敷のスペースは定員14名くらいなので3名はカウンターにはみ出た。今夜は当会の貸切なので好きに使っているわけだ。メンバーも年年歳歳顔が変わる。
 当方は会員歴40年になるから当時の人は誰も居なくなった。会は1962(昭和38)年創立だから今年で56年になる。つまり創立15年目(昭和53~54年)で入会した。あの当時から山岳会の中高年化が始まった。
 入会条件が40歳以上という「ふわく山の会」が誕生したのは1979(昭和54)年という。一時は1000名の会員を有したが今は685名とHPにある。
 当時は当方も30歳台であった。中高年、つまり自分より年長者を入会させないと会が維持できなくなった。5歳10歳20歳年上の会員を入会させて運営してきた。今も60歳代を中心に80歳台2名、70歳代数名が在籍するが会員募集をインターネットに絞った2014年辺りから若返りの兆しが見え始めた。
 30歳代から50歳代の会員が入会し始めたのだ。今夜の新年会はその世代が出席して代替わりの感が高まる。どのように継承してゆくのか。
 創業よりも継続が難しなのは国家だけではない。民法上、こんな小さな権利能力なき団体であっても、任意の団体であっても継続のためにはたえず革新が必要なのだろう。適者生存とは社会の変化に適応できるものだけが生き残るという説。資金力(カネ)、組織力(人)、設備(モノ)ではなく、適応能力が大切ということ。
 「いい加減にやろう」と真意が分かる人には話している。会員を何が何でも増やさず、結束を強いることもなく、実践を通じてゆるやかな連帯が保っていければよい。だからというわけではないが遭難して死亡した人は入会以前に1人だけ。山岳会としては驚異的である。
 活発な山岳会は事故や遭難死もそれなりに多く、登山活動自粛、そして世話役のスタッフやリーダーが居なくなり、活動は停滞、いつしか解散を余儀なくされる。
 ささやかでも登山の実践、記録を残す、そして書くこと。他のスポーツにはない特色を味わいたい。山歴は趣味歴でありこんなに長く続いたのも驚異である。

歌手・俳優橋幸夫さん 介護の中にも幸せの種(岐阜新聞)2018年01月18日

ソース:http://www.gifu-np.co.jp/tokusyu/2018/seikon/sei20180117.shtml
◆テーマ「一生健康、一生学習人生は生きてこそ」

 岐阜市長良の岐阜グランドホテルで16日に開かれた岐阜新聞・岐阜放送懇談会の岐阜・西濃新春合同例会では、歌手で俳優の橋幸夫さん(74)が「一生健康、一生学習 人生は生きてこそ」と題して講演した。この日は歌を「封印」しつつ、認知症の母の介護経験や、人生を幸せに生きるヒントを軽妙な語り口で紹介。笑顔あふれるトークで来場者を楽しませた。

 橋さんは約30年前、認知症となった母を介護して看(み)取った。当時の苦労などを紹介したが、「一時期は(介護のため)歌を歌えない橋幸夫になったが、その代わりに介護の話ができ、関連の本を出版した橋幸夫になった。どこに幸せがあるかは分からない」と説明。「自分自身が幸せと思うことができれば、生活は幸せになる。幸せかどうかは自分が決めるという姿勢を持ってほしい」と語った。

 また、認知症予備軍かどうかをチェックする複数の項目を示し、来場者とともに楽しみながら実践。「家族や親戚、友人など、近い人が気付く前に自分自身が認知症の兆候に気付いてほしい。認知症は縁遠いものと思わないで」と呼び掛けた。

 健康づくりについても紹介。「寄る年波にはかなわず、自分の衰えを知ることで、病気の予防や予知を学習した。生きることの大事さや健康が大切であることを時々は思い出し、自分自身で健康を維持する意識を持ってほしい」と語った。
以上
 以前から橋幸夫の講演を拝聴したいと思っていた。名古屋よりも岐阜に縁のある人らしい。橋さんは私が中学生時代から大人気を誇っていた歌手である。それが老いた母の介護に関わる。そのことでまた別の人生が開けた。
 認知症についてもずいぶん学習されたようだ。さらに健康についても人前で話すだけの学習を積み重ねたのだろう。人生100年時代というから今後も機会があるだろう。HPには過去2000回の講演をこなしたとか。1度は拝聴したいと思う記事である。