「吉村芳弘「80歳の壁」を超える食事術」(幻冬舎)の話2024年01月16日

 著者の吉村 芳弘氏は 先日まで学んだ石原結実氏とは真逆の考え方の本です。食わないとサルコペニア、フレイルになるというのです。そして高齢者は太り気味が良いと言います。石原氏はそんなに食わなくても生きていけるという。どっちも真実なんでしょうが読者は迷います。

参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=_oqiF8YpOLk

 コメントから

・後期高齢者までに体幹と筋肉をしっかり付けておく事が大切だと思います、運動していれば食事も自然と進みます、私は75で1ヶ月入院し退院して翌日から日常生活が出来ました、体幹と筋肉を付けていたお陰だと思っています。

・st様 今日は👋😃 私の友達100才迄一人暮らしでした 一人で自然食品に電車に乗って買い物 勿論自炊生活 100才過ぎてから 近所に住む息子さんが心配して老人ホームに入りました 今100才半 97才の時に外出先で転び 3か月入院 リハビリして退院 背中 腰は全く曲がって居ません 杖を付いて普通に歩いて居ました ぽっちりゃでは有りません 主のお話しは当てはまら無いですね 但し友達は食べられる事には感謝して居ます 一番大事な事だと思いますよ 参考迄に

・『サルコペニア』や『フレイル』予防には【タンパク質】が良いとのこと、記憶にしっかり留めておきます。
タケミさん、良い本を紹介して頂き有難うございました。_o_

・とうとう80歳に来ましたね よく耳にしてきた二千万円より大切なお話しを有り難うございます母に長生きして欲しいです😊

・いつもありがとうございます❗今日の話はとても驚いた反面、すごく勉強になりました‼️肥満になりたくなく、1日1~2食にしてから、体調はよいですが、筋肉が落ちすぎてしまい、またささいな事でもイライラするようになり、やせるのも問題ですね。
65歳まではもう少し先ですが、気にしすぎずに楽しく食べます😃

・基礎代謝が減ると体温が下がりやすい。
それをカバーするのが脂肪w
体温が下がらないよう住環境を見直すのが長生きの秘訣。

・・・・ある高名な学者が医師の指導で断食、野菜ジュースなどで痩せる治療をしていたがまもなく死亡した。ある女優、女性美容トレーナーの某も痩せて死亡している。
 美空ひばりは「センナ」という漢方薬でダイエットして痩せて死亡したという。痩せることとの因果関係は医学的には難しい。しかし、痩せることで体温が下がり、抵抗力、免疫力が落ちたというなら理解できる。癌患者の体温はすべて低体温だという。

 高齢になってから体を絞ると寿命を縮めることは確かに思う。一方で小太りを推奨する案は結構支持を得てきた。体内に蓄積された脂肪は手術後の余裕だろう。
 高所医学の原理を利用してある美容外科医が標高6000m級の高所に連れて行ってダイエットをさせたが死亡した。空気の薄いところでは心肺機能がフルに働く。いつも走っている状態と同じで居るだけで負荷をかけている。体内脂肪迄使い切ってついに死んだのだろう。つまり理論倒れである。

司馬遼太郎『街道をゆく 愛欄土紀行』30と31受領2023年12月11日

 俳句の鑑賞文や先住民族の参考書として購入した。キリスト教徒に追われたというが、キリストはそんな指示まではしていないはずである。何がケルト民族をイギリス諸島へと追いやったのかへの疑問があった。

瀬川拓郎『アイヌと縄文』を買う2023年12月10日

 副題は「もうひとつの日本の歴史」とある。アイヌが日本の先民族説があったが今は払拭された。アイヌは細部にわたって分析されて統一された人種ではないことも分かってきた。
 アイヌは日本人に土地を奪われたという。言葉を奪われたという。これは朝鮮併合で日本になった朝鮮人と同じ語り口である。それはそのはずで首謀者は北朝鮮系の人らしい。あの手口で日本から公金を奪おうということである。しかも菅元総理らは法律を成立させてしまった。今は一部の市民が反対運動をしている。この努力が報われるのは何時だろう。

四国や諭鶴羽山の投稿を掲載した「聳嶺」届く2023年12月04日

 12月3日山から帰宅したらポストに届いていた。『聳嶺』はしょうれいと読む。投稿は25本以上、121ページとけっこうな文量がある。会員数は約200名といつの間にか増えた。コロナ明けで全国へ活動を活発化したことがうかがえる。
 私も昨年11月19日から11月22日の四国と淡路島の一等三角点の山旅の報告を投稿させてもらった。四国では小島烏水祭に参加して交流した。淡路島では最高峰の諭鶴羽山ハイキングと淡路島出身の軍人・樋口季一郎の銅像を拝見するために時間をつくった。終戦後でもソ連は日ソ中立条約を破棄して北海道をとりに攻めてきた。そこを守った軍人であり、ユダヤ人の難民を救済した人道の偉人でもあった。こんな日本人が居たのか、との思いを満たした。
 ”たまきはるユダヤの命救いたる樋口李一郎像建つ見ゆ”

稲田秀樹『認知症の人の”困りごと”解決ブック』本人・家族・支援者の気持ちがラクになる90nヒント2023年11月11日

アマゾンから 

 認知症の人は、生活していくなかでさまざまな困りごとや生きづらさを抱えています。その切実な思いは、言葉や行動となって表現されることがあります。
 本書では、言葉や行動の背景を探ることから、困りごとを解決するヒントを示しました。
 読むことによって、認知症の本人、家族、支援者の気持ちがラクになること間違いなし。
認知症ケアにかかわる全ての人必携!


◆丹野智文さん推薦(39歳で認知症と診断されて10年たっても元気に暮らす当事者)
「この本には本人が元気になる秘訣が詰まっています!」
◆繁田雅弘医師推薦(東京慈恵会医科大学精神医学講座教授で日本認知症ケア学会理事長)
「本書は、認知症ケアにかかわる多くの人にケアの手がかりを与えるものと思います。」


【90の困りごとより一部抜粋】
■ごく軽度の認知症の人の困りごと
思い出せない/大事なものが見つからない/外出先で帰り方がわからなくなった/目の前の人の名前が思い出せない/最近、料理がうまくできない
■軽度の認知症の人の困りごと
できないことが増えてきた/季節に合う服を選べない/時計の針の読み方に自信がもてない/ 冷蔵庫に傷んだ食材があふれていて言葉も出ない
■軽度から中度の認知症の人の困りごと
親切そうに見えるあの人が財布を盗ったかもしれない/デイサービスなどには何が何でも行かない/亡くなった母に手紙を書こうと思っている
■中度から重度の認知症の人の困りごと
物事の意味がわからなくなる/何もする気が起きず食欲もない/トイレに行きたいけれど、どこにあるの?
■重度の認知症の人の困りごと…歩き疲れて建物の目立たないところに身体を潜めている/自分は捨てられたのかと思うと涙があふれてくる/何も考えられない、どうしてよいかわからない


【著者プロフィール】
稲田秀樹(いなだひでき)
株式会社さくらコミュニティーケアサービス代表取締役
 1961年東京生まれ。認知症デイサービスの介護職員、生活相談員、管理者を経て、2011年に鎌倉市今泉台に認知症対応型デイサービス「ケアサロンさくら」を立ち上げ、2016年、認知症の人が地域貢献を行うデイサービス「ワーキングデイわかば」を立ち上げる。2011年「一般社団法人かまくら認知症ネットワーク」を設立し、代表理事を務める。2023年神奈川県内で認知症の啓発を展開する団体「神奈川オレンジネットワーク」を設立し、代表理事を務める。
 デイサービスでの業務のかたわら、2005年頃より神奈川県内の家族会に継続して出席し、認知症の方の家族の困りごとに耳を傾ける。また、デイサービスに通所する認知症当事者と共に啓発活動を展開するなど、当事者のわかる力、できる力に着目した支援を実践している。2023年度日本認知症ケア学会石﨑賞受賞。
・・・・来年はいよいよ75歳になるから認知症の罹病に近づくことになる。自覚的にはまだまだと思っているが他人から見てどうか、である。私が61歳になって世話をした女性は当時は74歳だったから同じ年齢になったわけだ。そして彼女たちはあれから13年の歳月を経たから87歳になる。
 先だってもコロナで俳句会を中断していたが再開を望む電話があった。他の1名はどうやら認知症の人もいるそうだ。どうやれば再開できるのか。文芸は前頭葉を刺激するがその力は回復するのだろうか。そういう観点で購入してみた。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

丸の内事務所へ2023年10月24日

 銀行の通帳記入、様々な支払を3件済ます。久々に本を買う。『月刊日本』11月号、泉房穂『日本が滅びる前に』、馬渕睦夫『ウクライナ戦争の欺瞞 戦後民主主義の正体』など。

永田方正著『北海道 蝦夷語地名解 附・アイヌ語地名考』入手2023年10月14日

 アマゾンで注文してあった表題の本が届いた。北海道の地誌である。フェイスブックでやり取りする中で出てきた書名ですが著者を調べると興味があったので購入して見た。ずしりと重い造本である。

著者の永田方正はコトバンクによれば

「明治期のアイヌ研究者,教育者
生年天保15年3月1日(1844年)
没年明治44(1911)年8月22日
出生地武蔵国南豊島郡青山百人町(東京都新宿区)
出身地愛媛県
旧姓(旧名)宇高 辰次郎
経歴昌平黌に学び、文久元年伊予西条藩主の侍講となる。維新後、明治14年北海道開拓使に入るが、翌年開拓使が廃止され、函館県御用掛となりアイヌ人教育の調査を行う。これを機にアイヌ語の研究に関わる。函館商船学校、函館師範の教師を経て、19年北海道庁に入り、「北海道蝦夷語地名解」(24年刊)の編纂に従事。その後、札幌農学校教師。42年上京し、坪井正五郎の紹介で東京高女で国文、和歌などを教えた。著書に「北海小文典」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について」

https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2021/03/pon_kanpisosi9-1.pdf

https://otaru.jpn.org/chimeikai_age/

https://www.e-rumoi.jp/content/000005768.pdf

http://www.sofukan.co.jp/books/114.html


 
ソース:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784883230372

出版社内容情報
 "北海道(アイヌモシリ)の山河の匂いが立ちのぼる!
 本書は、アイヌ語が生活に生きていた明治初期の北海道をくまなく巡向調査し、アイヌの古老に聞き、8年の歳月をかけて完成した北海道地名集成の最高の書である。
 永田方正は本書を字引体で作ろうとして果さなかったが、今回詳細な索引を付して使い易くしたことで彼の初志は果された。収めるところの地名約6,000、そのなかからアイヌモシリ・北海道の山河の匂いが立ちのぼる。北海道の地名およびアイヌ語を研究する者で、本書の恩恵を蒙らない者だれ一人もない、アイヌ地名の宝庫である。"

国郡
石狩国
後志国
渡島国
胆振国
日高国
十勝国
釧路国
根室国
天塩国
北見国

 無責任でいいかげんな本が量産される一方で、出版の不振や「本が読まれなくなった」傾向がよく指摘されるが、反対に「よくぞこんな労作を」と感嘆させられる良心的刊行も決して少なくない。
 一般書の書評としてとりあげられることも少ないであろう最近のそんな例を紹介したい。
 永田方正著『北海道蝦夷語地名解』。明治24年に出た名著の初版本を完全復刻した上、総索引を付したアイヌ地名6000語の研究・記録である。アイヌ語空間が生きていた初期の北海道を、たとえば知床半島や積丹半島にいたるまで訪ね歩き、可能な限りアイヌ古老に原意を確認してゆく作業は8年間に及んだ。菊判616ページというこの大著に、採算割れの冒険を冒して出したのが、全社員わずか2人の零細出版社であるのも象徴的だ。        (1984.10.1 朝日新聞)

五万図「根羽」の地形図2023年08月21日

 国地院に問い合わせていた大正時代の五万図「根羽」を閲覧できないかの回答があった。国地院のしかる窓口に申請すれば入手できると分かった。但し1枚2200円と結構する。どこかの図書館にないか、調べてなければ購入してみたい。

『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。