吉田悦之『宣長にまねぶー志を貫徹する生き方』を読む2021年06月25日

致知出版社。平成29年刊。

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「35年もの歳月をかけ、『古事記伝』44巻を著した知の巨人・本居宣長。幻の書を千年の眠りから目覚めさせた学問的功績は広く知られていますが、本書では、宣長を一人の生活人としても捉え、志を成し遂げるための条件を学びます。
著者は宣長研究40年、本居宣長記念館館長を務める吉田悦之氏。「宣長に学ぶことは尽きることがない」という氏が、膨大な研究資料を丹念に読み込み、その学問的姿勢や、昼間は医師として生計を立てた生活姿勢を浮き彫りにします。
生まれた地や系図を徹底的に調べ上げ、自分の誕生の日まで遡って日記を書く。師・賀茂真淵との千載一遇のチャンスを逃さぬ情報分析など、その歩みには志を成し遂げるための強い意志や工夫が満ち溢れています。
学ぶとは真似ること。本書はその具体的ヒントを示して余りあります。宣長入門としても最適の書。」

 6/19に三度、松坂城址の本居宣長記念館を訪ねた。1度目の見学は12歳のころ、母親に連れられて、まだ街中にあった頃だった。鈴の屋の鈴を振った記憶がある。二度目は奥つ城を訪ねた時に帰路、立ち寄ったと思う。宣長には先祖伝来の墓地の墓と自分が遺言で作らせた奥つ城の2か所ある。三度目が6/19に企画展「もののあはれ」で学芸員による展示物の説明会があるという記事をWEB伊勢新聞で読んで知った。
 あいにく雨の伊勢路ドライブになった。来館者は約10名はいただろう。うち女性は1名だった。過去に来た際、館内を一応は見て回った。だが予備知識や説明もないから見に来ただけで終わった。未消化のままである。今日は学芸員の説明があるという。11時から12時きっかりで早口で展示物の説明を聞き終わった。
 本書はその余韻が買わせたのである。「宣長に関心を持つ人は、間違いなく一流の人である。」と宣長学の泰斗・岩田隆の言葉があとがきに引用されている。

 宣長に関心を持つ人はみな一流である。だが時に全く逆の者の口を借りその真実を伝えることもある。歴史というものは不思議である。

「必ず人を以て言を捨つることなかれ。文章書き様は甚だ乱りなり・・これまた言を以て人を捨つることなからん事を仰ぐ」

・・・書いたもので評価してくれという。
https://aokmas.exblog.jp/9751844/
「宣長の言葉・その意味
9・20
 本居宣長が、自著の『紫文要領』の後書きで、、この著作について、こんなことをいっている。

 年頃、丸が心に思ひ寄りて、此の物語を繰り返し心ひそめて読みつつ考へ出せる所にして、全く師伝の趣にあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也。見む人怪しむ事なかれ。よくよく心をつけて物語の本意をあぢわひ、此の草子と引き合せ考へて、丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ。かつ文章書きざまはなはだ乱り也。草稿なる故に省みざる故なり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を捨つることなからんことを仰ぐ。

 独自に心を潜めて読みこむ者の言葉になっている。けれども、いってみれば、言い訳めいていて、余計なことなのだ。その弱さがこっちに共鳴してくるのは、せつない。「師伝の趣にあらず、諸抄の説と雲泥の相違」を読みだしてしまう者は、自説の孤絶さにおどろき、つい心弱くなるのだろう。そしてこれを読む者もまた、「丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ」とつづく。書いた者の人柄で判断せず、書かれたものの是非で評価してくれ、と念をおしているのが、オカシイ。やはり昔もまた、人はなかなか「読む」ことをしなかったのである。代わりにその人の噂で、書かれたものを評価していたのだと納得する。

 宣長の論敵、上田秋成は、自分の著作は自分でも杜撰だと思うし、もとより読む人は信ずるはずもないものだといって、だからもう私にバチが当たっているじゃないか、とサインしている。これもまた、ひねりのきいた言い訳だから、こういう自己弁護は、孤独な自立者にとっても、不可避なのだろう。

 大野晋は「私のような名もない人間が言ったからとて、この言葉を捨てないでほしい」と読みとっている。つまり人柄や名声ではなく、書かれたことの是非で評価してほしい、と正しく理解しているにもかかわらず、宣長の学問のリアリテイを、彼の隠れた恋愛体験を掘り起こして、そこで動機づけをしているのは、不審だ。他人から見て、どんなつまらないことでも、動機づけになりうるからである。ましてもっともらしい動機づけほど怪しいものはない。動機は作品そのものに換えることはできないし。理解にもならない。

 やはり書物は書かれたことのリアリテイしか、その価値を保証しない、著者をめぐる噂は、どこまでも作品のナマの言葉にかなわない。つまり宣長のいうとおり、「繰り返し心をひそめて読みつつ、考え出だせる所」しか信ずべきものはない。

 宣長が源氏「物語」も「歌」とおなじく、「歌ノ本体、政治ヲタスクルタメニモアラズ、身ヲオサムル為ニモアラズ、タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ」といって、文学のような自己表現の本質論を展開したことはよくしられている。

 だが、その「心に思ふ事をいふ」というのは、なんのことなのか。「コレガ歌ノ本然ノヲノヅカラアラハルル所也。スベテ好色ノ事ホド人情ノフカキモノハナキ也」 として「心に思う事」を、恋心・好色に限定したことが、今日まで深い禍根を残している。性的な自意識に限定してしまったのだ。近代個人主義なのである。
 「心に思う事」の普遍的な根は、自分自身の意識をこえたところにある。狭い自意識をはるかに越えた類的なものなのだ。恋心の本源は、男女の恋愛といった、個体間の性的な意識像という近代の共同観念を越えている。なのに、心も歌・物語も、そして『源氏物語』じたいも、近代主義の狭い恋愛観念に閉じこめられてしまった。

 「千人万人ミナ欲スルトコロナルユヘニ、コヒノ歌ハ多キ也」と宣長はいう。政治や道徳よりも好色が「人情」だったからだというのだが、そうではない。「心ニ思フ事をイフヨリ外ナシ」というのは、人類の実存であり、ただたんに歌や物語のことではない。人類史とともに根底的なのだ。人心はすべて自己表出であり、我らは原始・アジア的な、母界幻想をもって「千人万人ミナ欲スルトコロ」としてきた。だからそれが後の時代からみると、恋心の表現のように観念されてきただけなのだ。「恋の歌」には、自己表現すべてがこめられていた。政治や道徳といった観念は、国家やその自己意識ととも古代以後に現れたのだから、それより古くからある心や歌は恋の歌が多い、というだけなのだ。

 だから「恋の歌」というのは、今日いうところの個人どうしの性的な意識をさすのではない。もっと深く広い、【自己】意識以前の自己の表現だった。安息する場に溶けている心や自分、を表していた。「ふるさとになりにし奈良の都にも 色はかはらず花は咲きけり」。人はいざ知らず、花は古里に安息して色も変わらずに咲いている。いま人にとって古里となったところは、花にとって古里ではないことが感じとられている。つまり自分が生きてある場、【母界】そのものなのだ。生命場の像。

 「恋」、「好色」「色欲」などの限定された漢語観念で、性的な「人情」を指そうとすれば、このような前自己の、場に生きる心を意味するところへいきつく。そこでまさしく「歌ハオモフ事ヲ程ヨクイヒ出る物也」になる。そこではじめて「程ヨクイヒ出た」とおもえるものになるのだ。

 「我心ニモ心ハ制シガタキハ世の常なり。されば克己トイフコト昔ヨリナリガタキ事也」という宣長の指摘は、自己意識の土台には、深い心・「母界」像があり、それはとうてい限られた観念的な自己意識で抑止したりできるはずのない、根底的な類的自己なのだという根拠からきている。
「千人万人ミナ欲スルトコロ」は、自己意識や自己抑制をこえた、【母界】にある。そこで花は色も変わらずに咲くことができる。」

特別展「壬申の乱」を見学・・・岐阜市歴史博物館2021年04月28日

 壬申の乱は、天武天皇元年(672)に天智天皇(626~672)の皇子・大友皇子(648~672)に対し、天智の弟で大友の叔父にあたる大海人皇子(?~686)が兵を挙げた、日本の古代史上最大の戦乱と言われています。
 美濃国を拠点とし、この戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇となり、律令制度の整備や中央集権化を推し進めました。
 本展では、考古・歴史資料などから壬申の乱の経緯をたどるとともに、天武天皇のもとで戦った美濃国の豪族たちや、律令制度が整備されていく中での美濃国の様子にも迫ります。

ビデオを視聴
壬申の乱と東海地域
講師/元岐阜大学教授 早川万年さん
開催日時/4月24日(土)14:00~15:30

・・・というわけで、小雨の中午前中は地道を走ったのですが、意外に車が多くて難儀した。
 歴史は文物で過去を知るものとばかり思っていた頭には割れた皿などの展示品は意外にも発掘物が多くとまどいました。まるで古代遺跡の展示かと思った。
 ざっと見た感想では、女性が天皇の地位にあることはその時代は決して幸福な平和な時代ではないな、と思った。本郷和人『乱と変の日本史』によると、乱は戦争に次いで大きな闘いであり、国全体を揺るがすような大きな闘いを「乱」とし、影響が限定的で規模の小さな戦いを「変」と定義づけています。ただ本郷さんは中世に絞ったので壬申の乱は取り上げていません。
 地政学的な観点では岐阜県美濃の木曽川右岸が歴史の舞台になったのは、古代の伊勢湾の俯瞰図が証明しています。清須市と一宮市は島であり、後は海の底だった。木曽川は犬山辺りからは伊勢湾に流れ込むイメージでした。各務原アルプスの固い地層で木曽川の流れが南へ誘導されて、岐阜で長良川を合わせ、今の大垣市以南は揖斐川と長良木曽の氾濫で成立した沖積平野と思う。当然、古代の都市成立も木曽川右岸が中心になったわけである。

楊海栄『逆転の大中国史』~ユーラシアの視点から~を読む2021年04月09日

文春文庫。
著者は、ペンネームは中国名、 大野 旭(日本名)
生誕 オーノス・チョクト(モンゴル名)
 56歳というからまだ若い。

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 中華人民共和国「内モンゴル」で生まれ、北京で文化人類学を学んだ著者は、「漢民族」が世界の中心だという中華文明の価値観に、次第に違和感を覚える。
 日本に留学、梅棹忠夫氏に師事。ユーラシア草原を調査するうち、従来の常識とは全く違う、価値観の逆転した中国史が形成される。
 それは「中国四千年の歴史」という漢民族中心の一気通貫的な歴史観からの逆転である。ユーラシア草原に勃興した様々な民族こそが「中国史」の主役であり、漢人はそのなかのひとつに過ぎない。
 従来、日本人は「遊牧民族たちは、豊かな中華を強奪する野蛮人である」と教えられてきた。
 しかし、現代の中国人がほ文明をひらいた漢民族の子孫であるというのは、実は幻想なのだ、と筆者は説く。
 黄河に文明が花開いていたころ、北の草原にはまったく別個の独立した文明が存在した。北方の遊牧民と黄河の農耕民は対等の存在であり、漢人がシナを支配して「漢帝国」を称していた時代にすら、北方には別の国家が存在していた。漢人の国家が中国全土を支配していたことはなく、つねにいくつかの帝国が東ユーラシアに並立あるいは鼎立していた。その主役はスキタイ、匈奴、鮮卑、ウイグル、チベット、モンゴルといった周辺の遊牧民族である。
 我々が漢民族国家の代表、中国の代名詞と考える「唐」ですら、実は鮮卑の王朝である。いわゆる中華の文化が発展するのは、そうした周辺諸民族出身の王朝が世界に開かれた政策を取っていた時期であり、長城をめぐらし「壁の中に閉じこもる」のが習性の漢人によるものではないのだ。
 現在の中国人は、こうした真実の歴史を覆い隠し、自分たち「漢民族」が世界の支配者であったという幻想にしがみつき、周辺民族を弾圧する。今の中国を解くキーワードは「コンプレックス」だ。正しい中国史を正視しない限り、中国は歴史に復讐されるだろう。

・・・・目からうろこの史観でした。

 とはいえ、日本の国学者の本居宣長は『唐意』(からごころ)で江戸時代に指摘している。長谷川三千子『からごころ』も同じ。岡田英弘『世界史の誕生』も同じだった。

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 岡田英弘は
 なぜ歴史が必要なのか?ヘイドン・ホワイトは「なぜ、国家や社会共同体は、歴史を専門に研究する職人に税金を払うのか?」と疑問を呈した。
 中国(共産党)と韓国(旧両班)は、戦後たなぼた的に得た支配権を正当化するために、日本を悪者にしなければならなかった。政治の最終的勝者が、「歴史」を好き勝手に書く特権によって、「国民国家民族イデオロギー」扇動政治の形態を確立した。
 尖閣諸島の領有権で争っている最中に、中国政府が出した証拠「西太后の勅書」なるものを、著者らが偽作と見破ったことがある。満州語しか書けない西太后が漢文でしかも勅書を出すなど不可能だ、というわけだ。
 また、朝鮮民族文化と呼びうるものが成立するのは、新羅王国が半島南部を統一した7世紀後半以降で、日本の建国と同時期かそれ以降だった、にも関わらず韓国歴史家は、まだ成立していない朝鮮文化が日本文化の源流であり、帰化人(渡来人)=韓国人であるかのような歴史認識を主張している。
 岡田氏は、このような国家間・異文化間の史実認識(解釈)のギャップを憂い、後世覇権者の創作が入り込む余地のない史料文献を、共通認識議論の基礎にするような文献学に拘った。「国家間を越えた真実に到達するにはどうすれば良いのか」。
 これが歴史学における彼の不変の課題となった。一般読者は、古代ミステリーや英雄豪傑の武勇伝、江上波夫の北方騎馬民族征服説や司馬遼太郎の歴史ファンタジーに惹きつけられるが、彼は容赦なく切り捨てた。
 中略
 中国共産党は、「漢民族こそ炎帝と黄帝の子孫」という雅称を正当化させ、1950年以降、漢民族優生意識を植え付ける「民族識別工作」を進めている。
 新疆ウイグル自治区、チベット自治区に対する漢民族同化策や自然消滅政策は、仮想敵であるセム系ヘブライ族に対抗する政策の一環である。セム系ヘブライ族が、古代中国王朝(周、秦、漢)を植民地支配していたことが徐々に明らかになり始め、漢民族の優越性を貶めてしまうという危機感を持った中国共産党は、2016年に秦の始皇帝陵の発掘調査を今後30~50年間禁止すると発表した。
 『日本書紀』は司馬遷『史記』をユダヤ教的に天皇を神格化アレンジした借史であり、その日本古代天皇自身がセム系ヘブライ人、土着倭人は植民奴隷だった。
 「大和:Yamato」とは、ヘブル・アムル語の「ヤハウェの民:Ya-umato」が訛ったもので、ヤハウェとはユダヤ教における唯一絶対の神である。カタカナ、ひらがなは、ヘブル・アムル語をそのままあるいは変形した語で、まさに発音まで類似している。
 満州文字やモンゴル文字もヘブル・アムル語の変形である。高度な土木技術を持つ秦氏が渡来した時期に、大型古墳(天皇陵)が多数建立され内蔵物の調査が急がれるが、2010年宮内庁は、衆議院質問書の回答書で、896の陵墓(古墳)を封印し、一般学者による考古学調査を正式に禁止すると宣言した。
 明治維新時に『日本書紀』から創作した天皇史(単一日本民族の象徴)を守り続けなければならないからだ。宮内庁は、現在も明治維新の時に天皇を御守りすると誓った薩長なりあがり貴族の子孫によって構成されている。

司馬遼太郎『モンゴル紀行』の中のウイグル2021年03月08日

朝日文庫の街道をゆくシリーズの5巻目。
1972年9月の日中国交正常化で、モンゴルへの旅も正常化したのだろうか。大学ではモンゴル語を学んだという異色の作家ならではの紀行文である。
ウィキペディアには
「 旅のコース
新潟空港(新潟で1泊) → ハバロフスク(ヴォストークホテルで1泊) → イルクーツク(1泊) → ウランバートル(ウランバートルホテルで1泊) → 南ゴビ(数泊)
 少年のころから北方の非漢民族の興亡の歴史や広大なユーラシア大陸に広がる大草原、シルクロードなどに憧れとロマンを抱いていた司馬は文壇デビュー前に、『ペルシャの幻術師』や『戈壁の匈奴』(戈壁:ゴビはモンゴル語で「草の育ちの悪い砂礫地」の意)といった短編を書いていた。

 日本とモンゴルが国交を回復した翌年に、三十年来憧れてきた地に、「お伽の国にゆく感じ」で向かうことになった。

 同行者はみどり夫人、挿絵の須田剋太、司馬の恩師でありモンゴル語の権威の棈松源一。

 モンゴルでは案内役のツェベックマが登場する。なお司馬は後に『草原の記』(新潮社のち新潮文庫)で彼女の生涯を描いた。

 行きの飛行機で司馬が学徒出陣で戦車十九連隊にいたとき同じだった難波康訓に出会う(当時帝人輸出部長。イルクーツクで司馬一行の窮状を救うことになる)。」とあり、モンゴルとも国交を正常化したのだ。

 多岐にわたる紀行の中で「匈奴」の一節を読む。
・中国の周辺国家というのは、ことごとくといっていよいほど中華の風を慕い、中国文明を取り入れた。朝鮮とベトナムにおいてもっとも濃厚で、日本もその例外ではない。
 もっともひどいのは、東胡系(ツングース)の半農半牧の異民族で、かれらは五胡十六国の時代以来、中国内部に侵入して国を樹でることしばしばで、ときに金帝国のように強大なものも樹て、最後には清朝のようなものまでも作ったが、そのすべてが中国文明に同化し、その固有の俗をすてたばかりでなく民族そのものまでが大陸のるつぼの中で溶け果ててしまった。

・ところがモンゴル人のみが例外なのである。彼らは古来中国文明を全くと言っていいほどに受け付けず、むろん姓をつける真似もせず、また衣服その他風俗を変えず、言語の面でも多少の借用語があっても、その数は極めて少ない。彼らは大陸内部においてを元帝国をつくったが
、その時も中国文明を拒絶した。元帝国がほろぶと温暖の中国に愛着を持たず、さっさと集団で朔北の地に帰った。ふしぎな民族というほかない。

・が、モンゴル人から見れば、元来、農耕を卑しむために、特に元時代は農耕民である漢民族を賤奴のようにあつかった。むしろ商売をするウイグル人やイラン人あるいはアラビア人を漢民族より上等の民族として上の階層に置いた。

・・・ウイグル人も羊とともに移動する遊牧民であるが、乾燥地帯に位置するために草原が少なく、流砂のために川の流れも変わるという不毛地帯だった。モンゴル人は交易はなく、草原に生きることに知恵を絞ってきた。位置的に北と東はシベリア、南は中国なので通商の道は発達しなかった。今は大国のはざまで息をひそめて生きてるような印象である。ウイグル人は青い瞳の西欧系の人種であり、イスラム教であることからも漢民族とは合わないだろう。
 ため息が出るような中央アジアの現在と昔ではある。

山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

森喜朗氏の辞任を考えるーヤマトタケルと言挙げ2021年02月12日

 結局、森氏は「言挙げ」してしまったのだ。マスコミの切り取りはあったにせよ、スキがあったのだ。以下の文に見る如く、ヤマトタケルも相手を軽く見たわけではないのに、自分の思いを正直に言葉にしてしまった。それが「言挙げ」であり、感受性の強い女性の神経にさわるのである。そしてマイナスに働き、屈強の神様も足が三重(三重県の由来)に曲がってしまった。鈴鹿市で力尽き、「大和は国のまほろば・・・」と詠って亡くなった。実に恐ろしきものは言挙げである。他人の癇に障る言葉は厳に慎まなくては。

 ブログ「和人」から
https://www.wabito.jp/ibukiyama-siroinosisi/
【古事記】倭建命(やまとたけるのみこと)「伊吹山(いぶきやま)の白猪」

 倭建命(やまとたけるのみこと)は、尾張国(愛知県)の美夜受比売(みやずひめ)と結婚された後、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境にある山)の神を討ちに出かけますが、その時、御刀である草薙剣(くさなぎの剣)を、美夜受比売(みやずひめ)の元に置いて、「この山の神は、素手で倒してやる!」

といい、持たずに出発しました。そして、その山に登った時、山の麓(ふもと)で白い猪に遭遇しました。その大きさは牛ほどあります。

そこで、倭建命(やまとたけるのみこと)は、言挙(ことあげ)して「この白い猪に化けているのは、その神の使者だな。今殺さずとも帰る時に殺してやろう!」と言い、そのまま山を登って行きました。

*言挙:自分の意思をあらわにし宣言すること。古代では言挙しその内容が間違いであった時、効力を失い自分の力をも失うとされ、禁句とされていたようです。

 すると、突然激しい雹(ひょう)や雨が降って来て、倭建命(やまとたけるのみこと)はその雹と雨に打たれ意識を失ってしまいます。実は、その白い猪は神の使者ではなく、山の神そのものだったのです。

 しかし、倭建命(やまとたけるのみこと)は「山の神の使者」と言挙してしまったので、その怒りを買いこのようにして気を失わせたのでした。
倭建命(やまとたけるのみこと)は、意識が混濁(こんだく)する中、その山からなんとか帰り下り、玉倉部の清水(たまくらべにある泉:所在未詳(滋賀県坂田郡米原町の醒が井あるいは、岐阜県不破郡関ヶ原町玉とも言われています)に着き、休みになっていると少し意識が回復しました。それで、その清水を居寤清水(いさめのしみず)といいます。

 そして、そこから倭建命(やまとたけるのみこと)は出発し、当芸野(たぎの:岐阜県養老町)の辺りに着いた時こう言いました。「私の心は、常に空を飛び翔けて行けると思っていた。しかし今は、私の足は歩くことも出来なくなり、たぎたぎしく(腫れてぼこぼこに)なってしまった」

 それで、この地を当芸(たぎ)といいます。

 そこから少し進むが、とても疲れ、なんとか杖をついてそろそろと歩きました。そこで、その地を杖衝坂(つえつきざか:三重県四日市市)といいます。
以下略

岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』を買う2021年02月04日

世界史の窓から「トルキスタン」
講談社学術文庫版
内容:
「ヨーロッパ、インド、中国、中東の文明圏の彼方で、生き抜いてきた遊牧民たちの領域が中央アジアである。絹と黄金を運んだ悠久の交易路シルクロード。多くの民族と文化の邂逅と衝突。アレクサンドロス大王とチンギス・ハーンの侵攻……。仏教・ゾロアスター教・マニ教・ネストリウス派そしてイスラムもこの地を経由した。中央アジアの雄大な歴史をコンパクトにまとめた入門書。(講談社学術文庫)


東西の文明交流の担い手=遊牧民族の3千年。東から絹を西から黄金を運んだシルクロード。世界の屋根に分断された東西トルキスタン。草原の遊牧民とオアシス農耕民との対立と共存を軸に、雄大な歴史を描く。」


アマゾンのコメントから
① 「この本が書かれたのは1977年だから、ソ連崩壊後の中央アジアの激動は反映されていないし、欧米列強進出後の中央アジアの近代史は駆け足で簡単に触れてある程度だが、古代から近世に至る部分は通史の概説書としてよくできている。
 中国史の一部として、あるいはシルクロードの東西交渉史として触れられることがほとんどの中央アジア史を、東西トルキスタンに焦点を当てて概説したものは少ないのではなかろうか。現在は東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンはカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、アフガニンスタンにほぼ該当する。
 東西を分けるものはチベットからつながるパミール高原の急峻な山岳地帯であるため、東西で歴史の経過が異なっている。
 点在するオアシス都市国家と草原を疾駆する騎馬遊牧民の歴史はまさしく「民族の興亡」というにふさわしく、繁栄と没落のダイナミックな展開に興味は尽きないが、著者は定住民と騎馬民族の攻防の局面よりも、交易による平和的共存の時代のほうが長かったという。
 ただ、中国の歴史書やチンギス・ハーンの遠征記、あるいは玄奘三蔵やマルコポーロの旅行記などの史料で埋まらない空白部分の存在があり、まだわからない部分が多いことも記されている。
 ソ連崩壊後の西トルキスタンの諸国家独立や近年の中国の一帯一路政策により中央アジアは政治的経済的に変貌を遂げつつある。近年の研究も踏まえた概説書が望まれるところである。

 原著はやや古いものだが、現代でも十分通用する質の高い内容である。」

以下は「世界史の窓」から
・・・ トルキスタンとは、イラン語で「トルコ人の地域」の意味で、中央アジアのパミール高原の東西に広がる広大な草原と砂漠地帯を言う。この地域をトルキスタンと言うようになったのは、ほぼ9世紀ごろにトルコ系民族のウイグルが定住生活を送るようになってからのことである。それ以前は、パミール高原の西のソグディアナを中心としたイラン系のソグド人がオアシスに定住しながら、東西交易に活躍していた。すでに6世紀にトルコ系の突厥が中国北部からこの地域を含め、西アジアに及ぶ大帝国を作ったが、彼らは遊牧生活を続けており、遊牧国家という性格を強く持っていた。

トルコ系民族の定住

 それに対して、もともとモンゴル高原にいたトルコ系ウイグル人の国家が、9世紀にキルギス人に滅ぼされて、その一部がタリム盆地のオアシス地帯に定住して西ウイグル王国を建ててから、この地域のトルコ化が進み、さらにトルコ系民族は西進して西アジア各地に広がっていった。これに押されて他のトルコ民族(カルルク人など)がパミール高原西部に移住するようになり、この地域もトルコ化が進んだ。
 先住民であるソグド人、サカ人、トハーラ人などのインドヨーロッパ語族のイラン系民族が、定住した支配者であるトルコ人の言語に同化されていった結果、この地はイラン語で“トルコ人の土地”を意味するトルキスタンと言われるようになった。トルキスタンは広大な範囲を指すが、パミール高原を中心にして、その東を東トルキスタン、西を西トルキスタンという。

コメント② 「中央アジアという地域はあまりなじみはないかもしれないが、東は中国、南はインド、西はギリシア、ペルシア、トルコ、北はロシア、モンゴルと接し、古代からさまざま文化、軍事勢力が群雄割拠し、カラフルな彩りを示してきた。世界史の縮図といってもよい密度の濃い歴史の舞台となってきた。

 本書は先史時代から現代に至るまで、この時代の歴史を誠実に描く。アレクサンドロス大王、感の武帝、チンギスハン、様々な英雄が織り成す活劇が展開され、あきることはない。

 この地域の歴史の入門書としては申し分ない。ただし、近年では特に現地の言語資料の解読や、歴史観、歴史理論の進展により、これらの地域の研究はさらに進歩が著しい。さらに研究を深めたいならば、杉山正明、岡田英弘といった名前や中央ユーラシアといったキーワードで最新の研究に進まれることを薦める。」

・・・世界史はモンゴルから始まったという岡田英弘の著作集は揃えてあるがいつ取り掛かれるやら。中央アジアすなわちイスラム社会は世界の中でもっとも分かりにくい地域である。
 中国、アメリカ、ロシアなどの大国が手を焼いて来た。今も中国がウイグル人をいじめているが、歴史的には中国は攻められていた側だろう。万里の長城も外敵から守るためだったが、自らを閉じ込める結果にもなった。
 この一帯は砂漠が広がる。最初から砂漠はあり得ないから、遊牧民の飼う羊により草も根っこから食うために砂漠化したのではないか。さらに煮炊きに使う木材もかつては森林があったと思われるが、伐採のみで植林しなかったから乾燥地帯になっていったのではないだろうか。この地域の自然史も知りたいものである。

長沢和俊『楼蘭王国』2021年02月03日

 1963年角川新書から加筆修正した1988年の徳間文庫版である。アマゾンにもレビューはなく取り付く島がない。本の内容をコピペすると
「内容説明
茫漠たる砂の海、白雪皚々の高原、七彩に輝く氷河や峡谷、それらを縫い、ラクダの白骨を目印にキャラバンが進んだシルク・ロード。1900年春、探検家ヘディンによって発見された楼蘭王国の王都クロライナは、かつてシルク・ロードの要衝として無類を繁栄を誇り、晋の西域進出とともに突如、廃墟と化したオアシスであった。夥しい装飾美術品、古文書等をもとに西域学の泰斗が神秘の国の全貌に迫る名著。

目次
序章 シルク・ロードのほとり
第1章 幻の古都を尋ねて
第2章 さまよえる湖
第3章 ローラン王国の繁栄
第4章 カローシュティー文書は語る
第5章 底辺に生きた人々
第6章 砂漠をおおう戦火
第7章 クロライナの夢のあと
第8章 東西文化の交流」
以上

 著者についてはウィキペディアからコピペすると
「略歴
1957年(昭和32年)、早稲田大学第二文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程を修了。東海大学講師、鹿児島短期大学教授を歴任する。
1966年(昭和41年)、シルクロード踏査隊の副隊長として、現地史跡を調査する。

・・・日中国交正常化は1972年のこと。当時は中国へは入国できないからパミール以西ということになった。
 この踏査隊は深田久弥(1903年~1971年、作家)、長沢和俊(1928年から2019年、学者)、鈴木重彦(1933年~2001年、日本山岳会東海支部)、藤原一晃(白水社)、朝日新聞が援助した関係で社会部高木正幸記者、カメラマンの関沢保治、朝日テレビの吉川尚郎の7名の自動車旅行であった。
 後に共著で『シルクロード 過去と現在』(白水社)を出版。パミール以西のシルクロードものの嚆矢だったと思われる。

1975年(昭和50年)、早稲田大学第一・第二文学部教授。
1980年(昭和55年)、『シルク・ロード史研究』にて、文学博士(早稲田大学)の学位を取得。定年後は早稲田大学名誉教授。就実女子大学教授に就任。
著書
『シルクロード 東西文化のかけ橋』 (校倉書房、1962年/校倉選書(増補版)、1979年)
『シルクロード』 講談社学術文庫、1993年 ISBN 4061590863。再訂版
『楼蘭王国』(角川新書、1963年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『敦煌』(筑摩書房(新書)、1964年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『チベット 極奥アジアの歴史と文化』 校倉書房、1964年
『ネパール探求紀行』角川新書、1964年
『日本の探検隊』早川書房(新書)、1966年
『シルクロード踏査記』 角川新書、1967年
『シルクロード遍歴』角川選書、1985年 増補版
『日本人の冒険と探検』(白水社、1975年、新装版1998年)
『パゴダの国へ ビルマ紀行』(NHKブックス、1977年)
『世界探検史』(白水社、1978年、新装版1996年/講談社学術文庫、2017年)
『シルクロードの終着駅 正倉院への道』(講談社現代新書、1979年)
『シルクロード史研究』国書刊行会、1979年
『東西文化の交流 新シルクロード論』白水社、1979年、新版1986年
『探検学 未知の世界に挑んだ男たちの記録』大陸書房、1980年
『シルクロード 歴史と文化』角川選書、1983年
『シルクロード文化史』全3巻、白水社、1983年
『シルクロード踏査行』くもん出版、1983年
『西安からカシュガルへ』旺文社文庫、1986年
『シルクロード博物誌』青土社、1987年
『シルクロードの旅人』徳間文庫、1988年
『海のシルクロード史 四千年の東西交易』中公新書、1989年
『楼蘭古城にたたずんで』朝日新聞社、1989年
『楼蘭王国史の研究』雄山閣出版 1996年 ISBN 4639013477
『シルクロード波瀾万丈』 新潮社 2000年 ISBN 9784104341016
『遥かなるシルクロード スケッチガイド 北京からイスタンブールまで』里文出版、2000年。画文集
共編著
『シルクロード 過去と現在』深田久弥共著、白水社、1968年
以下略
・・・以上のデータからほぼ生涯をシルクロード探求に掛けた学者だった。

シルクロードに思うこと2021年02月02日

 シルクロードは世界史の誕生でできた古道ということ。岡田英弘『世界史の誕生』のアマゾンのレビューに寄せられたコメントが簡明で要を得た内容なので引用させてもらうと

 「「西洋史」「東洋史」の2つの世界を同時に学ぶのが高校の「世界史」だったが、独立した関連性のない(ように見える)2つの世界について学ぶのは、正直なところ苦痛だった。
 しかし、中国を舞台にした歴史小説、あるいはローマ帝国を舞台にした塩野七生の小説を読むと、日本史にはないダイナミズムに満ちていて、実に面白い。世界史で学んだことのつまらなさとのギャップはいったいどこから来るのだろうという、どこか納得しきれない部分はずっとあった。

 岡田氏の論考は、この2つの世界を縦糸とするなら、遊牧民という横糸が合わさることで、世界史という1つの布を織りなしていることを証明するものである。「東洋史」を貫く思想が中華思想であり、「西洋史」を貫くのがローマ帝国やキリスト教を柱にする地中海(優越思想と言っても良い)史観だが、そこでは遊牧民の存在は矮小化、あるいは悪役視されている。
 しかし、大興安嶺からモンゴル高原、さらに中央アジアに至る地域に住む遊牧民の活動こそが、実は東西の歴史に重要な影響を与えてきたのであり、それはモンゴル帝国の成立によりその過程が完成したという著者の論考は、知的刺激に満ちている。

 一方で、著者の説は歴史学界において、完全に異端視されている。なぜなら、著者は「中国」が優越するとする中華思想が、実は遊牧民に抑えつけられ続けた中国人による一種のファンタジーであることを容赦なく暴いている。
 さらに、欧州(特に東欧)世界が、ロシア史の言うようなタタールのくびきから抜け出した栄光あるものではなく、実はモンゴルの延長線でしかないことを、さまざまな歴史的事実を用いて説明している。
 これは、既存の東洋史・西洋史の学者には到底受け入れられないだろう。歴史研究は史書を基盤にするが、その史書がよって立つところの虚妄を暴かれては、学者の反発も無理からぬモノがある。

 とはいえ、文献の少ない遊牧民の歴史を丁寧に調べ上げることで著者が見せた全く新しい世界観は、実にわかりやすく、そして魅力的だ。歴史の見方が根本的に変わる本書は、ある意味怖い本でもあるが、多くの人に手にとって欲しい、そう思えてならない1冊である。」

・・・中央アジアは欧州大陸と中国大陸のはざまにある。ゆえに中央だが、中心ということではなかった。そこをモンゴル族が欧州へと騎馬民族らしい移動を続けたことで世界史がなった。
 レーニンはモンゴル人の血とユダヤ人の混血というのも世界的な規模で見るとモンゴル人の隆盛を見る思いがする。

 その上で、中央アジア探検史の目次だけを眺めても膨大な時間の流れにため息がでる。かつては陸地の移動しかできなかった時代の東西の交流の中で発展と衰退を繰り返して来た中央アジアを貫く古道である。登山家たちはそんな経路にそびえる天山を見逃さなかった。そこに何があるか行ってみたい、という極地でないが、文化的な極地への憧憬だろうか。いかにも作家・深田久弥らしい取り組みではある。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。