読売新聞「HAIKUの世界」を読んで2017年04月13日

 読売新聞朝刊が4/11から4/13まで「HAIKUの世界」を3回にわたって連載し、本日完結した。記者は文化部の佐々木亜子氏。
4/11 上 英語が導き出す自由
4/12 中 「偶数行の鉄則」に挑戦
4/13 下 文化遺産登録を視野に
 何回も読み返したが違和感がぬぐえない。

 米国の元外交官というアビゲール・フリードマン氏のコメント:「俳句は日本人には伝統的な芸術だが、私達は伝統に縛られずに自由に作ることができる。」という。日本人が異文化に根ざす海外の俳句を勉強したら、「もっと面白い俳句を作れる可能性があるのでは。」
 佐々木亜子記者のバイアスも多少混じっているが、こんな考え方がそもそも俳句にはなじまない。HAIKUならいいと思う。今の日本の俳句は面白くないと嫌味を言われているようにとれるではないか。海外の俳句よりも、たとえばウクライナの小学校では日本人も知らない芭蕉の俳句が学ばれているそうだ。つまり、われわれ日本人こそもっと「猿蓑」などを読むべきなのである。
 俳句は縛られること、ルールを厳守するから面白いのに、自由を謳うようでは俳句の真髄は一生分からないだろう。日本の俳人はだれも窮屈だから自由がほしいとは思っていない。日本人の自由律の俳句もついに定着しなかった。
 特にキリスト教圏の白人の啓蒙主義、優位性が押し出されていやらしいと思う。自らは平気で国際法を破り、不都合になると次々変える国の人らしい考えだ。表意文字の俳句は表音文字のHAIKUから学ぶことはない。俳句の文化遺産登録には反対も賛成もない。意味があるのかどうか。
 柔道が国際化されてスポーツになり、ジュードーになった。以来、見た目にはレスリングになった。柔よく剛を制すという講道館柔道はどこへ行ったのかと思う。柔の道の道に意義があった。俳句も言葉の断片ではなく、人生の一こまを謳う。あるいは詠む人の人生を思わしめる。国際化の意義はほとんど考えにくい。ただし、外国人との友好的な交流の道具にはなりうる。
 この記事を読んだ後、口直しに長谷川三千子『からごころ 日本精神の逆説』(中公文庫)を読んだ。「国際社会」の国際化のためにという論考である。結論めいた言葉だけを引用すると「近代ヨーロッパ人は「他人に学ぶ」ことができない人達ではない。自分たちよりも力の弱い者達からも学ぶ」ことができれば欧米人達もコクサイカが可能。「この世界には無限の「ものの見方」の可能性があるのだという事実を謙虚に受け止めるところから出発する。
 要するに欧米人は力でねじ伏せてinternationalizeしてきた。欧米人が俳句に学んで欲しいのはその心です。国、領土等を二カ国以上の共同統治、保護の元に置くことがinternationalizeの定義。日本人の国際化は基準を外においてそれに順化することと考えている。このずれがあるかぎりは俳句とは似ても似つかないHAIKUのままにとどまるだろう。
 佐々木亜子記者も自分が日本人でありながら国際化(欧米化)された考えに染まっている(からごころ)ことに気がつかない。欧米に基準をおいて日本をそれに合わせようとするずれに気付いて欲しいものだ。
追記
 日本の新聞記者や外交官、国際企業のビジネスマンはダブルスタンダードで生きている。あちらはあちらの流儀、日本は日本の流儀ということで、これがあいまいな日本の原点だろう。真の国際化にはほど遠いと思う。
小屋番の山日記から 芭蕉を学ぶ国の危機
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/03/19/8411013

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