パソコン奮戦記 私の知的生産の技術遍歴2006年12月21日

 28歳から勤務先でオフコンでデータ処理を担当しキーボードに触ってきたからキーボードアレルギーはない。いやもっと古くからそう22歳くらいでタイプライターを初めて買った。カナと英字であった。これはすぐに挫折した。
 先行して20歳くらいで謄写版を買った。これもサークルで文書を発行するためであった。比較的長続きした。断続的に利用した。コンビニで10円コピーが手軽に利用できるまで続いた。28歳で山岳会に入って会報を毎月発行していたから再度眠っていた謄写版を活用したのである。
 10円コピーは長く続いたが会員が急に増え始めたのを機会にワープロ専用機の購入を検討した。毎年年末になると年賀状書きのためにワープロが売り出された。年賀のためにだけでは20万円も出すのはもったいない、と考えて結局買わなかった。文書は専ら手書きであった。
 パソコンが安くなり始めたのはいつからだろう。マッキントッシュのPCが欲しかった。セットで100万円はした。手が出なかった。50万円でも出なかった。1998年だったかな。ソーテックからついに10万円を切るPCが出た。  山岳会で山岳図書の編纂の話が持ち上がり決定された。その編集長の座が回ってきた。よしこの機会だ、と99年暮に購入した。55人の執筆者を管理するには手書きでは限界があった。
 WIN98とプリンター、しばらくしてスキャナーも購入した。〆て16万はかかった。住所録、原稿、インターネットによる資料収集、メールと利用は広がった。FAXはすぐに止めた。やってられないのである。PCの威力は絶大であった。
 ソフトはロータスの123を別途購入した。1万円くらいであった。MSに比較すると4分の1であった。特にワープロは便利なものであった。追加、訂正、削除が実に簡単にできた。表計算も便利なものであったが使い方が分らなかった。直感的な使い方しかできなかった。ソフトの解説書は当時すでにMS全盛でロータス向けは1冊しかなかった。老舗は完全にMSに制覇されて現在はIBMの傘下になった。
 反面トラブルには泣かされた。画面がよくフリーズした。電源が落ちないこともあった。ウイルスソフトのおまけがついていたが更新をしないまま放置していたらウイルスにやられた。本体が故障して2ヶ月ソーテックに預けて修理した。まだまだ未成熟なままであったと思う。ハードもOSもね。そして自分も。
 WIN98を修理に預けている間も休んでは居れないので新規に日本製のノートPCを01年に購入した。これはWINMEというOSであった。ソーテックはハードは台湾製の安物部品で組み立てられていたようだった。ファンがうるさくてクレームを出して部品を送ってもらい自分で交換した。手間がかかるのはストレスも多かった。日本製は高いけれども、と期待した。
 当時世界一という東芝製を購入した。22万円かかった。これにはMSのワード、エクセルも付属していた。ソーテックにはちゃちな初心者向きのソフトしかない。一太郎のワープロくらいしか使えない代物で表計算ソフトもなかった。ロータスを別途買わざるを得なかった。MSのエクセルを使い始めるとロータスよりシンプルで使いやすかった。次第にエクセルばかりになった。ロータスで作成したファイルはエクセル97に殆ど完全に変換できたのでデータを移していった。
 さすがに高性能でフリーズは少なくなった。様々にグレードアップして満足させてくれた。しかし所詮ノートは使い勝手が悪かった。キーボードが狭いのが難点であったからまたデスクトップを03年に購入した。これは13万円ですんだ。(だが液晶ディスプレーが5万円と高かった。)
 このOSはWINXPであった。フリーズはまったくといっていいほどしなくなった。少なくてもOSは完成度の高いレベルまで向上したといえる。文書はほとんどワードばかりになった。WINMEでは変換できなかった漢字もXPでは変換できるようになった。別途超漢字というOSも購入してインストールしていたが必要を感じなくなった。
 インターネットはWIN98の頃はダイアルアップであった。月に15000円も請求されて驚いた覚えがある。MEになってからソフトバンクのADSLに乗り換えた。常時接続である。そして今年光ファイバーに乗り換えた。目まぐるしいほど変化したこの数年のPC奮戦記である。

中央アルプス・蕎麦粒岳敗退2006年12月24日

 長年の懸念であった蕎麦粒岳に3人で挑んだが時間切れで敗退となった。残念。
 この時期は日暮れが早くて長丁場の山行には不利であったが休みの関係でこの日に持ってこざるを得なかった。それに滑川の水量も激減するだろうと予測した。
 23日は山の中へ入れるだけ入るという選択肢もあったが結局は車の近くでテントを張っての宴会の楽しみを優先した。過去、風越山経由、一の沢経由で萩原沢岳には2度登山、二の沢は以上の登山で下山に利用したし、三の沢岳に登山した際も往復したことがあった。都合三回は経験があった。
 山中ビバークまでせずとも無事下山できる自信があって挑んだがあえなく敗退してしまった。様々な誤算があった。23日に偵察するとまず滑川の水量が冬というのに結構多かった。どこか弱点がないかと探したが最初の渡渉だけではない。したがって滑川の徒渉は断念した。
 以前2回ほど利用した二の沢付近に出る横断道を入口から半分ほど偵察すると何とか行ける見通しがついた。所々矩面が壊れたりしていたが何とかなった。だが引き返した地点から先が笹の成長で踏み跡を覆いかぶさっていた。丁寧に漕いで行ったが見失うことがしばしば発生。RFにどんどん時間をとられた。それに滑川の取り付き点は滑川の土石流に抉られて消失し下るのは困難であった。止む無く別のルートを下った。しかもヤブであった。約40分と見込んだが1時間半もかかった。
 二の沢の入口でも徒渉は困難を極めた。川幅があり対岸に渡れなかった。しかし、丁度桧の倒木が横たわっていて腹這いで渡れた。二の沢に入ってからも以前よりは倒木が多くなっていたし、沢の中は雪に覆われた転石で滑りやすくプラブーツではバランスが悪い。1800m付近から尾根の樹林帯に上がった。雪の下は凍結して滑りやすいのでアイゼンを装着して登山を続けた。
 様々な困難を乗り越えて頑張ったが横断道や他での2時間近いロスが響いて二の沢のコル10時の予定だったが手前で12時になった。明るいコルは目前であったが引き返すことにした。
 下山も一目散とは行かず、そろそろ滑落を注意しつつ下った。ほぼ同じルートを辿って16時20分、砂防公園に着いた。
 帰路は登れなかった蕎麦粒岳を望む東野の一角に寄り道した。R19号の萩原沢の橋を渡って左折し、直進、橋のところで左折すると東野、直進すると萩原沢の対岸に出る。前景に邪魔されない山容がいやがうえにも登高欲をかきたててくれる。文字通り鋭い山頂は何処にも同じものは二つとない風貌であった。この風貌をみた他の同行者もまた来たいね、と再挑戦を誓った。

ローツェ南壁初登攀!但し山頂は踏めず!2006年12月28日

世界最大の3000mという南壁の冬期登攀を達成、頂上へは後41mまでせまりながら撤退でした。残念無念。無事の下山を祈念す。
以下はJACのメルマガです。
【日本山岳会新情報】
(アドレスをクリックすれば、詳しい情報がご覧いただけます)
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■ローツェ南壁登攀成功!
さきほど、東海支部に「冬期ローツェ南壁登山隊」から南壁を登り切っ
て稜線に出たという報告が入りました。
以下、その内容です。
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各位

取り急ぎご連絡致します。

12月27日、15時35分(NST) 第2次アタック隊(田辺、
山口、ペンバ・チョルテ)頂上稜線に到着。
時間的に頂上への登頂はあきらめましたが、雪煙なびくエベレストが目
の前に見えたそうです。
冬期ローツェ南壁の完登はされました。
16時17分、下山開始。現在、C3(8000m)に向けて、
移動中です。

皆様のご協力、ありがとうございました。
詳しくは後ほどお伝え致します。

(注)NST=ネパール時間、日本時間とは3時間

続いて中日新聞の記事を転載。

登頂は断念、南壁は克服 ローツェ挑戦の東海支部隊
 ヒマラヤにある世界第4位の高峰、ローツェ(8516m)に屈指の難ルートである南壁から挑んでいた日本山岳会東海支部隊は27日午後、頂上まであと41mを残し、時間切れなどのため登頂を断念した。同日夜、名古屋市内の同支部に連絡が入った。

 同隊は南壁からの冬季世界初登頂を期して2001、03年に次ぐ3度目の挑戦。この日、田辺治隊長(45)、山口貴弘隊員(33)とシェルパの最終アタック隊3人が南壁部分を完全に克服し、午後3時36分(現地時間)に頂上に続く稜線に出て8475m地点まで登った。だが、時間的に余裕がなくなり、体力的にも限界に達したため、頂上を目前に無念の撤退を余儀なくされた。(共同)

(2006年12月27日 21時57分)

短歌日常③2006年12月28日

       12/24 蕎麦粒岳敗退

 ヤブ漕ぎがあり滑川を徒渡り中央アルプスの雪の沢

           同行者の一言 
 「ローツェならこんなものじゃないよね」と
               言いつつ急な二の沢を行く

 二の沢のコル目前に撤退す十二月の深山の故

 帰るとき沢の中から遠くに見る雪の御岳乗鞍岳も

           同行者の一言
 「敗退もまた登山にはあり得るさ」命あっての登山だものね

  12/28 JAC東海支部ローツェ登山隊撤退の報道あり
 
 ネット見てまだかまだかと待ちわびた
                冬のローツェ南壁登攀 

 たまきはる命をかけて挑みたる冬のローツェの三千の壁

 非情なる冬のヒマラヤの風雪に
               押し返されるごと撤退したり

 初登攀ならずとも皆無事で帰れと
                祈りつつ読む今朝の新聞

土地鑑がある?2006年12月30日

 普通土地カンがあるという場合は新聞記事でこの犯人は土地勘があるという風に使ってきた。疑いもなくそう書いたものである。登山でも何回か登って大方は知っているが未知の部分も残っている、という場合、土地勘があるという理解であった。
 12/29の読売新聞のネット記事を読んでいたら新宿の事件に関して「土地鑑」が使われていた。おやっと思いメールで問い合わせたら

さて、「土地鑑(とちかん)」の件ですが、回答させていただきます。
土地カンのカンは、「勘」ではなく「鑑」が、本来の書き方です。「鑑」には、「鑑定」「鑑別」などと使われるように、「見分ける」「見極める」の意味があります。その土地を知っていて、地形や道路などを正しく見分けられるのが「土地鑑がある」ということです。漠然とした「勘」だけが頼りなのではありません。
もともとは警察用語で、犯罪関係の隠語や俗語を集めた辞書類にも、「土地鑑」の表記で載っています。前者も間違いというわけではありませんが、読売新聞としては、「土地鑑」で表記を統一しております。ご理解のほどお願いします。

以上の回答があって意外であった。あわてて広辞苑を引いたり、ネットで検索してみると意外や多くヒットしてきた。最初から検索すればよかったものを。それに過去にもそんな例はあって読者から読売にどっと問い合わせが押し寄せたらしい。その度に読売はこんな回答をしているのであろう。
 これは多分、新聞記事か雑誌、TVなどで自然と覚えて今まで何ら疑問を感じなかったからだ。しかし、土地鑑は同じ山の同じコースを繰り返し登らない限り生まれない。常には未知を求める登山者としては土地勘の方がより実感が伴うと思ったことである。
 土地鑑があれば道迷いもなかろう。山勘だけが頼りならあるいは道迷いがあるかも知れない。登山でも犯罪であっても(登山者や犯罪者にとって)リスクの多いことは土地鑑がしっかりしていることが望ましいのである。

大晦日詠み納め2006年12月31日

       12/31  

  今日だけはみな買い物や大晦日

   12/11昭和区塩付通りの老舗本店「蕎麦所やぶ」
  
  山を越す気で年越の蕎麦を食ふ
  
  猿投山よく見ゆるほど冬日和

  トラックに古紙満載や大晦日
    
     12/29

  名古屋にも初雪降れり年の暮

  遠山に視線投げかけ布団干す 

  年暮れて文庫本など読むばかり

  柊のにほひが花に誘ふなり

  蒼穹に捧げしごとき木守柿

  木守柿食べ尽くされて枯れ木あり

      12/23--12/24

  短日や下山を急げヤブの中

  冬山路無事を祈りし山ノ神
  
  コッヘルの寄せ鍋の具を食べ尽くす

  滑川は旗日といえど川普請

  天皇の誕生日にも川普請

  木曽駒に雪降る頃も川普請

  木曽富士の名のまま卒塔婆山眠る

  支点にはならぬと知れど氷柱持つ

  敬神の滝冬とても凍てず落つ

  木曽駒の雪の白さの神々し

  冬夕焼蕎麦粒岳を仰ぎ見し