金子兜太・・・韻文精神なき俳人2024年04月26日

 兜太の父親は秋櫻子系の俳人だった。医師という点でも共通する面がある。秋櫻子は師匠の虚子に反抗してホトトギスに反旗を翻した。兜太の師匠は楸邨であるがこれもまた秋櫻子系の俳人であった。
 兜太には師匠への反抗が流れとして根付いていく。自身も戦争に駆り出された。戦地では戦友が死んでも簡単な葬式で済ますか、出来なかったこともあるだろう。
  ”水脈の果て炎天の墓置きて去る”
苦渋の中の一句である。この頃までは有季定型を守っていた。それが戦後一気に自由律に傾倒することになった。左翼傾向も打ち出す。権力者への抵抗を隠さない。
 社会性俳句なるものが流行した。多くは食えるようになると転向していった。東大を出ても仕事にありつけなかったものは社会主義の運動に身を投じたであろう。それが大学の講師の仕事を得る。作家も新聞社から小説の注文が入る。多くは食えることで普通に戻った。
 しかし兜太だけは左翼迎合を崩さなかった。それは日銀マンだったからではないか、と想像する。ある評論家は日銀貴族とまで言う。財務省の飼い殺しの存在である。
 日銀マンの人生は多額の給与、賞与、退職後の退職金、年金と収入に事欠くことはない。だから権力に盾突くこともできたわけだ。何しろ首にならないということは経済的自由人の特権である。
 そんな目で俳人金子兜太を騙った評伝はまだ読んだことがない。駄句の山を築きながら高い評価を受ける人である。