続 『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』の補遺2022年07月05日

6/20の続き
  尾鷲道を調べていたら今西錦司が戦前に縦走していたことをしった。それで記録の掲載された斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を取り寄せた。古書が届いたのでさっそくひもとくと、1922(大正11)年10月に3泊4日で登っていた。20歳の時だから京大生だった。京都を出発し柏木で一泊。入之波の大台辻から入山し、大台教会に一泊。面白いのは三日目の行程だ。なんと、牛石ヶ原からトロッコに乗せてもらっている。
トロッコの行き先は樫山958m三角点まで便乗し、不動谷と岩井谷の合流点に下山した。溪谷でもトロッコ道を歩き便ノ山に出て、馬越峠を越えて、夜10時半尾鷲港に下った。尾鷲港から船で荒波の中を鳥羽まで行き、汽車で帰京。
紀州は木材生産が盛んだがもうそんな時代からトロッコが行き交いしていたことに驚いた。8月には大台ケ原からマブシ領往復の計画なので堂倉山辺りをよく観察してみたい。トロッコ道が残っているはずだ。検索すると「堂倉山山頂を南側に下り立ったところは「シラサコ(白カケ)」と呼ばれており、小さな平地に陽光がよく通っている。この付近は、大蛇嵓の方から伸びてきたトロッコ道跡があり、時に尾鷲道と重なっている。枕木やレールの取り除かれた線路跡をイメージしてもらうとわかりやすいが、登山道としては贅沢な1~2m幅の道が緩やかな傾斜で伸びている。ただ、このトロッコ道はいつまでも尾鷲道に寄り添っているわけではなく、巨岩帯を通り抜けたあたりからやがて森林の中に埋もれ視認できなくなる。」とあった。
「「白崩(しらくえ)」と呼ばれている岩礁で、その下の谷が「白崩谷」である。三度にわたって大台ヶ原に入山した松浦武四郎は、木津(三重県)に下りているため、ほとんど尾鷲道を使っていないが、3回目の入山時には、大蛇嵓から堂倉山西側をまいてこの白崩谷を使って東ノ川まで下りている。」
 「「尾鷲道」は、尾鷲の林業家・土井 與八郎が大台教会開殿後、. 紀州の信者の参詣道として1915(大正4)年に寄進され、 大台ヶ原. への登山路として尾鷲」の人々に利用された。という。
  今西が歩いた時代は大台教会の信者も登拝に来ていただろう。
因みに大杉谷の初遡行は「遡行は明治45(1912)年5月。大西源一は櫛田川河口に近い多気町弟国の出身。大北聡彦は松阪市。桃の木小屋は昭和15年完成というから、鍋、米、味噌を携えて、焚き火を起こし炊飯する野営の旅だった。」
 松浦武四郎が入山したのは67歳(明治18年)というから如何に探検的な登山だったか。大川嵩の入山は武四郎没後に1891年62歳でした。

尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

尾鷲道研究①~登拝の道~2022年06月30日

    山岳古道の第二回目の会議を開催(18:00~20:00)
 8月以降の古道の踏査の予定日を揉んでみた。大台教会と尾鷲を結ぶ道の踏破を第一に話し合った。そもそも尾鷲道は大台教会への巡礼の登拝の道だったのだ。8月半ば以降に実施を決めた。大台山上とまぶし嶺を往復することにした。
 猛暑の8月だがお盆を過ぎると少しは涼しくなってくる。一日の日照時間が減ってゆくからだ。
奈良県のデータは
7月1日は夜明け4:47、日没19:14。8月20日は夜明けは5:20、日没は18:39になる。朝は30分以上遅くなり、日没は41分早くなる。大台教会は6時、尾鷲辻は7時に出発し往復する。15時までに戻れれば名古屋へは20時には帰れる。
 これが完遂してやっと60%くらい。古和谷道、木組峠とまぶし領間がある。結構長期的な取り組みである。
 尾鷲道の古和谷ルートは秋から初冬をめどにを歩くことにしたい。水無木組林道終点でテント泊し、光山経由でまぶし嶺往復の難関コースも残る。ここが実は武四郎も歩いた道らしい。水無峠から木津へのルートも歩いておきたい。武四郎は3回とも木津へ下っている。そして船で伊勢に帰った。
 
大台教会とは
https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/ptinfo.php?ptid=43097

大台ケ原 ―― 神武天皇像 古川嵩の足跡
http://www.stomo.jp/3k_kiji/3k150214.html

心・湯治館: 大台ケ原の宿泊施設
https://www.cocoro-toujikan.com/

 尾鷲道は最初は又口辻が出発地になったが尾鷲に遠いためか、古和谷ルートに変更されたらしい。古川崇なる人物のことも知らねばなるまい。あれだけの道を歩いて信仰させる何かがある。
 かつての御嶽教も中央西線がなかった頃は白巣峠を越える登拝の道があった。中央線が木曽福島まで開通したら寂れたという。尾鷲道も大台へドライブウェイが開通したら忘れられた。そして荒廃した。それが今や篤志家の活躍でよみがえった来た。
 山抜けの危険個所にはロープが張られて、道標も整備された。何の機運か知らないが、今後は多数の登山者を集めるのだろう。

『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を受領2022年06月20日

上北山村のHPから大台ヶ原の山上図
 古書店に注文してあった斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』(ナカニシヤ出版 平成6(1994)年刊)が届いた。早速中身を見たのは1922(大正11)年20歳の未発表の山行記録の中の大台ヶ原山だった。足どりをたどってみた。

①10/28 京都駅から柏木の朝日屋に泊まる。

・・・入之波は温泉がある。奥吉野の南朝の旧跡を訪ねた。大台辻は台高山脈の縦走路に入る。ここから川上辻を経て秀ヶ岳までは2時間である。昔歩いたが強風で川上辻からバス停に行き帰った。

②10/29 柏木から多分歩きで入ノ波(しおのは:入之波)~筏場~大台辻~大台教会に着く。

大台教会とは・・・「大台教会

ここは神習教大台ケ原大教会という神道の教会である。神習教は「自然の中に自分をゆだね、山をあるいてもらえればよい」というおおらかな宗教とされる。

1891(明治24)年、御嶽山で修業した美濃出身の行者・古川 嵩(かさむ)が大台ケ原を霊場として開山しようと入山、1899(明治23)年教会が設立された。

大台ケ原山の山中で、2匹の夫婦狼と寝起きし終業に励んだとされる古川は、越冬も経験しながら、地元の人々に大台ケ原の素晴らしさを伝えながら修行を続け開山にこぎつけた。大正に入って、大台ケ原に登山する人も増え、教会は宿泊施設としての役割も持った。1922(大正22)年には、西堀栄三郎、今西錦司などの4名が泊まっている。1961(昭和36)年の大台ケ原ドライブウエイ開通までは、山に上ってくる人のよりどころであった。

現在、教会は信者の宿泊施設として利用され、一般登山者は教会の隣の「たたら亭」を憩いの場としている。≪大峰・大高より抜粋≫」


③10/30 教会~日出岳~牛石ヶ原~大蛇岩~木津(こつ:紀北町)~便ノ山~馬越峠~尾鷲

・・・大蛇岩は現在の大蛇嵓。ここからいきなり紀北町の木津に下っている。ルートが簡略過ぎるので文を読むと、「大蛇岩から引き返してトロッコ道を下り、小屋で昼食す。
 そこへちょうどトロッコがきたので皆材木の上に乗って、二ノ俣国有林の秋色を賞しながら地図に樫山とある三角点の尾根まで運んでもらった。それから岩井谷と不動谷の合流点近くに下りた時にはもう月の光が美しく谷間にさしていた。中略。
 銚子川に沿うて便の山まで下り馬越峠に上った。尾鷲の燈火がちらちらと輝いた。十時半尾鷲に下りた。以下略。その後は汽車で帰京するのではなく、鳥羽までは船に乗った。時化がひどく悲惨だったらしい。

 何のことはない、「1915(大正4)年に尾鷲の土井與八郎によって拓かれた」尾鷲道はすでに開通していたが、そこを歩かずにトロッコに乗って楽している。

 二ノ俣谷は尾鷲道と樫山と堂倉山をつなぐ稜線に挟まれた谷である。不動谷の本流になる。

④10/31 鳥羽~宇治山田~大廟参拝~宇治山田~木津(きづ:関西線の木津駅)~帰京

木組峠まで2022年05月26日

 5月22日尾鷲市の宿を朝7時に出発。再び水無峠を目指す。林道終点まで乗り入れP。ジムニーの先客あり。しばらくは林道歩き後、切通しで残されたような場所にある地蔵さんのあるところへ登る。
  林道へ戻り、地蔵峠の道標から非常階段みたいな急坂を登り稜線に急登した。すると散策路のように気持ちの良い山路になった。尾鷲道の古和谷分岐から又口辻、山腹のう回路を歩く。2017年12月は冬だから枯れていた神明水には今回も水を得られなかった。新木組峠に着く。ここから尾根通しに登り稜線分岐から光山への道が分かれる。木組峠に下った。すると2人パーティに出会い情報をもらう。
 NTRCのテープは青は松浦武四郎の通った道、オレンジは尾鷲道と使い分けしていると聞いた。
  木組峠口まで下って、尾鷲道の旧道を探す。蛇抜けの谷に下るロープ(NTRC整備)を伝って谷芯に降りた。対岸へは踏み跡を探して攀じ登った。着いたところはブナの平らな素敵なところだった。後続の6人は少し戻って浅い谷上部を渡った。平まで下って何となく踏み跡をたどると尾鷲道がしっかりしてきた。NTRCの道標では高リスクとあったが、ついに蛇抜けのところに遭遇した。ここもロープがあって安全に対策してあった。80歳の高齢者もいるので恐る恐る見守ったが無事に通過。次もその次も無難に通過できた。すぐに新木組峠だった。
 ここから1297mの三角点西原(中の嶺)を踏んで行く。ピークは展望の良い細又谷の頭1305m峰、シロヤシオに包まれた西原(中の嶺)1297m峰、太平洋側に開けた竜辻山1260m峰のおよそ3ヶ所あり、アップダウンが激しい。これだから山腹のう回路が開削されたのだろう。
かつて、伊勢辻山から大台ケ原山までツエルトビバーク3泊で縦走したが、山頂を巻くことが多かった。山仕事や生活道路の道としては合理的である。
 又口辻の道標を見ると周回の目的を果たす。古和谷分岐から地蔵峠は快調に飛ばす。林道に降り立つとやれやれ感が漂うが、まだ林道歩きが待っていた。
 今回の踏査で分かったことは尾鷲道と武四郎の踏破した道は新木組峠までは重なるが、以南はバラバラに分かれて踏破している。バイパス的な光山経由水無峠から木津へ下山し、引本港から船で帰った。又口辻から柳ノ谷へ下山、今回分かったのは竜の辻からも下山したことがNTRCの道標で知った。武四郎は尾鷲道の古和谷ルートは歩かなかったのか。また調べ物が増えた。
※NTRCは熊野大杉谷ガイド協会の野中太郎氏の略か。

山帰来 アルベルゲ2022年05月25日

 栃山下山後は、熊野古道の馬越峠直下のウッディハウス「山帰来アルベルゲ」に寄った。アルベルゲはスペイン語で民宿の意味とか。今はコロナで休業中。それでも川端守氏と奥様がいつも変わらぬ笑顔でおもてなしいただいた。目的は今年4月まで熊野古道センターの長だったことで古道に関するレクチャーを受けたいとお願いしておいたのだ。尾鷲高校の国語教員で名古屋の風媒社から熊野古道の著書を4冊くらいは出しておられる。2018年には同じ風媒社から『東紀州の山々』を上梓。1941年生まれの川端氏は77歳にしてエネルギッシュな活動ぶりに驚かされた。
 2005年発刊『新日本山岳誌』の取材(1997年~2005年)では、JACの会員(10年くらい在籍)になって協力していただいた。私は東海支部の編集者として誰も手を挙げない南紀と東紀州の山々を踏査して寄稿した。
 熊野古道は断片的な山岳部分のみ残るがスペインの古道は長く、整備もされているそうな。一日20km歩き、40日間アルベルゲに泊まりながらご夫婦で歩かれたという。日本人の旅行者は珍しかったという。
余談だが、俳人の黛まどか氏(1961年~)も熊野古道歩きの途次ここの素泊まりの宿に泊まられた。美人の俳人ということで角川が売り込むためにか、特別賞を授与して話題になった人。
     旅終へて よりB面の 夏休   黛まどか
 川端氏と黛氏を結ぶのはスペインの古道歩きだった。
    『星の旅人 スペイン「奥の細道」』 (角川文庫)
という本も上梓するほどのめり込んだ。女性の身でよく歩かれたものである。古道に俳句にと話題は尽きないが、宿でのこともありおいとました。
 東西の古道の話の後は「イワナの里」という民宿に投宿。紀伊山地の山懐に張り付いた山宿だ。イワナ御膳に舌鼓を打った。川魚料理、山菜のてんぷら、海の魚の刺身など盛り沢山の料理に驚嘆した。
      山宿で歓談しつつビール飲む  拙作

栃山再訪2022年05月24日

 5月21日は山岳会の山岳古道調査事業の一環で尾鷲道の踏査に来た。これで3ヶ所目。これから踏査するが、長いので一回では済まない。名古屋を朝7時出発なので2時間はかかる。海山ICで降りてから水無峠を目指す。
 今日は出発が遅いので栃山で足慣らしだ。2005年出版のJAC100周年記念出版で『新日本山岳誌』(ナカニシヤ出版)にとり上げるために登って以来である。
 ブログの開始は2006年からなので記録はない。以前はなかった登山口の道標があるほかは登山道は不明瞭なままである。その時は冬場なので、葉の茂りはなく左に太平洋が見えたと思うが、今は緑の樹林の中を歩くのみ。山頂もまったく記憶にないので初めての登山と同じ。今日は往路を戻った。時間があれば西へ下り、林道を経由で下山する予定だったが敵わなかった。
 ヤマップには栃山の北に登り40分の新しい赤線が付いたので探ってみたが道の痕跡はなく、ヤブを歩いた人がいるのだろう。これは使えないから水無峠に戻った。
 下山後は本来の尾鷲道だった古和谷の林道の入り口をチエックしたが道標はない。昔の登山者はここから稜線に登り大台ヶ原山を目指した。私も紀勢本線に夜行列車があった頃(昭和59年に名古屋発の夜行は廃止)、ここから登山計画を立てたが、夢想登山に終わった。
 五万図「尾鷲」を比較すると昭和44年測量同49年修正版はまだ破線路で、平成7年修正版とでは地蔵峠付近までの約12km林道が開通していた。破線路の時代は松浦武四郎、今西錦司(初登山―今西錦司初期山岳著作集 単行本 – 1994/4/1)も木津に下山したという。松浦武四郎 木津でググると、林道を忠実に歩いたのではなく、後谷に沿う道だった。NTRCの道標はその案内だったのか。そして海山に出て、馬越峠を経て尾鷲に下ったものもあるし、武四郎は引本港から船で帰った。  平成7年の地図には2002.5.26に登り45分のメモがある。今日は80歳の老女も含めて高齢者グループ7名なので70分かかった。
 古和谷のチエック後はR425を走り、坂下トンネルを通過、尾鷲市の市街地に。交差点右からは新しい尾鷲北ICからのクルマが多い。尾鷲市も高速道路につながる時代が来ている。かつては、亀山、久居、松阪と延伸してきたがR42は時間がかかった。今は180kmと約50km短縮された。4620円の高速料金がもう少し安くならんか。

台高の山深く来て秋刀魚寿司 拙作2022年05月22日

 山岳古道調査で久々に台高山脈に来た。今日は木組峠を目指し、帰路は旧道をトレースした。ロープを2ヶ所の山抜けの箇所で出した。また1297m峰、竜の辻山経由で又口辻に降りた。結構険しい山なみだった。だから山腹の横断道が開削されたんだろう。往復だがトレースは別にたどったことで充実した山行になった。

橡山に登れば汗のすぐに引く 拙作2022年05月21日

 朝7時金山を出発。7人のメンバー。目的地は台高山脈の一角。海山ICを出て水無峠に向かう。ヤマップの記録会を目指したが実際には登山口がなく、パス。水無峠から往復した。中々険しい山だった。

木梶山~晩秋の台高山脈の一角を歩く2021年11月20日

 11/20朝7時予定通り出発。
 伊勢湾岸道上での渋滞があり約30分時間ロス。松阪の奥のR166でも工事で交通整理があり若干のロス。かなりの交通量です。また登山口付近の案内と持参した地図の読み違いで少し戻って分岐を確認したために合計1時間のロス。木梶不動尊の案内が車道分岐に欲しい。
 地元の地図では高見峠への車道との三差路がきわら滝登山口に見えた。実際は木梶林道を少し奥まで入ると木梶不動尊があり、駐車場がある。きわら滝も落ちていて中々の良い所です。すでに3台止っていました。車道から木梶林道へは案内はなく、違ったかなと少し戻ったがあそこで間違いないとまた戻った。しかも車道にPして木梶林道を10分ほど歩いたらなあんだ、という話でした。
 登山口10時出発の予定は1時間遅れになりました。なので周回計画は木梶山往復に短縮。林道歩きは約1時間で904m地点の先まで歩いてやっと枝尾根の登山口に着いた。道々の黄葉は良かった。渓相も素晴らしい。林道と木梶川が近づいた辺りからは渓谷美も楽しめる。ここで若干の腹ごしらえをした。赤ゾレ山の登山口になっているが余り踏まれておらず、不明瞭な気がした。
 急登をあえぐと緩やかな尾根になり、木梶山へのすっかり落葉した疎林は良い感じでした。男女のカップルとすれ違った。登山口付近で男性1名、12時前にハッピのタワ登山口付近で女性1名(朝7時出発とか)、と4名でした。けっこう登っています。Pの三重県ナンバーなので地元の登山者ですね。
 山頂からの眺めは樹林に囲まれてないのも同然ですが、疎林越しに県境の縦走路のピークの頭が見えている。休んでいたら高齢の男性が1名県境方面から登ってきた。朝9時ごろ出発したが道に迷ったという。赤テープが頼りだったが見失ったらしい。そんなにも不明瞭なところがあるのだろうか。
 台高山脈周回は約7時間かかり日の長い時期に延期です。今時は少なくとも8時には出発したいコースです。
参加はN、Mの2名。