「辛夷」1000号記念大会2010年04月18日

 俳句結社「辛夷」の発行する俳句雑誌が2010年2月号で1000号を迎えた。大正13年1月創刊という老舗である。戦時中の紙不足の統制で休刊した以外は毎月号を重ねてきた。今まで86年の歳月が経過した。主宰は前田普羅、中島杏子、福永鳴風、中坪達哉で4代目となる。
 実行委員会は山元重男が中心になり、これまでの記念行事は1000号記念俳句、論文の募集、合同句集発刊、中坪主宰の文学論集『前田普羅ーその求道の詩魂』(桂書房)の発刊、歴代主宰の俳句展、そして今回の記念大会となった。
 4/17は午前7時10分発の富山行き高速バスで富山入り。立山山麓の立山国際ホテルで記念大会となった。発刊した刊行物の配布、記念俳句、記念評論などの賞の授与が行われた。来賓を多数招いてお祭り的になるのではなく、同人、誌友のみであとは後援の北日本新聞社のみ来賓に招いた。そのために非常にすっきりした記念大会になった。
 4/18は近くの吟行と俳句大会を催し、午後13時締めくくった。16時40分のバスで帰名した。18日は富山平野も晴れ間を得ていいお日和になった。帰りのバスからは残雪の立山連峰が素晴らしかった。

    立山の銀屏風めく春雪嶺

    立山の風に吹かるる花辛夷

中坪達哉著『前田普羅』その求道の詩魂 管見2010年04月22日

 4/17(土)に行われた俳句雑誌「辛夷」の創刊1000号を記念して主宰の中坪達哉が刊行。富山市の桂書房。2100円。書店で買える。
 求道とは真理や宗教的な悟りを求めて修行すること。詩魂とは詩を作る心。詩に対する情感。と説明される。やや硬い題名であるが本書の中核をなす普羅の俳句文学論のエッセンスでもある。本書は

第一章普羅の『辛夷』を継いで
辛夷との出会い、普羅との出会いが自然の成り行き。普羅に学ぶこととして1地貌論に基づいた作句の徹底2丈高い立句を目指す3高邁な作句精神に学ぶ。主宰としての信条の公開である。

第二章普羅の求道の詩魂
普羅は山岳俳人ではない、と否定的な論を展開し世評高い山岳俳人のレッテルに疑問を呈す。山岳という狭い範囲の中だけで活躍したのではない、というのだ。その通りである。
 続いて普羅と富山、普羅の地貌論、雪の俳句、老いと漂白、普羅の言葉、俳句は求道のあふれたもの、宗教的なまでの省略などで弟子たちによって神格化されつつある普羅の詩魂を解き放そうという試みである。弟子たちが匙を投げた部分に切り込んだわけであるがなお理解しがたい。

 大正昭和によく読まれた本に阿部次郎の『三太郎の日記』がある。内容的には
「永遠の青春の書として大正・昭和期の学生の必読の書であった。「三太郎」に仮託して綴られる、著者の苦悩と内省、自己を確立していく豊かな感受性と真摯で強靱な思索のあとは、多くの学生に圧倒的な共感をもって支持され、愛読されてきた。人間存在の統一原理を、真善美の追究による自己の尊厳という「人格」におく、著者の「人格主義」につながる思想が横溢。 」
 他に日本最初の哲学書である西田幾多郎『善の研究』は明治44年の刊行なので普羅26歳のころ。大正13年の関東大震災の朝も出かけるときに手に持って出た本であった。本書を手にして自己とは何か、と考えたであろう。研究家の中西舗土もそこまでは追求しなかった。彼が人生の悩みというのは多分に青年期にありがちな哲学的な思索であったと思う。
 普羅の精神を探るには最低でも以上の二冊を読んで自分が理解しないと迷路に入るし匙を投げることになる。当時の風潮としてみんなが読んで分かったふりをしていたきらいがある。そうしないと馬鹿にされたのである。
 普羅の弟子たちが理解できなかったのはこうした哲学書の読書と思索の差が余りに大きかった。一般市井人はまず手にする本ではないと思える。
 普羅の哲学的な態度は生涯変わらなかったと思う。山本健吉も加藤楸邨もそこをはやとちりして普羅をして「狷介固陋」という不名誉なレッテルを貼った。お二人は古典文学の教養こそあっただろうが哲学的なことには疎かったと思われる。専門馬鹿ということか。普羅こそ人間探求派だったのではないか。当時二十歳代後半のお二人には若気の至りであった。

第三章普羅と語る
46句をとりあげて鑑賞文をしたためた。本書のための書き下ろした部分である。全部で240ページ中50ページが割かれた。第五章と合わせて本書の半分近くを占める重要な章。普羅を理解するには結局作品の正しい鑑賞に尽きる。

第四章普羅の地貌諷詠
すでに俳句雑誌に投稿した論考がまとめられている。あちこちで詠んだ俳句を無造作に一まとめにはしたくないのである。ある地域でこそこの句が生まれたのだから地貌という言葉を持ち出して地域別にまとめる。


第五章普羅と辛夷俳句
67ページもあり最多のページ数である。文章家でもある中坪主宰の投稿文のまとめである。版画家棟方志功との関係などをしることができる。
付録(前田普羅作品集/普羅の言葉)からなる。

 以上は『辛夷』人の手になる初めての普羅論ではないか。直系の結社に今までこれだけまとまった普羅論はなかった。外部の岡田日朗、弟子だったが『辛夷』の外の人であった中西舗土らがまとめてきた。その意味でも意義深い出版であった。ようやく普羅を客観的に研究できる土台ができた。

ハナミズキ咲く2010年04月24日

 三河の山から帰ったら天白小学校の前の道路沿いのハナミズキの花が一斉に咲いたかのように見えた。前から咲いていたのだろうか。そして桜の木を見るともう一輪の花も残らず散って緑濃くなっていた。季節は移り変わり、一気に初夏が来たようである。マンションの敷地内の銀杏の木は若葉に萌える。近くの家にはもう鯉のぼりがさわやかな風に泳いでいた。天白区が1年で一番美しい時期が来たと思う。
 久々に晴れ間を得た今日は京都から6人のお客さんを三河の山に案内した。といってもれっきとした山ではない。棚山と宇連山を結ぶ稜線にある御料局三角点の見学であった。それ自体珍しいものであるが5mはある大きな自然の岩の頂上に「御料局三角点」「補点」「X」が彫られている。
 4年くらい前に山の本の取材中に発見(?)した。この事実をあるサイトの掲示板に投稿した。それを見た人がまた別のサイトへと静かに波紋のごとく広がった。ついに京都の好事家の耳に入るところとなり、サイト運営者と京都の好事家氏らが見学ツアーを組むこととなった。好事家氏は巻尺まで持参して計測し、珍品を堪能されたようだ。
 今日の客人は好事家の友人たちである。知己の間柄でもあり、見学ツアーの案内係を仕った。無事に堪能していただいた。その後は棚山を散策して玖老勢村三角点の探索を楽しんだ。瀬戸岩にも立ち寄って下山した。瀬戸岩には豊川市から来たという美少女の2人とまた会った。先ほど分岐点で棚山へ行くというので別れたばかりであったがもう往復したのだ。山では滅多に若い人を見ないし、女性でしかも美少女ときたら目が覚めるようだ。時代が変わってゆくのであろうか。

春の富士登山2010年04月27日

メキシコからの富士登山の人たちと旧登山道にて
4/23(土)夜、山の支度中にS君から用事が早くすんだから10時出発を早めようと電話がある。8時出発とした。西友で食料を買い込む。高速に入る。深夜になり、中央道の二葉SAで仮眠。
4/24(日)早朝出発、河口湖へ向かう。白い富士が車窓から見える。国道に出てなか卯で朝食。馬返し登山口に向かう。すでに数台が止まる。7時半、今は歴史の道となった富士吉田登山道を登る。荒廃した神社、荒廃した宿泊所などを通過して林道に出る。再び山道に入り、スバルラインを横切る。すぐに5合目の佐藤小屋だった。2240mあるから恵那山とほぼ同じ高さに着く。
 12時までにはまだ余裕がある。小屋でコーヒーを飲んだり、缶ビールも飲む。登山者風情の熟年が二人缶ビールを空けて気焔をあげる。
 今から約32年前の11月末の連休に愛知岳連でバス、トラックを連ねて氷雪技術訓練に来たことがあった。スバルラインの終点から佐藤小屋までの道路沿いにテントを張って吉田大沢で訓練したものである。北海道でもまだ雪が少なく全国から約2000名が入山した。他の会で遭難事故が発生し、二日目の夜は救急車、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り、佐藤小屋が連絡の拠点となった。この年は4名が亡くなった。死体をツエルトにくるめて吉田大沢を滑らせて下ってきた。まるでゴミ扱いだが仕方ない。
 死亡者が出て訓練の責任者で会長のKさん(故人)はテントをひとつづつ廻り、気合を入れた。こんな時に酒なんか飲んでる場合かと怒鳴られた。明日はわが関係者に及ぶことを恐れた。当然のことである。
(連休明けに出社すると社長が開口一番に「おお無事に帰ってきたのか」と心配されていたことを知った。新聞では派手に報道されていたからだ。その後管轄の山梨県警はこの地域の訓練の中止を勧告してきた。高山市の登山家が12歳の娘を富士山頂上から滑降させると聞いた山梨県警はこれも中止にさせた。)
 訓練は負傷だけで済んだ。以来来たことはない佐藤小屋であるが今でも観光者向きにはせず、純然たる登山者のための小屋を保つ。上の小屋は?億円の売上があり高級車を乗り回すが自分は赤字で軽自動車しかのれないとか、そんなことを話して笑わせてくれた。
 泊まりたい気もしたが小屋は4時で仕舞うとか。休みを切り上げて行けるところまで行こうと再び登った。六角堂に一張りあった。さらに登って6合目の安全指導センターの建物の敷地に設営した。
4/26(月)6時10分テントを出発。最初は火山岩の道を登る。花小屋でアイゼンを着装。昨日の外国人パーティはここでテントを張っていた。食事に誘われた。ずいぶんのんびりしている。食事は済んでいるから丁重に断るがS君がないと知りながらも禁断症状のためかタバコを所望した。タバコでは通じず、シガーシガーというと分かってもらえた。もちろんあるわけがない。
 久々にアイゼン&ピッケルワークの感触を確かめるように登る。但し途中で息切れがひどくなまった体を実感。S君には先行してもらった。小刻みな小休止を繰り返して鳥居荘まで来た。ここで外国人パーティに追いつかれた。装備が立派なので聞くとメキシコから来たプロガイドであった。もう一人の若い女性は京都に留学中の姪御さんだった。片言の日常会話には不自由がない。そばで会話を聞くと英語でも独語、仏語でもない。聞くと西語であった。墨西哥から3週間の旅行中だった。関西の山に登り、日本の象徴の富士山登山を楽しんで5/1には帰国とのことだった。
 来日に当っては富士山をよく研究されたようだ。装備は用意周到であった。文化面ではメキシコの山にも5000m級の高山があり、それは火山で神の山なので車では登らず徒歩で登られているという。
 かつて歌人の大町桂月は「富士山に登って山の高さを知れ、大雪山に登って山の広さを知れ」といったらしいが富士山には5万図6枚が要るとか。広さも有数であろう。
 また和歌にも詠まれた。山部赤人の長歌である。
「天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き
 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天の原 振り放(さ)け見れば
 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず
 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」
 約1400年も前の歌である。当時は活火山だったはず。江戸時代にも噴火している。そして今よりも低かったと思われる。それでもこのようにどこからでも見られ崇められて歌われた。
 鳥居荘から更に登ったが元祖室3250mまでで精一杯だった。この歌にあるような白雲が目の前を流れていく。雲の上まで登れたのである。
 12時半、数十mほど登って時間切れで下山した。下山は滑落しないように慎重に下った。鳥居荘で待機。S君が戻ってきた。聞くと御来光館3450mで山頂を見たが12時半時間切れで下山したそうだ。テントに戻って撤収する。佐藤小屋を経て馬返しまで歩く。
 途中の4合目の小屋で墨人パーティに追いつかれた。今日の富士はわれわれ4人で貸切状態だったから親密な気になるのだろう。リンゴを分けてくれた。美味しかった。4人で写真を撮ったりした。ささやかな日墨親善登山になった。

春の富士山2010年04月29日

遅き日をテント場探す富岳かな

春ストーブ囲みて飲みし缶ビール

春尽きて富士への道を歩くなり

雪解けて小屋の氷柱も落ちにけり

春光を浴びてアイゼン歩行せり

春雲の浮かぶ高さに登攀す

富士の小屋みな残雪に埋まるなり

ピッケルを刺す残雪の富士を攀づ

上田惇生『ドラッカー時代を超える言葉』から2010年04月30日

 栄・丸善を彷徨っていて目に付いた本。ぱらぱらめくると断片的だがはっとする言葉がてんこ盛りになっている。

 70:リスクを冒せなくなることこそ最大のリスク

 経済活動において最大のリスクは、リスクを冒さないことである。そしてそれ以上にリスクを冒せなくなることである。

 トヨタ自動車の大番頭といわれた石田退三は石橋を叩いても渡らない、名古屋商法の実践者として知られた。慎重にも慎重を期する経営である。
 終戦直後のトヨタは借金に苦しみ、労働組合運動にも対応するのに必死であった。日銀名古屋支店長の音頭で銀行のシンジケート団を組んで融資を受けて窮地を脱した。その際の条件に工販分離があった。多額の割賦販売で常に借金の多い販売部門を切り離してメーカーの財務をはっきりさせた。
 そんなトヨタが朝鮮動乱の特需で大もうけした。この時に決断したのは世界初の乗用車専門の元町工場の建設だった。この決定には大きなリスクを伴っただろうことは想像に難くない。
 これは大成功を納め、トヨタは大成長した。リスクを冒した結果である。慎重なだけではダメ。ここぞというときにはリスクを冒すこと。
 現在のトヨタも品質問題で大きく揺れているが長い目で見ればさざなみであろう。プリウスの発売には大きなリスクを伴ったし、世界的な工場展開も同じこと。日銀の発表にもそろそろデフレ脱却、とうたう。
 アメリカでは巨額の公金を使った経済政策が功に結びつかない。そこでというわけではあるまいがオバマ政権はゴールドマンサックス証券を攻撃し始めた。空売りで大もうけしたこの証券会社をつぶそうというのだろうか。世界からの投資を呼び込みたいオバマさんであるが折角投資してもG・Sに空売りされては投資家の意欲が吹き飛んでリスクを冒さなくなる。
 江戸時代にも今の御園座辺りで大手の米問屋を営んでいた米商人の杜国は空売りで儲けていた。しかし当時の幕府は禁じていたのである。その禁を犯した罪で渥美半島へ追放されたのだった。芭蕉は才能ある弟子でもあった杜国を見舞いに訪ねた。いつの時代でも為政者側に背くものは弾劾される。
 空売りの制度そのものが悪いわけではない。G・Sが罪深いのは内部情報を知っていて仕掛けるからだろう。G・Sはリスクを冒さずに大もうけしたのである。インサイダー取引なら馬鹿でも儲かる。大手電力会社の創業者、大手証券会社の創業者、有名な私立大学の創立者みなインサイダー取引で多額の金を手にした、とものの本に書いてある。
 リスクを冒せなくなるとほんとに経済は縮小するばかりだ。世界の経済成長を「買い」たがっている投資家は多いはずである。G・Sの行方に注目したい。