御嶽の水日進の植田水2018年05月21日

 体が久々に運動を欲しているので、朝一で資源ごみを出したついでにポタリングに出かける。部屋に戻るとネットや読書になるので一汗かくまでは戸外で遊ぶ。
 21日の天気予報を見ると、朝6時現在は日本列島の中心に高気圧が張り出している。その周りには5つの低気圧があり、千島列島に熱帯低気圧から前線がかかる。晴れているのになぜか湿っぽいのはこのせいか。梅雨前線の前触れである。

 幸いに空気は冷たい。さっそうと爽やかな空気を割いて走る。日進市まで入ると空気もうまい気がする。かなたにはやや霞んで猿投山が見える。田んぼはまだ水を入れている段階。その水は愛知用水即ち木曽川の水である。
 なるだけクルマと同じ道を避けて走るが、渋滞回避のクルマが狭い道でも入ってくるから危険この上ない。天白川沿いには自宅近くから「オオキンケイギク」の群落が目立つ。日進市のHPでは6/5から特定外来生物の駆除を始めるとか。しかし、名古屋市は大らかで駆除の話は聞かない。
 見た目はきれいである。「5月~7月頃にかけて、鮮やかな黄色の花をつけるオオキンケイギク。市内の河川敷や道路脇などでよく見かけます。
 オオキンケイギクは、日本の生態系に重大な影響を及ぼすおそれのある植物として、外来生物法による特定外来生物に指定され、栽培(植える、蒔く)、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されています。」とHPにある。北アメリカ原産という。

 話は飛躍するが、まったくキリスト教の布教と同じで、信長も秀吉も手を焼いた。家康になって排除していった。日本人は祖先を敬う宗教は受け入れた。仏教も外来思想だが祖先を祀るから広く布教できた。しかし、インド仏教は祖先崇拝はしないそうだ。
 ググってみると「日本仏教は、さまざまな要素の寄せ集めから成り立っているということになります。ある研究者によれば、日本仏教の8割はインド仏教とは無関係な先祖供養、1割が心の救済を求めてのインド仏教、1割が現世利益を求めての道教の要素から成り立っている」
 持統天皇も道教に熱心だったという。伊勢神宮は皇室の祖先崇拝であるから仏教系の思想ではない。自ら神になって遷宮を始めたのも祖先を忘れないようにという狙いだっただろう。
 というわけで日本には有害な一神教は育たなかった。アメリカは日本を破壊しようと、いろいろ画策する。東アジアの平和をひっかきまわすのもアメリカである。GHQによって丸腰になり日本の国防はゼロになった。その隙に多くの朝鮮人が不法入国してきた。戦後は被害者の立場を強調、メディア、企業、司法、政治、行政など社会の中枢に定着してしまった。李明博大統領があからさまに旧民主党政権を通じて日本侵略を宣言したことで日本人の怒りを買った。

 外来種は植物でいえばフキノトウ、ヒガンバナ、スイセンなどだが、大抵は荒れ地や林道脇、河川敷、田んぼなど絶えず人間の干渉が入る所にはびこる。しかし、原生林や鎮守の森のような伐採の手が入らない所は在来種が守られる。
 人間の社会もまさにこれ。日本社会の衰退した所や無防備なところが狙われる。今日の週刊誌の見出しに、中国人が中国で出産したのに「出産育児一時金は海外で出産しても受給可能で、病院の出生証明書があれば申請できます。海外出産の実に63%が中国籍です。しかし、出生証明書が本物かどうか、区は確認していない。紙切れ1枚あれば42万円が受け取れるのです」(zakzak)というのだ。高い健康保険料を払って、なぜ反日国家の中国人の福祉に貢献するのか。

 話を元に戻して。河川敷には本当にオオキンケイギクだけが目立つ。繁殖力が強すぎて他の植物を排除するのだ。そんなことを思ううちに日進市役所付近まで走った。あいぼくテラスまで足を伸ばしたかったが昨年12月で閉店という。走る目的が無くなるとモチベーションが弱い。今日はここで引き返す。水田、植田、苗田を散見した。田植えはまだこれからだ。

美濃高須葵それぞれ麦の秋2018年05月23日

 奥山景布子『葵の残葉』(文芸春秋)2017年12月刊。去る4月に新田次郎賞を受賞した歴史小説だ。取り上げたのは5/20付け読売新聞のコラム「東海の風」。”名古屋から見た幕末史”と出した記事に目を吸い寄せられた。青松葉事件の石碑のことだ。歴史に疎い当方はそんな石碑があったのかと思った。
 記事をちぎって本屋に走って買い求めた。歴史には疎いが、地元名古屋発、否東海地方発の歴史なら無関心では居られない。
 昨年も豊橋市の書店で『三遠の民俗と歴史』7号で姫路城主の池田輝政の出世は吉田城主時代にあった、という論考を読んだ。折しも、ポタリングで長久手古戦場をへめぐり、偶然に姫路城に行ったり、池田町の池田山に登って池田家の墳墓を見学したりと小さな出来ごとが収斂するので大いに興味深く読んだ。そして当会に入会させてもらって歴男のデビューをした。
 実は尾張藩御用達商人の末裔で、山岳映画の嚆矢だった伊藤孝一の出自を調査するために林董一の『名古屋商人史』(中部経済新聞社)、『尾張藩漫筆』(名古屋大学出版会)や『将軍の座ー御三家の争い』(文春文庫)は読んでいた。
 改めて『将軍の座ー御三家の争い』を読むとその中に読み飛ばしていた「勤王か、佐幕か」の見出しがある。結局、慶勝は”泣いて佐幕派を斬った”のである。皇室の権威は徳川家より重かった。青松葉事件の真相は関係者の緘口令で解明はされてない、とは先の読売新聞の記事にある。
        美濃高須藩とはどこにあったのか
 『葵の残葉』はすでに知られている歴史的事実を美濃高須藩出身の四兄弟の運命に絞って書いてある。ところが美濃高須藩といわれても無関心でいた身にはとんと思い浮かばない。そこで『尾張藩漫筆』の”わが高須藩”をよんでみたのである。高須藩は尾張藩の支藩だった。明治以降、名古屋藩と合併し、明治4年に岐阜県が成立するまでの短命に終わった。
 昨日は午後遅くになってから高須へ行ってみた。知らない所ではなかった。東海大橋経由で美濃から名古屋を往来する際に通過する街だった。「馬目」(まのめと読む。)の交差点を南へ曲がった辺り一帯を高須という。南下すると高須という三叉路もある。昔は高須城と言う平城があったようだ。今はお堀が若干あるらしいがそこまでは見届けられなかった。
 街並みを外れると、広々とした水郷地帯であり、今は植田が広がっている。地味が豊かなせいか、一方では麦畑が広がる。麦秋というごとく今が採り入れ時期である。尾張国といえども尾張だけを領地としたのではなく美濃などにもあった。通りで『濃州巡行記』は尾張藩の藩士が書いたはずである。

 本書の巻末に高須四兄弟の写真がある。物語はこの写真から始まる。序 二見朝隈写真館と結 葵の残葉はともに写真にまつわるエピソードである。
 読み流してもそうかそうかで終わるが、もう一冊取り出した。徳川宗英『徳川家が見た 幕末の怪』(角川oneテーマ21)の最後に「高須四兄弟の写真を深読みする」に詳細が書いてあった。著者はこの写真はなぜ撮影されたかは謎としながらも、撮影日の明治11年9月3日にヒントがあるという。幕末の後始末に「一区切りついた」という説。ここでも青松葉事件に触れている。もし慶勝は佐幕派だったら名古屋城を中心に大戦争が起こっただろうと想像する。その内乱にイギリスやフランスが軍隊を投じていたら日本はどうなったか、と慶勝の複雑な胸中に想いを馳せる。
 奥山景布子氏も想いは同じだ。読売新聞の引用記事「内戦を防いだ尾張藩の貢献と苦渋はもっと知られるべきだ」と。これが執筆のモチベーションになったのであろう。そういえば奥山氏は高須とは木曽・長良川を隔ててそう遠くない津島市の生れだった。

追記
 史劇「山本八重の半生 会津のジャンヌダルク」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/05/17/6448906
 6年前の今頃だった。会津藩対官軍の戦いを描いた。あの場面に敗軍の将として松平容保が登場。当時は美濃高須藩の出とは知らなかった。そしてこんな数奇な運命をたどったとも。

 ヤフー知恵袋で容保の動向を質問。回答「容保は所謂鶴ヶ城 の防空壕のような施設にいました。
 一旦は猪苗代湖方面に自ら出陣しましたが家来のすすめでお城に戻り采配や指示をしていましたが会津軍は撤退を繰り返し城内も野戦病院さながらの状態になります。
 そこへ隣の米沢藩から密書が届き「官軍とは薩長の私兵ばかりかと思っていたが越後の長岡藩を攻略したのは仁和寺官嘉彰親王で誠の王軍であって当藩(米沢藩)は官軍に下ることにした。貴藩もそのようにしてはどうか」と言う内容でした。
 新撰組を共に京都守護職を勤め天皇と直接関わりを持っていた容保はもはや逆らえない状況を感じ白旗を掲げて降参」した。開城。
 山本八重
 明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月かげ

支部報原稿脱稿2018年05月25日

 5月末で締切の支部報の列伝の原稿に悩んでいたが、最終的に亀山市出身の尾崎隆さんにした。手持ちの本は『果てしなき山行』しかない。あいにく書棚に見つからない。別の所にあるだろう。ネットで検索しながら情報を集めて行く。そして枝葉を整理。著作も結構多かった。
 拙ブログ小屋番の山日記「登山家・尾崎隆さんがエベレストで急死!?」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2011/05/14/5861694
 アップ後、日本山岳会会員の方からコメントで日本山岳会会員であることを教えてもらった。

 ググってゆくうちに動画がヒットした。「登山家アルピニスト 尾崎隆」と題した亀山市公式ユーチューブだ。
 両親や兄弟の並んだ写真を含めて生立ちをたどる。亀山中学でも山岳部、四日市の高校でも山岳部で石水峡の鬼ヶ牙、藤内壁でのトレーニングに励む。
 愛知学院大学山岳部OBとの出会いから第二次RCCに入会。エベレストでの死までの業績を動画でたどります。
https://www.youtube.com/watch?v=wQMoEE-5cd4
2015年7月12日公開。
 地元にも大切にされている登山家だったんですね。「僕は、やっぱり花も木もある鈴鹿山脈が好きだな」と結ばれています。ふるさとの山は野登山でした。生死をかけてまで登山に明け暮れたが帰るところはふるさとの山である鈴鹿山脈だった。
 山慣れはリスク慣れなんだろうか。怖いはずが怖くなくなり、危険を冒してしまう。28歳、29歳にエベレストに登頂、49歳でもマカル―に登った。経験は充分なのに下山中に8400M地点で死去。高山病と伝えられている。30歳前後と60歳を前にした58歳との年齢差はもはや別人ということなのだろう。成功体験は忘れよ、という加藤幸彦の言葉に重みがある。
 ヒマラヤから無難に生きて下山するのは登頂よりも難しいことを今回の尾崎隆の業績を概観して痛感した。5月21日にエベレストを下山中の栗城史多さんの死亡が伝わった。同日、大城和恵さんのエベレスト登頂も伝わった。彼女のコメント「前略、絶対に下山でミスをしないぞ!生きて還るまで、気を抜かないようにしよう。」いや、この心意気あればこそ。
 ヒマラヤのような高峰だけではない。JAC広島支部の幌尻岳の事故や新潟の松平山のあの親子だって下山を誤った。我々も下山を誤らないようにしよう。

行政書士会中央支部総会2018年05月25日

 4月から総会ラッシュだが、5月も終盤になってラッシュ気味だ。20日はJAC東海支部の総会、27日はマンションの総会、31日は愛知県行政書士会の総会、6月23日はJAC本部の総会で終わる。株主総会もそのころに終わる。
 25日夜は行政書士会中央支部の総会だった。例年は第3土曜日に集中していたが、分散して、今回は平日夜になり出席可能になった。名駅前のアソシアホテル14Fで、若い女性支部長の中村氏、愛知会の前田会長があいさつにたって、型どおりの総会を済ます。448名の会員総数に対し61名の出席者になった。委任状を足して総会成立。事業報告、会計報告も意見、質問もなく進行。無事に終わった。
 懇親会は51Fに上がって宴会になった。市議、県議、国会議員の先生方の紹介とあいさつが終わってごちそうを食べて懇談した。出席は3年ぶりくらいか。顔ぶれは幹部級は変わらないが、新しい人らは年々変わる。新規参入、廃業もあるし、死去も結構ある。今回も式の最初に物故会員の黙祷があった。
 私も開業以来8年目になった。10年経ったら注文があるようになるよ、とアドバイスしてくれた人がいた。あと2年の辛抱だ。修業と宣伝の期間だったのだ。しかし、いつ死んでもおかしくない年齢になった。いつまで持ちこたえるか。正念場に来たと言える。

麦秋の海津市を訪ねて2018年05月26日

 23日に行ったが、遅掛けでさらっと見てきただけだった。所用が片付いたので再度海津市を訪ねた。今回は名二環から県道79号経由東海大橋を渡った。
 木曽川、長良川の大河を渡る。ほとんど流れは見えない。底流では早い流れなのだろう。雪解け水や大雨で川岸の木の枝も水に浸かり、水量は多めに見える。
 海津市に入ると田園が一面に広がる。大かたは水田で、苗を植えたばかりの植田が多い。水田もまだある。その反面で麦田も結構広がって見える。高い建物が無いから空が広い。
 西には屛風のように養老山地がふさがる感じである。左のアンテナの多い山は多度山だろう。北寄りに狐平山がある。
 さて、まずは喫茶店でホットコーヒーで一休み後、お城をイメージしたような歴史民俗資料館へ行く。館内に入って310円を支払う。閑散としているが来客はちらほらある。当館のメインテーマは1F~2Fの輪中と低地の農業・暮らしである。3Fの高須藩のスペースでは、高須松平藩御館の一部を復元した。御玄関から御書院の間に至る主要部分の能舞台と広間を加えた。華美ではないが、それなりの格式をもっていたのだ。
 2015年には林董一氏が来て講演会もあったらしい。最後にコーナーで『高須四兄弟』(新宿歴史博物館、平成26年)のパンフレットを購入して辞した。美濃高須藩と云っても、四兄弟は新宿で生れたのである。高須は領地だったという関係だけなのだ。ただ領主は1回か2回は来たらしい。恵那の佐藤一斎だって、江戸屋敷の生れで、1回だけ来て、天瀑山に登ったという。
 その後、自転車を出して、高須を走った。ネットからプリントした絵図を参考にしたが案内はないので山勘で走った。植田が庭園のように見える見事な田園風景である。山にも景勝地として餓鬼の田んぼがあちこちにある。低湿地のことである。
 地図を見ながら適当に走ると、堀の跡の園地に着いた。主水橋という橋が当時の名残をとどめるのみである。
 そこからやや登り気味に走ると旧市街地である。若干高くなっている。古街道のように軒先を寄せ合って、クルマなら軽がやっと通れるような狭い道がまっすぐに伸びる。一見。江戸時代にタイムスリップした古い家並みが続く。
 そうか、高須の地名の由来が想像できる。地名語源辞典には高洲、高い所、台地、自然堤防などと類例がある。ここでは本来は高洲と書くのだろう。自然史的には東海湖が干上がった結果できた低湿地帯である。揖斐川や長良川が氾濫を繰り返して出来た沖積平野である。堤防道路を除くと標高は2.4Mあり、海津市では一番高い。高い所に住宅が密集している。
 地政学的にも、中山道の関ヶ原へは陸路で、桑名藩の松平定敬へは水上交通、尾張藩の慶勝へは水上交通でほぼ等間隔の位置にあり、重要な位置だったと分かる。
 これも自転車で走るから分かったことである。約30分のポタリングになった。

歯痛収まる?2018年05月27日

 10日位前に奥歯に疼痛があり、歯科へ行くかこのままだましだまし過ごすか悩ましかった。原因は多分糖分の多い飲料を飲んだせいか。
 今時は飲みたくなるコカコーラだが、確実に歯痛(虫歯)促進剤なので飲まなくなって久しい。他の飲料を警戒して飲んでいるがこれくらい良いだろと飲むと痛み出すのでしまった、と思ったことがある。今回もそれだろう。
 それで歯間ブラシを頻繁に行い、うがいを繰り返すうちに痛みが消えた。歯間に唾液が浸透し汚れが流れやすくなったのだろう。
 それと便通を良くするように心がけた。かつて便秘になると目が痛くなったことがあり、眼科でフルスルチアミン(アリナミンF)を処方してくれた。それで便秘が解消すると目の痛みも取れた。今回も考え事に集中する内に便秘気味になった。これはいかんと、便秘解消に努めたら治った。
 人間の体は微妙である。精神の停滞が体内の機能低下を招き、便秘になったり、血液の汚れが治療した歯や目の粘膜を刺激するのだろう。対症療法に依存すると古い歯冠を剥がし、ガリガリ削られる。おカネも歯もいくらあっても足りない。体調管理が重要と思う。

新潟の遭難親子の2遺体発見2018年05月29日

http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000128368.html
新潟県の五頭連山で2人の遺体が見つかりました。警察は、5日に登山に行って行方不明となっている親子とみて確認を急いでいます。

 少年自然の家からそのまま進むと、松平山の登山口から松平山方面に登山ができますが、5日に五頭連山の松平山登山口から入ったとみられているこの2人は、松平山付近で他の登山客などから目撃証言があり、こうしたことから松平山に向かったとみて登山道を中心に捜索が続けられてきました。遺体発見場所は、警察によりますと、松平山の南西にある「コクラ沢」という沢の周辺の斜面で倒れている2人を発見したということです。
以上
 お悔やみ申し上げます。

名古屋城の天守閣木造復元問題2018年05月30日

河村市長「クレーンで障害者を天守閣に」 名古屋城問題
 名古屋城木造新天守にエレベーターを設置しないという名古屋市の方針に反対する障害者らが21日、市役所前で抗議集会を開いた。視覚や聴覚に障害がある人を含む約150人が参加し、代表者が抗議文を河村たかし市長に提出した
 参加者は4時間にわたって「(市が代替案とする)新技術でごまかすな」「エレベーターは絶対必要だ」などと訴えた。主催団体の斎藤縣三共同代表(69)は「健常者も含め大きな市民の声にしたい」と話した。

 一方、河村氏はこの日の記者会見で、クレーン車を使った新技術を応用して障害者を新天守低層階まで運び上げる案を示した。「なるべく上まで上がれる挑戦をする」と、障害者へ説明を続ける考えを示した。

名古屋市、障害者参加の協議会設置を検討
 また、名古屋市は17日の市議会経済水道委員会で、渡辺正則・観光文化交流局長が「障害者への説明不足があった」と述べ、障害者の意見を聴く協議会を設置する検討に入っている。「新技術によるバリアフリー」という方針は変えないものの、障害者にも研究開発に加わってもらうことで溝を埋めたい考えだ。障害者団体に改めて方針を説明し、参加を呼びかけるという。

 渡辺局長によると、協議会は河村たかし市長をトップとし、研究開発者や木造化の施工業者も加わり、障害者のニーズを踏まえた新技術の実現を図るという。7月までに初会合を開きたいとの考えも示したが、障害者団体の協力を得られるかどうかは不透明だ。
以上
 クレーン車とはいかがなものか。
 EVなしで復元していただきたい。そこで提案したいのは、登山で山を登っていると、植林、伐採作業、山の上での土木工事などで近年はモノレールをよく見るようになった。あれを応用出来ないかと考えてきた。
 今日もFBに投稿しておいた。世界で初めて開発したメーカーは㈱ニッカリという。50CCのガソリンエンジンを積んだ自走式が普及しているが、電動化、車椅子移動用も開発されていると知った。
https://www.youtube.com/watch?v=vi8iTz9seSU
9分07秒辺りで見られる。
 これをカスタマイズできないだろうか。半円形を描いて昇降すれば床のみの固定で自立できる。
 木造化した天守閣は建設後1000年は持つ。だから柱や梁に余計な付属設備を取り付けないことである。柱に穴を開けたりすると強度も落ちる。腐食もする。その点、モノラックは仮設であるから構造はシンプルで、取り外しも楽だろう。 
 50年後、100年後は不要になることも考えておきたい。今は車椅子に乗らざるを得ない身体障害者も将来はサイボーグで自力で歩行できるかも知れません。
 これはいい加減な話ではなく、名古屋帝国大学医学部を出た医師で山岳会の先輩のU氏は脳性マヒを手術と訓練で治癒の道を開拓したのである。死去後は岡崎の青い鳥学園の後輩に引き継がれている。
 木造は長い目で見るとEVなしを支持する。EV設置なら木造化は中止し、コンクリートと鉄筋で50年ごとに立て替えするが良い。

総会もこれが最後や五月尽2018年05月31日

 今日は午後から愛知県行政書士会の総会だ。12時から受付なので10時30分過ぎに自宅を出た。窓からは降っていないように見えて折り畳み傘を用意したが、階下に来ると降っているではないか。戻って大きめの傘に取り換えた。
 地下鉄・御器所で乗り換え、国際センター前で下車。すぐに会場のプラザホテルに着く。大勢の人でにぎわっていた。受付を済ますと知己の先生らとしばし懇談。
 13時になり総会に入った。来賓入場、大村知事のあいさつ、会長のあいさつが続き、式次第が消化された。議案の審議に入る前に約3000名近い会員に対して出席者は200名以上、委任状を含めて総会の成立が宣言された。今回はいつも以上に質問が多かった。議事進行の動議がなされたが、何とか無事に終わった。続いて政治連盟も同様の審議に入ったが特別紛糾することはなかった。
 先週は自宅のマンションの管理組合の総会が流会したこともあり、そういうこともあるのだと緊張する場面もあった。管理組合の審議は山積で、愛知会の質問書を管理組合用にカスタマイズして理事長に提案しておいた。老朽マンションは今後多くの問題を抱えて紛糾するだろう。

 愛知会の方も会員増に対して仕事が奪い合いになるので、新たな業種を開拓せねばならない。
 カレー店、牛丼店、回転すし、ラーメンと餃子の店も繁盛店から廃業寸前までピンキリであるように、市場が飽和状態にあっても何とか知恵で切り抜けて行くしかない。
 弁護士業界も今や3万人と聞くし、7万人超の税理士業界は産業界が経営承継問題で廃業が現実化。顧問先を失う展望に改革を迫られている。食える士業でも大変であろう。

 行政書士業界は5万人に迫る。愛知会だけでも3000人突破は目前である。社会の変化に対応することが求められている。他の国家資格と組み合わせで業務拡大の先生もいる。
1 プラス社会保険労務士で企業の労務に専門化
2 プラス社会保険労務士と取次行政書士で入管に専門化
3 プラス税理士で相続・遺言書に特化
4 プラス土地家屋調査士で不動産関連に専門家
5 プラス司法書士で相続・遺言書を含める
6 公務員からの転身組(事務系公務員は17年以上で無試験で登録できる)では、
・警察畑・・・交通事故、風俗関係、自動車関係
・事務畑・・・相続・遺言書、許認可
7 その他、会社員、自営業など非常に多彩な経歴の持ち主が多い。
それぞれのキャリアと人脈を生かして「棲み分け」ている。

 総会終了後はお決まりの懇親会になった。御馳走をしっかりいただき、美酒を飲ませてもらった。周囲は見知らぬ若い人だらけになった。段々知己が減って行くような気がする。
 あとどれだけ頑張れるか。今も仕事がゼロではない。建設業許可取得に支援をした関与先から電話で今年も事業年度更新を依頼された。明日から着手する。成年後見人の仕事も本人が亡くなるまで続く。中途で降りるわけにはいかない。そこが解雇されたらゼロの会社員とは違う。
 梅雨のはしりのような1日が終わって家路についた。4月から続いた総会ラッシュも7回目の今日で終わった。まだあるが東京なので委任状で済ませた。