オリヲンの真下春立つ雪の宿 前田普羅2018年02月04日

 WEBの大辞林によると「二月上旬の宵に南中する星座。アルファ星ベテルギウスとリゲル、その中間に位置するいわゆる「三つ星」が冬の南天を飾る。」だとか。空気の澄んだ山村の冬空にはよく見えるらしい。らしいのは私は眼が悪いので星座は苦手。

 この句は富山市でのものだろう。立春の夜空にオリオンを認めた。雪の宿は雪におおわれた自宅を指すのだろう。春立つと中句に季語を置いて厳しい寒気の中にも春を見出す作者が居る。

 この日は藪山でもふらつくつもりが余りに寒くて出かける気にはならず。自宅で寝ころんで読書三昧になった。それでも午後遅く、長久手温泉に出向いた。自宅の風呂は電気温水器ゆえか夕方には冷えてしまう。ギリギリの温度は保つが芯から温まらないので入湯しに行った。さすがに広い風呂は良い。考えは皆同じと見えて湯客も多かった。

  男湯にあまた春立つ湯殿かな

鎌田則雄個展「雪稜の八ヶ岳を登る」に行く2018年02月06日

 今日は鎌田則雄さんの「雪稜の八ヶ岳を登る」という山岳写真の個展に行った。いつもは日本山岳写真協会東海支部のメンバーによる出展になるが珍しく個展になった。
 冬の八ヶ岳を撮ることに絞ったためにモノトーンになるかと思いきや青空が白い山とマッチして色調が良く出ている。白以外に山の尾根や谷の影をとらえた作品は立体感があって良い。白のベタッとした写真は観光写真によくある。
 他には朝焼け(夕焼けか?)の色調をとらえた作品もよかった。被写体としての八ヶ岳は申し分ないが撮影場所、撮影時間などに一工夫が要る。前述した山影は陰影を深める。同じ山でも違う印象を与える。
 刻々と変化してゆく山岳の条件をよく知悉して作品に投影するには相当な経験が要る。そういうものを発表したいという境地に達したのだろう。

 帰りかけたら山友から電話があった。鎌田さんの個展はどこでやっているの、大永ビルディング(HCL)なんて知らない、という。 .
 会場は中区錦1丁目のHCLフォトギャラリー2Fで。地下鉄伏見駅下車。構内を北の改札口で出るとキャノンのビル(名古屋インターシティ)の地下街に行く。地上に出て名古屋駅方面に行く。となりのビルである。入り口に個展の案内が置いてある。斜め向かいには名古屋観光ホテルがある。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%83%9B%E3%83%86%E3%83%AB/@35.1695648,136.895922,19z/data=!4m5!3m4!1s0x600377282a96dfbd:0x6b622fea8ae9c12b!8m2!3d35.1688478!4d136.8954714?hl=ja

初例会2018年02月07日

 今夜は12月以来の定例会。1月は新年会で休会だったからだ。来年度の会費納付、山岳共済保険料の納付を済ませた。続いて今月から来月の山行予定を掲示した。
 個人的には年の数だけ登らねばなるまいと思った。昨年の反省で食事制限は栄養バランスを壊し体調が悪くなり入院まで余儀なくした。また運動も心がけるがどのスポーツも単調に見える。山歩きだけが2時間でも10時間でも体調に応じて歩けるから長く続けられる。
 山行歴が長くなると過去に登った山が多くなり、新規に登る山が減ってしまった。山行回数が激減して運動量が減って体重が増加した。以前はスキー技術も下手だったから毎年転んで体力を消耗していた。1月2月に宴会太りしても4月ごろになるとちょうどいい体重に減量できたのだった。年々上手くなって転ばなくなると体力を消耗することなく楽に滑るようになった。これで体重が減らなくなった。
 健康寿命を延ばすには最大の解決策は山行回数を増やすことに尽きる。時にはきつい登山を交えながら調整する。
 さて、年間65回から70回登山するとなると、月に5回から6回登ることになる。大きな山岳では縦走して1日に数座稼ぐこともある。要するに毎週登山になる。このノルマはきつい。それでも何とかヒマを工夫しながら数をこなしていきたい。

北陸豪雪のお見舞い!2018年02月08日

ソース:http://www.sankei.com/west/news/180208/wst1802080033-n1.html
 「記録的な大雪で車の立ち往生が続いた福井県の国道8号。付近の高速道路の通行止めや大型車の脱輪、タイヤが空回りする現象が相次ぐなど、さまざまな状況が重なり、立ち往生を招いたとみられている。専門家は「余裕を持った対応が必要」とする。

 国土交通省などによると、大雪の影響で、5日夜から北陸自動車道の一部区間が通行止めとなり、併走する国道8号に大量の大型車が流入。国道8号は片側1車線の区間も多く、交通量の増加とともに、車が進みにくい状況となった。

 さらに6日午前9時ごろには、福井県あわら市熊坂で大型車が脱輪を起こし、渋滞が発生。この間も積雪量は増え続け、タイヤが雪に取られて動けなくなる「スタック」を起こす車が国道8号上で相次いだ。これらの状況が重なり、約1500台の車が立ち往生したとみられている。」
以上
 五六豪雪以来という豪雪になった。被災者にはお見舞い申し上げます。
 自衛隊の救助活動には任務とはいえ感謝したい。地元の民家でも食べ物などを差し入れたり助け合われた情報を見ると日本人のよさを感じる。また山崎パンは立ち往生したトラックの荷のパンを無償で配布されたという。困った時はお互い様の精神を再確認して心温まるニュースだった。

 メディア各社の動画を見ていると自然災害と人災の両面に原因があると思った。北陸道が早々と全面的に通行止めにしたらまずい。一気にR8に流れ込んだ。立ち往生の原因になった。
 なにしろ、物流の動脈の要なのだからね。一車線だけでも確保するべきだった。これも民営化の悪影響かも知れません。コストのかかる除雪作業を先送りすることで利益を確保できるからだ。
 一方で、R8は国費で除雪するが、北陸道からの迂回までは想定していなかっただろう。
 かつて五六豪雪の際は物流が寸断し岐阜県白鳥町は陸の孤島と言われたことを思い出す。工事中だった東海北陸道の開通が待たれたものであった。
 緊急時は自治体を中心に高速道路会社、国などが連携をとることを期待する。県境の峠越えの道路は多くないからだ。足もとを知悉した自治体の役割は大きい。
 これは余談ですが、五六豪雪では通常なら三月半ばで閉鎖するところ4月初旬まで国見岳スキー場が営業していた。虎子山へもスキーを脱がずに登山し、枝がみな雪に覆われて快適に滑降できたことを思い出す。
追記
 2月9日未明に立ち往生は解消したという。お疲れでした。
 今度は気温が上がり、降雨、雪崩や落雪が心配されている。その後はまた大雪だという予報がある。しばらくは気の休まらない日々が続く。体調に気をつけて頑張ってもらいたい。

内閣を辞して薩摩に昼寝哉 正岡子規2018年02月09日

 ある俳句入門書に引用されていた一句。その著者は陳腐と批判するが子規らしい核心を突いた句である。昼寝は夏の季語。
 
 NHKの大河ドラマのせいか今や書店の店頭は西郷(せご)どんものが山積している。1冊くらいは読まねばと書棚を捜したが渡部昇一『南州洲翁遺訓を読む』ーわが西郷隆盛論(致知出版社)があるだけだった。とりあえず手に取る。

西郷隆盛の生涯
ソース:http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/syougai.htm
 
 の中の「【私学校設立】
 全権大使として朝鮮へ渡海することを断念せざるを得なくなった西郷は、明治六(一八七三)年十月二十三日、政府に辞表を提出し、鹿児島へと帰郷しました。
 西郷の辞職と帰国は、国内に衝撃を走らせました。西郷を慕う陸軍少将の桐野利秋や篠原国幹ら旧薩摩藩出身の近衛兵や士官たちは、西郷に付き従うかのように相次いで辞表を提出して、続々と鹿児島に帰郷しました。
 鹿児島に戻った西郷は、政治的なことには一切関わらず、温泉に湯治に出かけ、農耕に励み、そして魚釣りや狩猟に勤しむなど、俗事から離れた生活を始めました。」
「そして、迎えた運命の明治十(一八七七)年九月二十四日。
 政府軍は総攻撃を始め、城山に向けて集中砲火を浴びせかけました。
西郷と薩軍将兵たちは、潔く前へ進んで死のうと決意を固め、城山を下山し始めました。西郷に付き従った将兵たちは、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れていきましたが、それでもなお西郷は前へ前へと歩み続けました。その時、一発の銃弾が西郷の体を貫きました。政府軍が放った流れ弾が、西郷の肩と太股に当たり、西郷はその場にがっくりと膝を落としました。
 西郷は傍らにいた別府晋介に向かって言いました。

「晋どん、もうここいらでよか……」

 別府はその西郷の言葉に「はい」と返事してうなずくと、涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせー」と叫び、西郷の首を斬り落としました。
 西郷隆盛、四十九歳の波乱に満ちた生涯の幕切れでした。
 西郷という人物は、若き日、島津斉彬に見出されて世に出て以来、常に人々の期待や信頼を集め、明治維新という一大革命を成し遂げる立役者の一人となりました。
 しかしながら、西郷自身はその功績に決して驕ることなく、常に自らを厳しく律し、無欲でいることを心がけました。
 また、「敬天愛人」という言葉が象徴しているように、その性格は愛情深く、常に民衆の側からの政治を目指すことを理想としました。
 日本の歴史上、このような人物は、西郷ただ一人しか存在していないと言っても過言ではありません。西郷は清廉誠実な人物であり、最も徳望ある英雄であったと言えます。」
 以上は単行本になっているようです。
粒山樹『維新を創った男 西郷隆盛の実像』


 俳句では夏の季語ですが、実際は秋の出来事でした。しかも明治30年の句です。西郷が内閣を辞した頃の子規は6歳だったので空想句ですね。

風雪の奥伊吹スキー場に遊ぶ2018年02月11日

 建国記念日の今日は朝5時集合ということだったが30分遅れて5時40分に山友宅を出発。高速を使えば一宮ICから関ヶ原ICだけなので地道を走った。東海大橋を渡って直進すると養老山麓を走る。雪は一片もない。牧田川を渡ると大垣市に入り、すぐに関ヶ原町に入る。
 関ヶ原古戦場をかすめるように行くと米原市だ。すぐにR365と分かれて伊吹山登山口の案内に従い、地方道に右折する。藤川、上平寺へと走る。
 藤古川を渡ると上平寺になる。この辺りが揖斐川(牧田川)水系と琵琶湖に注ぐ天野川水系との分水嶺になる。藤古川の源は伊吹山の最高点から流れる。県境は東の端をかすめるのだから近江の山に見えるが、この辺りに伊吹山は岐阜県の山という地勢の根拠があるのだろう。
 そもそも岐阜県は飛騨も美濃も慎ましい性格の土地柄である。県境について自己主張をしないのである。木曽川でも愛知県側の堤防は岐阜県側よりも高くしてあるそうだ。愛知県と岐阜県境でも所属争いが最近まであった。
 逆に石徹白のように美濃文化圏なのになぜか福井県であった。選挙で不便と言うので岐阜県に編入された。近年は長野県山口村も岐阜県に編入された。これは経済圏の問題であろう。
 白山は「加賀の白山」といい、御嶽は「木曽の御嶽」と他県にゆずる。阿寺山脈にしても長野県の木曽に対して、岐阜県側は裏木曽という。尾張藩が管理した木曽を重く見たのだろう。
 穂高だって長野県側の方が熱心に観光開発をしている。登山者間には槍穂高連峰で落ちるなら岐阜県側に落ちよ、とまでささやかれているそうだ。長野県警は判断によって結構有料のヘリに切り替えるからだ。しっかりしている。
 飛騨はかつては天領といった。幕府直轄だったからナショナリズムが発達しなかったのだろう。

 さて、伊吹山の麓まで来るとさすがに雪が多くなってスキー場へ行く気分が高まった。伊吹の交差点で右折。姉川に沿って走った。曲谷(まがたん)の地名が懐かしい。甲津原までくると雪国さながらの風景になった。スキー場手前の駐車料金ゲートで渋滞ができた。 無事駐車場に着いてやっとスペースを確保。すでに75%は埋まっている。関西ナンバーに混じって岡山、広島ナンバーもあった。
 トイレも、「アルカンデ」にも行列だ。歩かなくても済むがこちらは歩いてリフト券売り場に急いだ。当然、行列だ。今日は回数券だけにした。天気も悪い。それにこの来客ではゲレンデも混雑しそうだ。
 リフト設備は一新されていた。右側に乗ると2本目からは降雪がひどくなった。山スキーに必携のシールを玄関に干したまま忘れた。その上、寒風と横殴りの雪がブンゲンへのモチベーションを萎えさす。ともかくリフトのもっとも高いところへ降りた。約1200mはあるはずだ。寒気流は大体この高さで流れているらしい。早々に滑走に入った。
 このゲレンデはまずまずのコンディションだった。山友と話し合って、この悪天ではブンゲンは無理とあきらめた。
 それで4等三角点(点名:品又峠)日ノ出山1045.5mを提案。一旦、出発地点へ滑降、左側のリフト2基を乗り継いで終点に立った。風雪はそれほどでもない。比高150mの差である。
 ここでスキーを外す。鉄骨の展望櫓をめがけてキックステップで登り始めた。するとスキー場のパトロール員2名が注意喚起する。場外への滑走で行方不明事故が多発しているので挙動不審者には神経をとがらしているようだ。あの櫓へ、と山友が説明して不審を解いた。
 約50センチほどの深さはある斜面を蹴り込みながら登るのは快適であった。櫓付近は太ももまでもぐった。どこかに三角点があるが記憶がない。山友は櫓に登り始めた。上で踏板が外れていると分かって降りた。またゲレンデに下って、スキー板を履いた。
 品又峠に向って滑降を開始。かつて峠からは1230mの無名峰までリフト2本が設置されていたが今は廃止された。多分風雪が強いのだろう。揖斐高原スキー場から林道をたどり、品又峠からリフトに沿って登った。終点の廃屋付近でツエルトビバークをしたのもこの2月の連休だった。あの辺りはブナの原生林だったと思う。
 品又峠からは緩斜面のゲレンデを滑降。また最初に戻り、右のリフトを1本乗ると回数券は終わる。さらなる緩斜面に基礎スキーの技術チエックをしながら滑る。シュテムターン、シュテムギルランデなど、山で使う技術を意識して滑った。
 スキーのセンターまで来るとスキー客がびっしり埋める。うわ―、という感じで早々に板をはずしてPに戻った。時刻は12時30分くらいだっただろう。ちょっと早過ぎる気もするが混雑にはもまれたくない。それに朝は空いていた場所もクルマが埋まっていた。
 スキー場からの車道を下っても約6kmほどは渋滞中であった。おそらくキャパシティを越えているのではないか。最奥の甲津原もマイカーやバスで一杯だった。それからまだまだ渋滞は続いたのである。
 曲谷を過ぎて吉槻まで来ると急に明るくなった。それまでは裏日本の気候、ここからは表日本と言う感じだ。伊吹の道の駅で一休みしたらここも満杯だった。ようやく伊吹の麓を去った。朝の曇り空はよく晴れた。伊吹山も少し見えた。
 R365をたどり、関ヶ原、養老へ。養老ミートで気になっていた豚チャン1kgパックと他を購入した。温泉にでもと行ってみると800円の入湯料に引き返す。南濃町まで足を伸ばして南濃温泉 水晶の湯へ入湯。JAF会員は410円也。ああ、やっぱり本物の温泉は温まる。やっと帰宅する気になった。
 山友を送り、帰宅。自宅では早速、豚チャンを賞味した。フライパンに油を引き、にんにくのみじん切りを入れる。豚チャンを入れて、後でキャベツを大量に入れる。缶チューハイを片手に今日の反省をした。疲労と酔いで、横殴りの風雪を思いつつ間もなく睡魔に襲われるのであった。

黒津山は返り討ち~春北風(はるきた)の吹く尾根を歩く2018年02月19日

        厳寒の坂内村へ
 2月17日の夜、集合地の某所で4人が合流。一路、揖斐川に沿うR303を走る。往き交うクルマはほとんどない。揖斐峡に入ると雪が増えた。トンネルと橋で貫く夜の国道は風雪の状況になった。ふじはしの湯ある道の駅もクルマは見あたらず広大なPも真っ白になった。路面も白い。
 横山ダムに向うと風雪は強まった。奥いび湖を橋で渡ると坂内村だ。道の駅のPももちろん真っ白で風が強い。その一角にテントを張ってビバークする。ファミリーテントなのでは折々強風が吹くと大きくゆれた。寒いので宴会もなく早々にシュラフに潜った。
 2月18日、朝3時45分に小用で起きた。すぐに4時なので眠ることもなく出発に向けての準備に入る。お湯を沸かして簡単な食事をとる。テント撤収、身支度を整えて出発だ。旧役場の庁舎裏に登山口があった。というもの山城への遊歩道の案内である。地形図で461mの独立標高点が広瀬城跡という。
        春北風の吹く尾根を登る
 役場裏のPは除雪されていたが尾根の入り口は残雪があってワカンを付けた。午前6時15分出発だ。道標は1か所あったが竹林の斜面の道は雪で分からず適当に登って本来の登山道が雪に埋まり、その足跡に合流した。
 尾根にたどり着くと照葉樹林(あせび等)と杉の間の雪の上を登った。461mの城跡に達する。とっくりのセーターを脱いで体温調整する。しばらく歩くとそれから先は明るい雑木林の尾根になった。また城跡まであった歩道がなくなったせいか、夏道のない尾根は枝が行く手を邪魔してうるさい。登るにつれて雪が増えた。雪で明るい林は気持ちが良い。先頭はワカンで踏みしめてラッセルしてくれるから後続はさほど潜らず楽に登れる。踏み代は20センチくらいか。
 ときどき北風に乗って雪が舞う。ああ、これが俳句の季語にある春北風(はるきた)だ。北陸では暴風雪であろう。雪雲が奥美濃の空を黒く覆う。福井で雪を降らせた後北西の季節風に乗って、越美山地に吹いてくるのだ。この寒風のせいで尾根の雪も固く締まっているのだ。
        積雪が増えた尾根を歩く
 標高937mの南の900m辺りに第一の難渋場面があった。春北風のもたらす吹き溜まりが雪庇のように壁になってゆく手を阻んだ。ストックしかないと突破は難しい。先行者は1本の木があったのでそれをつかんで足場になる雪を崩して乗り越した。するとまた穏やかな尾根になり937mのコブを越えた。ここだけならスキーを持ってくればよかったと思う。
 4等三角点969.9mの「片手」は北西の季節風の影響をもろにうけて雪の壁が発達していた。先行者は躊躇していたが、左へステップして乗り越した。ヒラリーステップをもじって○△ステップとジョークを飛ばす。
 時計を見ると既に11時になった。行動予定の持ち時間は6時間と決めている。あと1時間しかない。せめて前衛のアラクラという1163m峰まででもと思う。
         アラクラの手前で撤退
 結局は1050mの等高線を越えて1080mの小さなへそのみたいなコブで12時となった。持ち時間を目いっぱい使ったがアラクラまでも踏めなかった。アラクラはすぐ目の上に聳え、黒津山ははるかに遠くにたおやかな稜線の上に見えた。
 遠い山だと思う。2011年3月に親谷から山スキーで登ったが稜線直下で6時間に達して撤退した。今回はリベンジだったが返り討ちにあった。藪が残雪に抑えられているこの時節でも6時間では登れないと悟った。大谷川の林道350m地点から4等三角点「荒倉」882.3mを経由すれば比高100mは楽できて尾根の長さも約半分と短い。残雪期だからといって優しい山ではない。
 ここで記念撮影だ。幸いにも青空が見え隠れして天気は良くなる方向である。金糞岳、貝月山と鍋倉山、その向こうの伊吹山、横山岳、高丸、烏帽子岳、すぐ近くには湧谷山、蕎麦粒山が見えた。しかし、何と言っても天狗山が左右に均整がとれて素晴らしい。それらを背景に撮影。黒津川源流の斜面はみな落葉樹林で覆われている。黒津と天狗の稜線も同じ落葉樹林である。
         青空を背景に聳える天狗山を見て下る
 下山を開始するとこれまでの景色が反対になる。尾根から眺める天狗山の山容は改めて素晴らしいと思った。黒津山から天狗山間を1日で駆けた韋駄天のような山やさんの記録もある。この眺めをみるとその野心も湧いてくるだろうに。この眺めに癒されたのか、登頂はできなかったが満足したという同行者のコメントにこちらも癒された。

人体冷えて東北白い花盛り 金子兜太2018年02月21日

 今朝の目覚まし代わりに聞いていたNHKラジオで金子兜太の訃報を知った。お悔やみ申し上げます。
 俳人・金子兜太と聞いてとっさに浮かんだ句が表題の俳句である。どんな花か具象性はないが、読み手には辛夷の咲く早春を想起させて印象深い。
 金子兜太の左翼の思想性にはついになじめなかったが多くの俳人に影響を与えた点で評価される。
 何がきっかけか忘れたが、つい最近も1985年の『わが戦後俳句史』(岩波新書)や1999年の『俳句専念』(ちくま新書)、2011年の『俳句を楽しむ人生』(中経文庫)、その他を取り出して枕元に並べておいたばかりだった。
 どの本も生涯俳句から離れられなかった人生の書です。『わが戦後俳句史』には「自分の生き方を第一としながらも俳句から離れられなかった者の俳句史もありうる」と思い、「俳句形式のもともとのあり方はそういうものであり、その意味で、俳句の日常性や記録が大事とされている」と書いた。
 書いている内に思い出したのは1980年の講談社現代新書『小林一茶―<漂鳥>の俳人 』を読んだことが金子氏に興味を持ったきっかけになったかも知れない。秩父の医者の家に生まれ、東大出の日銀のエリートの人生から外れてしまった。それと戦争の荒波にもまれたことだろう。終戦時26歳という若さで戦後の混乱期を生き延びた。一茶も波乱を生きた。37歳で俳句専念を決める。
 以前にも書いたが、前衛俳句なるものは今はどうなのか。虚子の有季定型に反発して様々な形式が流行ったが今に続くものはない。線香花火のように一時期をパッと明るくはするがその後は続かない。金子氏の死去ではっきりするだろう。俳句を言葉の断片にした。日本語の韻文としてはしまらない。金子氏一代限りの詩形であったと思う。

 WEB毎日新聞から
訃報
金子兜太さん98歳=俳人 前衛俳句、戦後をリード
「前衛俳句の旗手として活躍し第二次世界大戦後の俳壇をリードした俳人の金子兜太(かねこ・とうた)さんが20日、急性呼吸促迫症候群のため、埼玉県熊谷市の病院で死去した。98歳。葬儀は近親者のみで営む。後日お別れの会を開く。埼玉県生まれ。1937年、旧制水戸高校在学中に俳句と出合い、加藤楸邨に師事した。

 太平洋戦争下の43年に東京帝国大を卒業後、日本銀行に入るが、すぐに海軍へ。主計中尉として南洋のトラック島へ赴任し、同島で終戦を迎えた。捕虜生活を経て46年に復員。戦後は日銀勤務の傍ら、俳誌「寒雷」「風」を舞台に活躍を開始した。

 思想性と方法意識に富む作品から、「社会性俳句」「前衛俳句」といった新潮流の代表と見なされた。俳句造型論の提唱など、自らも積極的に論争に参加。同時代の短歌などにも影響を与えた。

 56年、現代俳句協会賞を受賞。62年、同人誌「海程」を創刊した(のち主宰)。83年、現代俳句協会会長に就任するなど後進の指導にも努めた。2000年から同協会名誉会長。」

小平の金によろこぶ冬の八ヶ岳(やつ)2018年02月21日

 ピョンチャンオリンピックで見事金を獲得した小平奈緒さんは長野県茅野市出身。茅野市は八ヶ岳の麓の町。さぞや麓で育った女の子が大活躍して山も喜んでいるだろう。
 小平さんの活躍は偶然ではなかった。茅野市は本州でもっとも寒い所と言われる。氷がふんだんにあり練習場所には事欠かなかっただろうと想像してみた。
 とりわけライバルの韓国のイ・サンファ選手とは抱き合って涙を流した。ともに友人同士という。日韓の国家間のわだかまりを解かすような場面には日本国民として感動した。

二ン月や水脈(みお)の果てへと逝く兜太2018年02月23日

 現代俳句界の大御所だった俳人・金子兜太さんが逝って新聞各紙が追悼文を掲載している。
 代表句はいろいろ紹介されたが、今までに知らなかった句も多々ある。中でも処女句集「少年」に所収の

  水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 

は良い。五七五の有季定型ということもあってリズムがあり当方にはなじみやすい。追悼句そしてオマージュとして表題の句を作った。金子さんの原点かも知れません。戦争で多くの戦友を亡くした。自分だけ生きて帰って良いものか。そんな戦友への想いが平和の尊さにつながり、反権力につながったのだろう。彼の世では戦友らと句会でもやるのだろう。

 朝日新聞は「金子さんは「俳句にも社会性が必要」と同時代の思想や時代背景を積極的に詠み、時に実験的な手法も用いて俳句の革新を試みた。一方で、民衆の心をうたう詩として普及につとめた。悲惨な戦争の体験者として不戦を訴え続け、晩年まで政治や国際情勢に関心を抱き、きな臭くなる社会の行く末を案じていた。

 力強い作風の原点には、海軍主計中尉として赴任した南洋・トラック島での戦場体験があった。

 「水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る」は、15カ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る船上で作られた。戦争がない世の中をつくり死者へ報いるという決意は、「朝はじまる海へ突込む鷗(かもめ)の死」「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」など初期の作品から、近年の「左義長や武器という武器焼いてしまえ」にまで一貫した。」
 
 中日春秋子は「 <水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る>。九十八歳で逝った金子兜太さんの戦後は、この一句とともに始まったという」と書いた。

 毎日新聞は「金子さんには大きな原点がある。戦時中、海軍主計中尉として日本銀行勤務を中断して派遣されたミクロネシア・トラック島での悲惨な体験から拭いがたい影響を受けた。終戦後、餓死者が相次ぐ捕虜生活の心のよりどころとして軍人・軍属を集めた句会を催し、生き残った者で力尽きた仲間の死を弔う質素な墓碑を用意した。

 水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

 1946年の引き揚げに際し、遠ざかる島を艦上から見つめて詠んだ。「亡くなった仲間のためにも、戦争のない世の中をつくろう」という決意は終生変わることがなかった。」

 NHKは「近代俳句の世界では、自然のありようをそのままに詠む「花鳥諷詠」の考え方が理想とされていましたが、金子さんはこうした伝統に異を唱え、人間や社会の姿を詠む自由な表現で戦後の俳句界に一石を投じました。
 そうした金子さんが生涯を通じて表現し続けたのが、平和と反戦への思いでした。原点となったのは20代のときの戦争体験です。
 海軍中尉として赴任したミクロネシアのトラック島では、米軍の爆撃や食糧不足による餓死で多くの戦友が非業の死を遂げ、戦争の残酷さとむなしさを目の当たりにしました。
 敗戦後、1年3か月の捕虜生活を終えた金子さんは、日本への引き揚げ船の甲板の上で遠ざかる島に眠る死者たちに思いをはせながら、「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」という句を詠んでいます。」
 
 日経新聞は「――終戦の直後にいくつかの代表的な句を詠んでいます。

 「あの日のことははっきりと覚えていますね。全将校が集められて、無電で受けた詔勅を聞かされました。それから自分の宿舎へ帰って、日記類を燃やした」

 「『椰子の丘朝焼けしるき日日なりき』の句が浮かんだのはこのとき。その後に詠んだのは『海に青雲生き死に言わず生きんとのみ』という句です。とにかく生きて、ばかげた戦争のない国にしていこうという気持ちでした」

 ――捕虜生活の後、日本に帰還しました。

 「餓死者を出した、これは主計科の士官として仕事を全うできなかったということです。若くて元気のいいアメリカの海兵隊を見て餓死した人のことを思い出しました。筋骨隆々としていた人がだんだんやせ細って最後は仏様のような顔になって死んでいった」

 「『水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る』は餓死した人を思いながら、船尾から遠ざかる島を見ていたときに作った句です」」