東濃・納古山を歩く2022年12月05日

 山岳会の忘年会の会場に東濃随一の大展望を誇る納古山に登山した。登山口は下麻生駅に近い南天の滝への一角の駐車場である。地元のボランティアの尽力で多数の駐車場が整備されていた。南天の滝への道標を見ながら林道を歩くと景行天皇の由来する滝に着く。ここで滝見すると中々に立派であった。ここから急な山道を登ると最近売り出し中の岐阜のグランドキャニオンとかいう遠見山に着く。何とかの何とかは本物よりスケールは小さい。そうか、これがグランドキャニオンか、と見る。

https://www.tokai-tv.com/.../feature/article_20211229_14600

 後は結構長い尾根をアップダウンしながら山頂を目指した。2時間ほどのアルバイトで軽く汗を流した。山頂は大人気の山らしく人だかりだった。リーダーはちょっと下った辺りのテーブルを陣取ってあんまん、肉まんを本格的な蒸し器で蒸して参加者14名にふるまった。リーダーの母親の差入らしい。ありがたい。
 下山は大牧谷川にとった。ここも急な傾斜が続き、崖がありチャートの露頭の上をクライミングの要領で下る。油断のならないルートである。
かなり下ると登山道も土が出てきて安定してきた。傾斜も緩むと長い林道の終点である392mポイントであった。そこからは酒蔵のPまで地道を歩く。
 酒蔵では疲れた足を休めるためと称して、「飲む点滴」のヨーグルト入り甘酒を飲んだ。汗をかいた体には冷たくて美味しかった。店内の土産物コーナーでは新酒も売っていた。もうそんな時期になったのだ。店の人に杉玉は?と尋ねると今週中にも飾るとのことだった。

https://www.sawanotsuru.co.jp/.../knowledge/sugi-dama/

 外に出ると空中に白い浮遊物が飛んでいる。「雪虫」だ。冬の季語にもあるこれが飛ぶとしばらくで降雪があるという。そうかもう12月だ。東濃にも雪が来る兆しである。
 大展望がウリの山頂から冠雪した白山、御嶽山、中アなどは見れなかったが山里の冬の風物詩を見て満足した。

東濃・笠置山を歩く2021年04月18日

 珍しく入会見学者1名、何年ぶりかで復会した会員、何ヶ月ぶりかで同行する会員ら7名の会山行になった。それで、名古屋駅前のジャパレンで、トヨタの誇る7人乗りミニヴァン・ヴェルファイアをレンタルした。朝6時45分に集合。乗る前、休憩後も車内の消毒液でシュシュとやり、マスク着用も忘れず励行。
  気圧配置が不安定な1日だった。名古屋市は晴れ、登山口の恵那市笠置姫栗は曇りだった。小雨模様を心配し、山腹にある一段高い登山口にクルマで移動した。
 林道の周囲は新芽が吹き出したばかりの若々しい緑が美しい。二つ目の登山口も雨で、最初から雨具の上着を着た。登山道は階段で整備してある。頂上手前で林道を横切るとすぐに山頂だ。手前からは霰が降り、直下からは雪になった。寒いはずである。
 俳句では、晩春の季節感を表現し、雪の果て、名残雪、忘れ雪、終い雪などと季語になっている。麓なら忘れ霜だろう。
 ガスに包まれて展望はない。有名なヒカリゴケを見に岩を下り、見学、確かに、ビロードのような淡い光が見える。
 まだまだ降って来るので、早々に下山した。時間はたっぷりあるので、恵那駅前の五平餅屋に行く。次々お客さんが来るので、店外で待った。店内に招かれ、熱いお茶が嬉しい。胡桃の香ばしい匂いに食欲を促され、あっと言う間に五本を平らげた。
 まだ時間があるので、清内路峠を越えて、ハナモモ街道をドライブした。ヴェルファイアの登攀力は素晴らしく加速する。峠を越えると、エンジンブレーキの操作が分からず、一旦停止して、操作を確認。DからMに入れて、前後するとエンブレが効くことを確認。楽しいドライブになった。
 かつて、漂泊の俳人・山頭火が越えて、伊那の支持者へと旅した古い街道である。「分けっても分け行っても青い山」が有名な句。園原インターから帰った。ジャパレンへ返す前に給油したが燃費も良かった。こみこみで4000円だったから割安に上がった。帰りは有志で居酒屋で一杯と、マイカーよりは物入りだが偶には良い。

東濃・田代山を歩く2021年02月07日

 笹平登山口から黒の田湿地を経由して田代山へ登った。フキノトウやフクジュソウにでも出会えないか、と思った。40年くらい前に一等三角点研究会に入り、一等からしらみつぶしに登り始めた。
 屏風山は初期に登った。あの頃は地図からは分からず、ガイドブックと同志の情報交換が頼りだった。だから入会する理由があったわけだが、今では全国の一覧がネットで知ることができる。それでもマニアックな山は研究会の情報が貴重である。黒の田湿地も初めてではないと思うがもう歩いた記憶はない。先日の雪が少しだけあり、春は未だしの感がある。フキノトウすら会えなかった。
 田代山へは湿地から良い道が上がっている。旧牧場からくる道との合流地点前はやや不明瞭である。田代山の南西のコブは約829mあり、これを越えて登り返すと山頂だ。
 田代山は古い記録では819mであるが今は820.0mになった。3等三角点が埋まるが樹林の中で展望は皆無である。
 帰路は合流地点まで戻り、直進すると田代山高原牧場の廃墟へ下ってゆく。途中に牛の水飲み場跡があった。さらに下ると左へ電波塔への舗装路に出会う。電波塔へは行かず、そのまま下ると右手に牛舎の廃墟があった。廃墟の裏の819mのコブへは踏み跡がある。猪の罠が仕掛けてあるところで終点。そこから植林の中の尾根を辿るが、踏み跡はない。GPSで確認しながら下ると荒れているが深い踏み跡が出て来た。古い杣道だろう。尾根を忠実にたどる。地形が複雑で行きつ戻りして688mの4等三角点(笹平)を確認して、道の無い尾根を下って笹平の山里に出た。読図力がためされる。GPSが必須だった。
 笹平は中山間地域で圃場整理が行き届いた美しい山里だった。Pへ戻る際に媼に挨拶した。94歳というから亡母と同じだ。母は若くして死んだが存命なこんな風に生きているんだろう。孤絶された山里で一人生きることはできまい。嫁が気を使って声をかけてくれるという。言葉はしっかりしており、世の中のことも見ている。
 狭いたんぼを圃場整理されたはいいが、田植え機、耕運機など機械の購入と修理代が大変かさむと嘆く。年金をつぎ込んでいるんだともいう。今の農業は農協の管理下にあり、イネも苗で買うし、種も買うのである。昭和30年代の私の実家ではトウモロコシやなすびの種をいつも保存していたものだった。その上に肥料や機械類もみなカネがかかるのだ。嘆かわしい話を打ち切ってPへ戻った。
 時間が早かったので恵那駅前の「あまから本店」に行き、だんごタイプの五平餅を食べに行った。検索すると恵那市は多数の店がヒットするので山へ行くたびに食べ比べしてみたい。特徴は三河のわらじ形の味噌だれではなく、だんご形で醤油ベースのクルミだれである。クルミのコクとゴマの風味がうまい一品だった。店内で食していると次々に客が来て10本、20本と買っていく。たかがご飯をだんごにして串に刺し、炭火で焼いただけなのに愛されているんだと思った。瑞浪市他にも支店をだすほどの繁盛ぶりである。

古城山捜索行②2020年11月14日

 11/3の山行後に地元の集団での捜索に参加、青波の林道から比較的手前の尾根を捜索した。11/8は自主的な捜索行でやはり青波から破線路の登山道を歩いて山頂直下の登山道に着いた。その後は曲輪群のある北西の尾根を下降して捜索した。ごみはいくつか発見して、実弟に不明の兄のものか問うも違うだろうと否定。
 本日も自主的に捜索してきました。今度ははじかみ林道の登山口から登り、メインルートに到達後は南西に歩き、伝「馬場」を経て、堀切に下る。ここからは確かに松の木が多い。期待半ばで踏み跡程度の道を320mのコブを越える。しかし松の木は手前の鞍部までだった。ここルートは赤テープや道標の残骸まであったから古い登山道だったのだろう。杉坂峠はどこかは知らないが、地形的には292mの鞍部だろう。
 320mのコブからは桧の植林が優勢になる。それで青波最奥の谷へ下った。踏み跡はないので照葉樹林の灌木の藪を避けながら下る。最初は水がないが出てくると少し段差や岩場も出てきて悪くなるので右に巻いた。すると等高線が緩んで平地に見えるのは廃田だろう。登山道はないので獣道みたいな跡をたどって林道の分岐に着いた。
 林道を歩いて標高170辺りから11/8に下降した尾根の踏み跡を探して登り返す。ここから370mのメインルートまで比高200mを登った。実際には少し手前で曲輪群の中を歩いた。下の方まで段々畑のように曲輪が見えた。メインルートにもっとも近づいたところで上がる。はじかみ林道への分岐はすぐだった。
 今日も何も得られなかった。獲物を追う猟師山を見ず、というように茸採り、山菜採りも自分が戻ることを想定せずに歩き回るから道迷いは必然ともいえる。それによく出る場所は親子でも言わないからどこへ行ったやらと思うばかりである。

古城山捜索行2020年11月08日

 出発は遅くなり朝9時。古城山の北麓の青波には10時50分。11/3には捜索本部のテントがあったゲートボール場に駐車して11時丁度に歩き出す。目的は87歳のきのこ採りの老人の捜索である。とはいえ、10/25に入山、その日に下山せず、息子さんが自力で10/31まで捜索したが、11/1に県警に捜索願を出して大掛かりな捜索が行われた。
 11/2は雨で警察だけで捜索したらしい。11/3に私が古城山を下山後に青波に回り、ボランティアで参加、警察10人地元民40人で行われたが手がかりなし。そこで公的な捜索は打ち切りになった。
 人生は自助、共助、公助の順だが、山岳遭難は逆で、まず警察に捜索願いを出すことに始まる。そのためにはルートなどを書いた入山届、登山届けが必須だが、山菜採り、きのこ採りには喧しく指導されない。この人もまつたけのよく獲れる自分の知っている場所へ行ったのだろう。勝手知ったる裏山だから本人以外に居場所は分からない。
 赤の他人だからほうっておいても良い。しかし、捜索後の解散のあいさつできのこ採りの長男氏(61歳)の涙ながらの話は身につまされる。ご遺体が発見されないと死亡届も出せず、相続も始まらない。長いこと山歩きをしてきた身には何とか本人の捨てたゴミでも落ちてやしないかと来てみた次第である。
 まずは地形図にある破線路を歩いてみた。分岐までは17分、ここで熊鈴が良く鳴るように位置を変えた。先回来たところからさらに奥まで車道の廃道が伸びていた。終点からも踏み跡程度の道が続く。廃田も残る。こちらの方が歴史的には古いのだ。
 登山道の稜線が見える。風が騒ぎ、木立が揺れると、はて、熊か、野猿かとどきっとする。単独は心細い。源流部には廃墟があったが曲輪(郭)だ。正しく古城である。稜線には12時ジャスト。標高360m。ゲートボール場(100m)から比高260mだから大したことはない。
 目的は伝「馬場」から西の日当たりの良い稜線か尾根を探る予定だったが、370mのコブからの北西尾根も気になる。北の直下にはきれいな道が見えるので注意して見ていると踏み跡が下っていく。よしここだと降りてみたら連続した曲輪の平地がここまで延びていた。どんどん下ると、がさごそと音が摺るので見上げると人だった。やれやれ。この人も捜索だった。Kさんという。
 付かず離れずで交互に捜索を続けた。この尾根は松が大変多い。日当たりも良いのでまつたけが出そうだ。そして飴を包んだゴミを発見。末端までに3枚撮影。加えてバナナの皮を入れた紙袋もあった。これがきのこ採りの老人のものなら一帯を集中捜索することになる。
 結局末端まで一緒に下ったがゴミ以外はなかった。Kさんは南へ林道を行き、馬場へ戻ってはじかみ林道の駐車場へ行くというので別れた。青波に戻って、老人の自宅を尋ねてみた。丁度実の弟さんが畑仕事の最中で話を聞いてみた。
1 行方不明の兄は独居ということ。妻は施設に入居。つまり兄の自宅は今は留守。
2 11/3のあいさつされた長男は名古屋市に住んでいること。
3 入山経路は青波ではなく、はじかみ林道の登山道からということ。
4 弟さん自身もまつたけのよく出る場所は分かっているので後日行くという。
5 北西尾根のゴミは兄のものじゃないということ。
6 近年は山に入る人が居ないのでよく知った人も居ないという。
 その他立ち話であるが、長々と世間話をして別れた。87歳の老人が長男と同居ではないことがちょっとショックだった。4月以降の外出禁止、面談禁止などで6月頃の兄はおかしかったとも言われた。他人と一切話をしないとそりゃおかしくなる。
 私が4月以降道迷い事故(山菜、きのこ採りを含む)の報道を集めてきたが、高齢者が多かったことは確かである。中には山の精通者もいるから精神的に参っていたのだろう。
 古城山の捜索は今は縁のある人らの自助と何も関係はないが心ある人の共助だけになった。もう一回だけ、山やとして気になる場所を探ってみたい。それまでに発見されることを願う。

老いの身で行方の知れぬ茸採り 拙作2020年11月04日

 昨日11/3は10/25に勝手知ったる山の松茸採りに行ったまま帰らざる人の捜索に協力した。山城の廃墟、奥山田も廃田となり杉が植えられた。小さな山なのですぐに発見されるだろうとの楽観は打ち消された。
 この山に精通しているはずなのだが山は広く深く、人の知らない部分はあるということだ。家族を残して忽然と消えた老人の足跡は分かっているのにつかめなかった。昔から獲物を追う猟師山を見ず、という。知っているようで知らないのが精通者というものである。
 父不見山という山名がある。由来は
http://www7a.biglobe.ne.jp/~n-baba/s-tetemiezuyama.html
にある。
「それにしても不思議な山名である。父不見と書いて「ててみず」「ててみえじ(ず)」「ててめーじ」等呼ぶ。この山にはいくつかの伝説がある。何れも、「父が見えない」と云う山名に由来する物語である。
 
  (1)昔、中平の寺僧が子供を捨てて逃げ、後を追った子供がこの山
    で父を見失った。(埼玉大百科事典    埼玉新聞社)
  (2)神流川を挟んで北側の桐ノ城にすむ武将の妻子が、戦いに出か
    けた父をいつ帰るのかと眺めていた方向にあった山である。 
              (群馬県百科事典 上毛新聞社)
  (3)平将門が戦死し、その子がまだ見ぬ父を慕って嘆いたと云う伝
    説による。(角川日本地名大辞典)」
 昔から猟師、茸採り、鉱山師など山に入った人は多かったから下山できない人も多かったであろう。マタギ、木地師、木こりなどは短期間でも場所を定めるから余程のことがないと帰れないことはなさそうだ。

美濃でフルセット・古城山周回・捜索協力・温泉・関市で鰻を食う2020年11月03日

 朝7時20分出発。名二環・植田から一宮へ、美濃JCTから関・広見まで高速。R418から登山口まで国道、地道で順調に着く。スマホのナビを使っても分かりにくい。明智光秀のドラマの影響で脚光を浴びたにしては案内が今一である。
 9時20分新設されたPを出発。山城研究のグループがたむろ、受付したり、今日は大勢が登るらしい。正規の登山道を行くとすぐ1人になった。登山道はよく整備されて歩きやすい。
 植生は植林である。その中に暖地性のシダ類が繁茂している。照葉樹林の艶々した緑の葉が美しい。落葉樹はなく、紅葉、黄葉は見られず。登ると30分で小休止。2ヶ月ぶりだから心肺も足も相当弱っている。
 尾根に出ると風があり涼しい。今日は木綿のシャツだが少し汗をかいたからひんやりする。高い山だと寒く感じるだろう。上から登山者の声が聞こえてくる。山頂は近いのだろう。登山口で110m、山頂で407mだから正味300mしかないから60分程度である。
 傾斜が立ってきたらまた尾根に出て二股に分かれた。馬場の地名があり、馬を馴らしたというが、馬場が山に多い。猿ヶ馬場山、川上岳の点名は兎番場(馬場)、山中山の旧称はオサンババと呼んでいたが、兎番場らしい。つまり山頂が馬の背のように丸く広いイメージである。こんな急峻な山で馬を馴らすなんて歴史の捏造です。
 そうこうするうちに頂上に着いた。最後はフィックスロープの助けで急な岩場の道をよじ登ると山頂直下のミニ広場に着いた。その先にミニのお城が建っている。またこんなものを。やりすぎである。
 城を経て登頂。三角点はあるが展望は限られる。少し休んで下山。はじかみ林道経由で下った。ここもずっと急でフィックスロープが張ってある。8/22も転落事故があり、カメラマンが落ちて背骨を骨折した事故があった。
 林道の登山口には多数の車が駐車。ここから30分なので登山をしない人はここから歩くのだろう。係りの人が何やらパンフを売っていた。その人に11/2報道された87歳の老人の行方不明事件を聞くとまだ見つからず今日も捜索中という。
 マイカーのPまでは徒歩で下ってもまだ12時前。途中で行方不明の現場へ行ってみる。パン1つをかじって昼食。現地では捜索隊を編成し、本格的なテントを張って本部を置いて範囲を検討中だった。私もボランティアを申し出て地元の人らと歩き出す。12時半。
 地形図で破線路のある一帯を調べていた。昔はここから登られたらしい。今は杉の植林だが、古い田んぼの跡がある。居宅もあったらしい。87歳の老人はこの山一帯で採れるまったけの権利を買ったとかいう。いわば精通者であった。それがどうしたものか。
 まったけは松の生える尾根に出るので適当に尾根を登った。確かに少ないが松が続く。しかし87歳の老人の足にはきつい気がする。それじゃどこへいったやら。別方向から捜索してきた人らと合流して藪の少ない斜面を下って元へ戻った。2時半になっていた。2時間の捜索であった。3時ちょうど本部まで戻り解散。息子さんらしい人が涙ながらに捜索へのお礼を述べられた。
 10/25に入山したが、行方不明となった。10/26から11/1に届けるまでは自力で捜したようだ。11/1に捜索願が出て警察が動き、今日で3日目で公的な捜索は終了した。後は親族とボランティアで捜すことになる。時間の経過でもう存命の望みはないが、ご遺体がないと相続もできない。
 解散後は、武芸川温泉に入浴。祝日は800円だった。その後まだ時間があるので関市のうなぎ屋に寄った。5時過ぎから営業するが、店は1卓を除いて満席だった。人気の店みたい。上丼を注文したが御飯が多かったから鰻が少なく感じた。久々に食ったから旨い。
 今日はフルセットで遊んでしまった。まあ偶には良い。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の山を歩く2019年12月17日

 NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は主演女優の沢尻エリカのスキャンダルで一気に注目を浴びてしまいました。TVドラマは見ないのですが戦国時代の伏兵とも言える明智光秀には少なからず関心はあります。
 今年3月には滋賀県の明智家の菩提寺・西教寺の墓と日吉神社、坂本へバスツアーに行って来たばかりです。そこでも「麒麟がくる」の幟がはためきムードを盛り上げていました。

① さて、明智さんの出生地の岐阜県では?と調べるとあちこちでNHK大河ドラマに乗っていました。明智光秀ゆかりの地としてピックアップすると。
 HP「まいまいあけち」から
明智光秀

本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。
諸説ありますが、ここ明智町も光秀公生誕の地と言い伝えがあります。
町の南側に位置する小高い丘、千畳敷には光秀公産湯の井戸と伝わるものが現在も残っています。
また、明知遠山家の菩提寺の龍護寺には、光秀公のお墓とされる供養塔があります。光秀公に関する碑はその悲痛な想いからことごとく割れるといった通説の通り、供養塔とされる碑にも斜めに大きくひび割れが入っています。
他にも、光秀公が幼少期に学問を学んだと伝わる天神神社、光秀公が柿本人麻呂を祀り建立したとされる人麻呂神社と光秀公手植えの楓、光秀公の母お牧の方のお墓があります。

1明知城址(白鷹城址)

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。
交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。
市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。
 
・四等三角点494.6mの点名は千畳敷公園です。

・これだけでは物足りない場合は2等三角点732.1mの大泉村があります。明智町杉野には4等三角点の大平720.1mがあります。

②明智光秀の出生地を標榜するのは明智町ばかりではなかった。何と可児市にもあった。
 HP「可児市の乱」には
 土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

 と紹介されている。

 名鉄広見線には明智駅もあり本気度は高そうです。 岐阜県可児市瀬田1238−3の住所をチエックすると、175.2mの3等三角点羽崎があった。しかも住宅団地に隣接するので興趣はなさそう。最寄の山は御嵩町の290mの八王子山がある。

③またまた意外なゆかりの地は瑞浪市も名乗りをあげています。

 明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。
 一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
 なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
 古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

 どの説明にも「明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ」の枕が冠せられている。直接関係はなさそうだ。

 念のため、一日市場館をチエックすると4等三角点174.0mがあり、点名もずばり、一日市場でした。行って見て無駄ではないです。他には食指をそそる山はない。

④最後は山県市の桔梗塚です。ここは2度ならぬ3度はお邪魔しました。山県市のHPはこんな紹介です。

 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の前半生は謎に包まれており、岐阜県内各地にゆかりの地とされるところが数多くあります。山県市もそのひとつで、明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将でもあり、その縁から光秀の母が身ごもった際に祈ったという「行徳岩」、明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」があります。

 また市内にはほかにも、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)跡」が現存する古城山(山県市大桑)や土岐氏ゆかりの史跡が多く現存しています。ぜひ、歴史を感じるまちをめぐってみてはどうでしょうか。

うぶ湯の井戸跡と行徳岩(ぎょうとくいわ)
 明智光秀の生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

桔梗塚
 白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。

 小和田哲男氏が来市されたと

 11月14日、小和田哲男静岡大学名誉教授が来市され、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)」跡が現存する古城山(山県市大桑)と土岐氏支流の武将の一人である明智光秀の伝承地などを訪れました。実際に古城山を登山し、尾根と尾根の斜面を平らにならして造られた曲輪(くるわ)や主郭部や竪堀などの遺構、当時の様子を感じられる大桑地区を山頂から眺望いただきました。

 小和田名誉教授は、大河ドラマなどの数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当。戦国武将などの史実に照らし合わせ、現代の世を生き抜くヒントを分かりやすい言葉で伝えるなど、戦国時代史の第一人者のひとりです。

 岐阜市と山県市の文化財担当者から説明を受けた小和田名誉教授からは、「戦国時代に権力を持っていた土岐氏の拠点である大桑城跡をようやく見ることができた。当時のまま、壊れることなく遺っているところも見られて貴重な体験ができました。」と述べられました。
以上

 4箇所ある中では4番目の古城山407.4mが一番登り甲斐もあるようです。既登ですが改めて登りたい気になります。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。