死んでゆくものうらやまし冬ごもり 久保田万太郎2017年01月15日

 読売新聞朝刊の安心の設計「生と死を問う」で五木寛之さんの談話を読んでいたらふと浮かんだのが掲句である。

 団塊の世代の大量死が10年後、20年後にやってくる。これを「多死社会」というそうだ。その前段階として大量の要介護老人があふれるとする。今でさえ、政府を悩ませる課題であるが、その時はいやおうなく迫ってくる。対策はないという。
 個人的には役人らの数字を操作したデータからの妄想におんぶした発想から逃れていないように感じる。多くの人が案外、健康で、活躍しつつ人生を全うすると楽観している。五木氏といえども先を見通すことなどできないだろう。人生は真坂の連続というがそれは歴史も同じことである。
 そんなことよりもこれに乗じて、
1 外国人労働者を大量に移民させること
2 外国人の一時的な在留中に日本の福祉が利用されていること
の方が心配だ。

 五木氏は2008年の新潮新書『人間の覚悟』という本を出した。あれからもう9年経過した。五木氏の類書の中ではよく読まれたらしくカスタマーレビューは『大河の一滴』の60件に続く42件もある。覚悟が随所に語られている。

 文中に紹介された近刊『玄冬の門』はアマゾンの目次をコピペすると
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
人生後半の生き方が問われる時代
なぜ家庭用金庫が売れるのか
高齢者と若者の間の「階級闘争」
望んで「下流老人」になった人はいない
現代の「楢山送り」
犀の角のごとく独り歩め
玄冬期に入る前の心構え

第2章 「孤独死」のすすめ
子孫のために美田を残さず
「家庭内自立」のすすめ
自分の面倒は自分でみる
「再学問のすすめ」
妄想に遊ぶ楽しさ
孤独の幸せ感
隠遁は憧れの的だった
「孤独死」のすすめ
孤独の楽しみのためのレッスン
あらゆる絆を断ち切ろう

第3章 趣味としての養生
健康法が多すぎる
趣味としての養生
自分の体と対話する
癌は善意の細胞
病院に頼るのは間違いだ

第4章 私の生命観
いまは後生のことを考える人はいない
宗教なき世界にどう生きるか
不自由でもできるだけ介護されずに生きていく
「遊行期」――子供の心に還るなつかしい季節
死に方の作法
私の生命観――大河の一滴として
輪廻転生の恐ろしさ
語られた言葉が歴史に残った

第5章 玄冬の門をくぐれば
遊行期とお金の問題
過去の良い思い出を回想する
古人を友とする
高齢者こそが活躍できる分野
老後の楽しみとしての宗教
信心の楽しみ
年寄りは身綺麗に、機嫌よく
「置かれた場所で散りなさい」

 読売新聞のインタビューアーは多分この本を読んだんでしょうね。大筋で同じことを言っている。過去の類書の集大成のような内容です。
 第二章の孤独死の勧めにあるように記事の最後も単独死、孤独死が悲惨だとは思わないという。家族に看取られながら息をひきとることはもうない、と。宗教も進めている。
 面白いのは最終見出しの「置かれた場所で散りなさい」のフレーズは本日の同紙の広告に幻冬舎の渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』は散ると咲くの違いはあるが同じこと。この著者も宗教関係者である。

 多死社会への心の対応策として宗教の時代が来るのかな!そりゃもう急速にあの人もこの人も逝った、のかとがっくりする時代ですから心は塞ぐだろう。

 私ども団塊の世代は、青年期は経済界からがんばれ、がんばれと尻を叩かれた。中年期は忍耐、高齢期は諦観を諭されているように思う。

さて、万太郎と言えば、

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  万太郎

も有名な句である。苦労させた愛妻への追悼とか。

http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2012/07/18/6515534

山で行方不明になれば野垂れ死にも覚悟の上だ。

野ざらしを心に風の入む身かな  芭蕉

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