うらをみせおもてを見せてちるもみじ 良寛2017年11月07日

 裏木曽の山に遊んだ際、紅葉、黄葉も盛りでした。全体が針葉樹林ですから殺風景な山を装う役目を果たしています。男性ばかりの集団に少数の着飾った女性が紛れ込んでいる風景です。

 さて、掲載の句は紅葉且つ散る、という季語をうまく織り込んでいます。全部落葉するのではなく一部が散りながら全体は多くが枝にとどまっているイメージです。そんな中でひらひらと散るのですが、裏を見せ、表を見せて散るという表現が秀逸です。
 良寛といえば、歌人とばかり思っていたのですが、こんな俳句も残していたんだ、と目を開かれた思いがします。この句の句碑が倉敷市にあるそうです。

 そのブログ「歴史・文化の町<倉敷>周辺の隠された魅力
地元倉敷に住み 倉敷を愛する「倉敷王子」が見た<倉敷周辺>を紹介してゆきます」から
https://blogs.yahoo.co.jp/kurashiki_prince/18941259.html

 「倉敷の玉島円通寺で若い頃修行した良寛は,住職の国仙和上から印可の偈(げ)を受け取ると,生まれ故障の越後に帰り,そこで晩年を迎える。

 円通寺には,良寛の辞世の句と言われている句碑がある。

 説明看板には,下記の説明が載っている。
 

      うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ


 これは良寛の辞世の句である。出家雲水の生活に入って
     
 実相の世界に住んだ良寛の,最後に到達した名句である。

 自然に観入したこの句は,また人生の真実を詠んで含蓄深い。

 この句碑が若き日の良寛ゆかりの円通寺に建てられたことは

 誠に灌漑(ママ 注:感慨)深いところである。

 すでに当山に建てられた良寛の漢詩や和歌のそれぞれの

 碑と合わせて この句碑は 浄土の世界に遊んだ良寛の心を

 窺い知るこの上ないよすがとなることであろう。

                       平成元年五月吉日
                       玉島文化協会

 越後で雲水の僧として各寺を訪れていたが,やがて五合庵という小さな板敷の庵で清貧に甘んじた生活を送る様になったことが知られている。

 雪深い越後の地で,食べるものが無くなると托鉢の為に山を降り,囲炉裏で燃やすものが無くなると山に枯れ枝を求め暖をとっていた。

 しかし良寛にも,<老い>は確実に訪れ,特に雪深い冬には水の様な粥をすすって飢えに耐えていた.恐らく死を覚悟したことは一度ならずあったことであろう。

 これを見かねた良寛の支援者である木村家が自分の蔵に良寛を住まわせ,ここが良寛の終焉の地となった。
  
     <木村家の良寛を見ずして良寛を語る勿れ>とまで
     言われたほど,能登屋木村家には100点を超える
     良寛及び関係者の遺墨が保管されている

 この場所に移ってから暫くして,良寛が70歳の時,若い尼僧である貞心尼と出会った.貞心尼は色白の美人と言われ,良寛と出会った時は30歳であった。
 その後の二人が交わした歌を追ってゆくと,その出会いは運命的と思わずにはおれない。

 二人が交わした歌が多く遺されている。

 人目を憚らず,手を携えて野で花を摘み,満月の夜,月を眺めながら語り明かし,,子供の様に二人で手毬をついて戯れる姿が,その歌から読み取れる。

 二人の年齢差は40歳もあるが,歌に込められた想いにはとてもその年齢の差は感じられない.それどころか,男と女の関係すら感じられるほどである。

 しかし,良寛と貞心尼とが出会って5年経過した冬のこと.老いた良寛は遂に自身ではたつことすらできなくなったという.

 寝たきりになった良寛は,トイレも1人で出来なくなり,尿と便で汚れたままになった着物を身につけたまま,誰かが来て取り替えてくれる日を待つようになったと伝える記録もあるらしい。

 良寛は自分の死期が近いことを悟りながらも,貞心尼を想う気持ちが次第に高まってきた.しかし貞心尼が良寛の住む場所に来るには,雪深い難所の峠を越えなければならない。

 夏でも難所と言われる峠を,雪深い冬のこの寒い時期に女の足で超えられる筈もないと思いながら,極度に高まった貞心尼を慕う熱い気持ちを,弾ける様に,次の歌を詠んだ。

    梓弓 春になりなば草の庵を

    とくとひてまし逢ひたきものを

 この歌は貞心尼の元に届けられた.誰かが,見かねて貞心尼に届けたのであろう。
 
 貞心尼は良寛の死期が近いことを悟った.そして,この歌を受け取った貞心尼は,良寛の元に,雪道を走った。

 彼女と行動を共にした人がいたかどうかは知らない。

 彼女は,雪深い峠を,凍死するかも知れない危険を冒しながら,死ぬ前にもう一度だけ良寛に会いたいと,一心不乱に雪道を駈けた。

 そして,病臥に伏せていた良寛の枕元に辿りつき,生きて師である良寛に会うことができた。

 貞心尼の姿を自分の眼前に見た良寛は,喜びの余り布団から身を起こし,貞心尼の手を取って涙を流して泣いたと言われる。

 その時詠んだ歌がある。

    いついつと 待ちにし人は來りたり

    今はあひ見て何か思はむ

 貞心尼も,その時良寛の死が近いことを知り,その時の気持ちを歌っている。

     生き死にの 境はなれて住む身にも

     さらぬわかれの あるぞ悲しき

 良寛は,駆けつけた貞心尼の手厚い介護を受け,10日後の年が明けた頃に,最愛の尼弟子<貞心尼>に見取られながら,この世を去った。

 別れる間際に,良寛の口から洩れた句がある.現在では,この歌が良寛の辞世の句と言われている。

   裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ

 この句を見るにつけ,今年の歌会始めの雅子妃が詠んだ次の歌を想い出す。

  吹く風に 舞ういちやうの葉 秋の日を

  表に裏に 浴びてかがやく

恐らく,心が砥ぎ澄まされてくると,空から落ちてくる一瞬の落ち葉の振る舞いが,映画のスローモーションをみている様に永く永く感じられるに違いない。」
以上

 何と言っても写生から実相観入(斎藤茂吉の短歌論)して、深い心を詠んでいるところが良い。こんな境地になるには修業がいるんだろう。