佐久・茂来山は眺望絶佳!2010年11月15日

 宿は長野県北相木村にある旅館・相木荘。標高は900mの谷間にある。釣宿として知られているようで居間には尺もの岩魚の魚拓が飾られていた。高原の村の宿は寒くてすでに炬燵が入り石油ストーブも焚かれた。宿はお婆さん、夫婦、息子さんで切り盛りしているようだ。
 昨夜は地元青年団の寄り合いで宴会でにぎわっていた。夕食は鯉の旨煮が出て満足でした。佐久は鯉の名産地で我々に供するために長時間かけて煮込んだとか。たっぷりの副食にご飯も美味しかった。
 朝は5時半ころに起きてしまった。まだ暗いのでまた寝た。7時までTVに見入った。朝食を食べると出発だ。山間地を走ってR141に戻る。佐久市へ向かって走ると右手に茂来山らしい山容が見えてきた。十国峠の標識を見てR299へ右折する。
 田園地帯を走るともう山麓に着いて槙沢登山口の案内標識、続いてバス専用の案内が見えたがパス、本来の霧久保沢登山口の案内で右折した。さっきの道とも橋で合流した。ゲートのある広場は大きなバスも駐車可能な広いスペースで人気のほどがわかる。
 8時40分出発。案内に従っての安気な林道歩きである。分かれ目からはしばらく廃林道を行くが渡渉すると本格的な急な山道になった。こぶ太郎という大木までは整備された遊歩道が続いた。
 こぶ太郎は樹齢250年のトチノキで巨木であり、古木でもあった。周囲を踏みつけないよう見学用の木製園地に整備されていた。9時20分、そのベンチに座って休憩。するとふわふわ雪虫(綿虫)が浮遊していた。冬の到来近し、と告げる風物詩である。
 こぶ太郎を辞して一気に斜度も急になるし、狭くなった山道を辿る。するともう一段登った辺りでまたトチノキの巨木にであった。完全な姿の炭焼き窯跡もあった。沢の水は絶えて石がごろごろする源流の様相となった小さなカール状の急峻な地形をジグザグに登りあがる。胸突き八丁といったところであろうか。周囲の樹相もよろしい。今は裸木であるが最盛期の黄葉が美しいだろう。
 尾根にたどり着くと槙沢からのルートと合流する。ここから山頂はあっけないほどすぐに着いた。地元の青年風の単独行の人が先着していた。月に一回は登るとか。眺望は広大無辺で非凡としか言いようがない。彼からは色々話を聞かせてもらった。おらが自慢のふる里の山なのである。
 ここからは佐久市が盆地だということが良くわかる。背後には名峰浅間山を従えて山すそがせまる。左からは八ヶ岳のこれまた長い山すそが引いて佐久に流れる。そこへ千曲川が北流する。沖積平野なのだった。今日は冬の靄が佐久盆地の上空を覆う。
 山岳同定をしてみよう。主峰赤岳を抱く八ヶ岳連峰、浅間山を盟主とする上信国境の山々、その間にはかすかに北アルプスが見える。荒船山、西上州の低山群、奥秩父の山々。標高は100mほど低いのだが昨日の横尾山とはまた違った角度を楽しんだ。
 そのうちに槙沢からという関東かららしい17人の団体さんが着いた。立錐の余地がない狭い山頂はすぐ満員になった。眺望を堪能した後は我々も下山することにした。
 下山後もこぶ太郎に寄って休んだ。雪虫はまだいた。高曇り、無風を条件に現れる。数日後には降雪を見ると言い伝えられる。
 登山口に戻るとマイクロバスが2台。山頂で会ったパーティが下山は霧久保沢口と言っていた1台だな。途中で会った人も20人近かったから彼らのバスかな。
 R299へ戻った。いったんR141に重なる。佐久穂町の奥村土牛の記念美術館に寄る。奥村土牛(おくむらとぎゅう)は日本画家で1889から1990まで生きた。お目当ての富士山の画はなかった。
 R299は麦草峠を越える。小淵沢を経由するよりは茅野市へ近道になるのでR141から分かれる。素晴らしい山岳道路だった。白樺林の美しいところがあったし峠には初雪があった。11/18からは冬の通行止めに入る。茅野市側に超えて諏訪ICへ。

山梨/長野・横尾山を歩く2010年11月14日

11/13早朝5時30分過ぎKiとKoさんの2人が来て出発。まだ薄暗い。本郷駅で待ち合わせのKuさんもちょうどグッドタイミングで合流できた。6時過ぎ、東名中央道の通行量は早朝にも関わらず随分多い。今頃がおそらく1年で一番いい行楽日和であろう。
 駒ケ岳SAで休憩のために降車するとひんやりする。涼しさを越して小寒い。一枚はおった。9時20分、須玉ICで出て信州峠に向かう。昨年の学習効果で比較的スムーズに行ける。
 峠には先着車が数台あった。10時20分、すぐに仕度して落葉したカラマツ(=落葉松と書く)林の尾根を歩く。晩秋から初冬にかけての山は落葉してすっきりした森林の広がりがいい。やや急な山道を登りきると周囲の展望が広がる一角に着いた。11時10分、もう少しでカヤトの展望丘に着くはずだが私たちはその一歩手前の岩場で休んでしまった。
 富士山は北面に少しだけ冠雪している。八ヶ岳は普段見る機会の少ない東側からの眺望に見入られる。奥秩父のみずがき山はもう前山でしかない。金峰山以外はすべて無個性の山なみに没している。みずがき山は山麓から仰いだ姿こそ素晴らしく見える。
 また歩くとカヤトの展望丘に着いた。ここはホントに素晴らしい眺望である。しかし休むには寒い気がする。再び360度の眺望をカメラに納めた。さっきと違って南アルプス、中央アルプス、白山、乗鞍岳が加わる。八ヶ岳は益々雄大に聳える。

 冬の靄が甲府盆地の上空を覆う。
 
 丘を辞して山頂に向かうと再び樹林帯に入る。多少の岩場もあって歩きづらい道である。約30分ほどで山頂に着いた。評判どおり眺望は南アルプスに開けているいるのみ。黄砂の影響もあるのか高曇りながら遠望は効かない。寒いので余り長居もできず、往路を下った。
 信州峠からは信州側に下った。まだ2時前なのでコーヒータイムをすることになった。一旦R141に出た。途中で何やらカメラマンがずらっと並んでいる。後で知ったが小海線を走るイベント列車のトロッコ列車を撮影しようと待ち構えていた鉄ちゃん達だった。
 目指す喫茶店は演歌歌手”藤あや子”が経営する「ギャラリー彩(あや)」だ。紅葉に染まる八ヶ岳高原を走り回って大泉駅の南にやっと見つけた。
 彼女の手作りコロッケが乗ったカレー(1000円、コロッケ1つ1300円、コロッケ2つ1500円也)を食べたかったが山頂で昼飯を済ませているので満腹だった。400円也のコーヒーだけにした。今日は他に客2名だけだが14日には熱狂的なファンが全国から80名集って彼女の快気祝いのイベントになるらしい。このお客さんも大阪から駆けつけたファンだった。一しきり彼女の話題で盛り上がって店を辞した。(彼女は6月頃突発性難聴という病気で入院。一時は歌手生命危うしと書かれていたが完治して10/5にステージに復帰済み)
 R141を北上して宿のある北相木村を目指した。

春の富士登山2010年04月27日

メキシコからの富士登山の人たちと旧登山道にて
4/23(土)夜、山の支度中にS君から用事が早くすんだから10時出発を早めようと電話がある。8時出発とした。西友で食料を買い込む。高速に入る。深夜になり、中央道の二葉SAで仮眠。
4/24(日)早朝出発、河口湖へ向かう。白い富士が車窓から見える。国道に出てなか卯で朝食。馬返し登山口に向かう。すでに数台が止まる。7時半、今は歴史の道となった富士吉田登山道を登る。荒廃した神社、荒廃した宿泊所などを通過して林道に出る。再び山道に入り、スバルラインを横切る。すぐに5合目の佐藤小屋だった。2240mあるから恵那山とほぼ同じ高さに着く。
 12時までにはまだ余裕がある。小屋でコーヒーを飲んだり、缶ビールも飲む。登山者風情の熟年が二人缶ビールを空けて気焔をあげる。
 今から約32年前の11月末の連休に愛知岳連でバス、トラックを連ねて氷雪技術訓練に来たことがあった。スバルラインの終点から佐藤小屋までの道路沿いにテントを張って吉田大沢で訓練したものである。北海道でもまだ雪が少なく全国から約2000名が入山した。他の会で遭難事故が発生し、二日目の夜は救急車、パトカーのサイレンがけたたましく鳴り、佐藤小屋が連絡の拠点となった。この年は4名が亡くなった。死体をツエルトにくるめて吉田大沢を滑らせて下ってきた。まるでゴミ扱いだが仕方ない。
 死亡者が出て訓練の責任者で会長のKさん(故人)はテントをひとつづつ廻り、気合を入れた。こんな時に酒なんか飲んでる場合かと怒鳴られた。明日はわが関係者に及ぶことを恐れた。当然のことである。
(連休明けに出社すると社長が開口一番に「おお無事に帰ってきたのか」と心配されていたことを知った。新聞では派手に報道されていたからだ。その後管轄の山梨県警はこの地域の訓練の中止を勧告してきた。高山市の登山家が12歳の娘を富士山頂上から滑降させると聞いた山梨県警はこれも中止にさせた。)
 訓練は負傷だけで済んだ。以来来たことはない佐藤小屋であるが今でも観光者向きにはせず、純然たる登山者のための小屋を保つ。上の小屋は?億円の売上があり高級車を乗り回すが自分は赤字で軽自動車しかのれないとか、そんなことを話して笑わせてくれた。
 泊まりたい気もしたが小屋は4時で仕舞うとか。休みを切り上げて行けるところまで行こうと再び登った。六角堂に一張りあった。さらに登って6合目の安全指導センターの建物の敷地に設営した。
4/26(月)6時10分テントを出発。最初は火山岩の道を登る。花小屋でアイゼンを着装。昨日の外国人パーティはここでテントを張っていた。食事に誘われた。ずいぶんのんびりしている。食事は済んでいるから丁重に断るがS君がないと知りながらも禁断症状のためかタバコを所望した。タバコでは通じず、シガーシガーというと分かってもらえた。もちろんあるわけがない。
 久々にアイゼン&ピッケルワークの感触を確かめるように登る。但し途中で息切れがひどくなまった体を実感。S君には先行してもらった。小刻みな小休止を繰り返して鳥居荘まで来た。ここで外国人パーティに追いつかれた。装備が立派なので聞くとメキシコから来たプロガイドであった。もう一人の若い女性は京都に留学中の姪御さんだった。片言の日常会話には不自由がない。そばで会話を聞くと英語でも独語、仏語でもない。聞くと西語であった。墨西哥から3週間の旅行中だった。関西の山に登り、日本の象徴の富士山登山を楽しんで5/1には帰国とのことだった。
 来日に当っては富士山をよく研究されたようだ。装備は用意周到であった。文化面ではメキシコの山にも5000m級の高山があり、それは火山で神の山なので車では登らず徒歩で登られているという。
 かつて歌人の大町桂月は「富士山に登って山の高さを知れ、大雪山に登って山の広さを知れ」といったらしいが富士山には5万図6枚が要るとか。広さも有数であろう。
 また和歌にも詠まれた。山部赤人の長歌である。
「天地(あめつち)の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貴(たふと)き
 駿河なる 布士(ふじ)の高嶺(たかね)を 天の原 振り放(さ)け見れば
 渡る日の 影も隠ろひ 照る月の 光も見えず
 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける
 語り継ぎ 言ひ継ぎゆかむ 不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は」
 約1400年も前の歌である。当時は活火山だったはず。江戸時代にも噴火している。そして今よりも低かったと思われる。それでもこのようにどこからでも見られ崇められて歌われた。
 鳥居荘から更に登ったが元祖室3250mまでで精一杯だった。この歌にあるような白雲が目の前を流れていく。雲の上まで登れたのである。
 12時半、数十mほど登って時間切れで下山した。下山は滑落しないように慎重に下った。鳥居荘で待機。S君が戻ってきた。聞くと御来光館3450mで山頂を見たが12時半時間切れで下山したそうだ。テントに戻って撤収する。佐藤小屋を経て馬返しまで歩く。
 途中の4合目の小屋で墨人パーティに追いつかれた。今日の富士はわれわれ4人で貸切状態だったから親密な気になるのだろう。リンゴを分けてくれた。美味しかった。4人で写真を撮ったりした。ささやかな日墨親善登山になった。

鎌倉山歩”吟行”2009年12月24日

蝋梅の花
 
遠目にも雪煙上がる芙蓉峰

冬ざれや北鎌倉の谷戸の道

蝋梅の喪中とは知らず咲く

冬の日や竹を編む塀奥床し

大仏へ引き寄せられる十二月

取れたての里芋を剥く冬の谷戸

焚き火して朝餉を待つや谷戸の人

霜柱かつてはありし谷戸の畑

弁天の冬の水にて銭洗う

化粧坂凍てて険しき道下る

鎌倉山歩2009年12月20日

竹を編んだ浄智寺の塀
12/18(土)
早朝6時15分頃、名古屋は降雪中を出発。天白区で早速スリップ事故を目撃。以前にあわや激突しそうになった坂道である。降雪のため名古屋ICからしばらくはスローな流れであったが渋滞ではない。静岡県に入ると明るくなり、晴れる。冠雪の富士山が段々大きく見えて楽しいドライブを堪能。厚木ICを出て鎌倉市の定宿Sへ着く。約5時間半。JR線で大船駅から北鎌倉駅迄乗り下車。浄智寺を通ると、竹の塀が素晴らしく風情がある。何か小津映画に出てきたイメージがある。谷戸を抜けて車道が終ると尾根に上がり、大仏ハイキングコースを踏破する。途中で富士山が真っ白に見える。照葉樹林の木立の中を上り下りのある山道である。大仏はパスして長谷観音の十一面観音像を拝観する。300円也。見晴らしのいい場所からは由比ヶ浜や鎌倉市街を俯瞰できる。鎌倉駅まで歩いてJRで大船駅まで乗り、宿に戻る。宿の夕飯はないので夜店で夕食を買出し宿で食べる。大変安い。
12/19(日)
今朝も快晴。朝食をたっぷり摂って宿を出た。湘南モノレールで町屋駅下車。鎌倉中央公園に向かう。昔ながらの谷戸の風情をなるだけ壊さずに保存する試み。残された田畑をボランティアで耕し、野菜つくりをするグループがある。散歩する人もあり、都市住民の憩いの場所になっている。谷戸を抜けると大仏ハイキングコースと交錯する道に出て銭洗い弁天様にお参りする。戻って化粧坂を下り、鎌倉駅手前から北鎌倉駅まで歩く。昨日は通りかかっただけの浄智寺を拝観する。200円也。
北鎌倉駅から大船駅に戻る。かつて松竹撮影所があった頃からの老舗レストラン・ミカドに寄り、昼食。「かつ飯」を食う。バター風味+たまねぎの焼き飯が旨い。コーヒー付きで1500円也。東名を走って帰る。帰りは1時半に出て7時半に帰る。約6時間。往復650Km。

第50回木暮祭に参加2009年10月19日

会場に展示されたパネル写真
現在の顕彰碑以前は大きな自然石に嵌め込まれたレリーフだったという。昭和34年の伊勢湾台風で壊れて翌年、現在の形に新設された。写真の深田久弥が訪れたのは旧顕彰碑であった。

第50回木暮祭に参加2009年10月19日

金山平の木暮碑
木暮理太郎の碑前には捧げられた献酒、献花、果物類の類で一杯になった。当日は150名の参加者があったという。
あいさつの中に木暮さんは金峰山が好きだったという。それで碑の彫像も金峰山を向いている。建立当時は立木がなかったが今は白樺の木立に囲まれている。更にカラマツが高く育ってしまい何も見えない。県有林なので県と相談して一部伐採をするという。ここでは山岳関係者だけでなく増富温泉の観光業者、役所も一体にまとまって顕彰されているところが凄い。

第50回木暮祭に参加2009年10月19日

大鍋にたっぷりのほうとう
甲州名物の「ほうとう」の煮込み風景。きしめんによく似た形状の麺類である。白味噌をベースに白菜、里芋、かぼちゃ、ニンジン、きのこ(天然もの、しいたけ、その他)を入れてぐつぐつ煮込むだけの簡単料理。食料不足の時代の応急の食べ物で年配の人らには辛い時代を思い出させる食べ物である。地元の人はお金をだしてまで食べたいものではない、という。

第50回木暮祭に参加2009年10月19日

 オーバーハングした岩場の真下の垂壁に梵字が彫られたように見える。これをカンマンボロンといい、大日如来という。

第50回木暮祭に参加2009年10月19日

約90名が集い盛大に行われた
 前夜祭の会場はリーゼンヒュッテにて。