若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。