梅雨明け2009年07月21日

  草刈やササユリだけは刈り残す

  梅雨明けて突き抜けるごと青い空

  雲海やことに目を引く剣岳

  白山に雪渓の筋あまた見ぬ

  遠目にもニッコウキスゲ色したり

加藤歩簫の文字書岩を訪ねて2009年07月21日

 加藤歩簫の文字書岩は高原川左岸の西茂住にある。東茂住側を走るR41から橋を渡ると神岡鉄道の茂住駅であるが2006年に廃線となった。今は廃駅である。赤錆の鉄路が引退を拒否するかのように頑張っている。
 句碑へは駅から左折して細い道を走る。道と線路の間に山家が建っている。道路は山家を離れて一旦高まり、また下って登り返すと新猪谷ダムの堰堤で終点になっている。その先は歩道である。右山、左ダム湖で急斜面に作られた北陸電力の鉄塔巡視路として整備されている。
 新猪谷ダム堰堤の北電巡視路入口から徒歩約10分強のところにあった。途中、岩崩れの大規模な箇所2箇所と小規模な4箇所が難儀といえるが登山経験者なら大した危険を感じることはない。むしろダム湖への転落の危険の方が大きいだろう。
 待望の文字書岩の岩陰には神岡町の立てた案内板が置いてあった。以前は立っていただろうが雪で倒れて岩陰に入れたのだろう。そこにはこう書いてある。
「 県 指 定
  史   跡   加藤歩簫文字書岩
              (凡兆岩)
        
              昭和三十五年三月三十日指定

     芭蕉十哲の一人、凡兆(加賀の生れ)が元禄のはじめ

    越中から飛騨に入ろうとして道を中街道にとった

    この街道は昔から難所として知られており、ようやく

    この地まで来たが先に進むことができず、そのとき

    夕暮れ迫る渓谷の絶景に感動して

       「わしの巣の樟のかれ枝に日は入ぬ」  

    の句を残して引き返したと伝えられる。

     一八一六年(文化十三年)飛騨高山の国学者で俳人

    でもあった加藤歩簫が船津の俳人北沢桃逕を

    伴ってこの地を探り、山肌に露出した自然の

    大岩石に大書し彫刻させたものである。

       平成四年十一月

                  神岡町教育委員会        」

小島烏水と凡兆岩2009年07月21日

 小島烏水『アルピニストの手記』(平凡社ライブラリー951)の目次には「飛騨山中にある凡兆の句碑」とある。
 P178に「だが、飛騨山中における凡兆の「鷲の巣」ぐらい、四囲の自然と情景が融合しているとおもわれるものは、おそらくないであろう。」と述べている。すると本人が見に来たかのような書き方であるが「しかるに、さも見てきたように、岩の所在地や、四囲の状況を、ここにしるすことを得たのは、一に小峰大羽氏の示教による」と書いている。
 いかにも小島らしい文献の用い方である。明治三十三年以来乗鞍岳に登山するために初めて越中から飛騨入りしていらい、数回に及んだという。「私は山に夢中になって「鷲の巣」の詞書にある籠の渡しの旧跡を、通行しながらほど遠からぬところに「文字書き岩」のあることを知りもせず素通りしてしまった。中略。本文は自然その懺悔のために書かれる。とまあ、大上段に構えたものです。
 県指定とはなったがかつて地誌『飛騨山川』(明治44年発刊)に「西漆山のところに、俳人凡兆が俳句を刻せる字書き岩というものあれど、今は訪う人もまれなり」とあるそうだ。当時でも人気はなかったから今はもうすっかり忘れられた句碑になった。
 登山家の烏水がなぜこんな句碑に興味を抱いたのか。高山市図書館のサイトからコピーさせてもらうと
「医師にして郷土史研究家の岡村利平が明治44年に住伊書店から出した『飛騨山川』は、飛騨の気候風土、名所旧跡、物産などを紹介したもので、小島烏水や垣内松三が序を寄せるなど、発行以来、地誌として評価の高かったものである。この中で利平は、それぞれの地にゆかりのある史書や文人達の詩歌、地理に関する所見などを取り上げており、文学的、博物学的にも大変興趣のある内容となっています。」
とあるので登山家というよりは旅行家の一面があり、それなら見逃すことは悔しかったとは思う。