夏山フェスタ再開2022年06月11日

 第8回夏山フェスタが開催にこぎつけた。関係者の尽力に敬意を表する。2020年、2021年ともコロナで中止になった。今日はその溜まったエネルギーがどっと出てきた気がした。入場すると人であふれていた。特に出口付近は田中陽希さんとのショットで順番待ちが長い行列になっていた。熱気むんむんだった。
 一通り会場巡りしたが例年と出展者は変わりはない。少し減ったかなと思う7程度である。今回は熊野古道の売り込みも来ていた。中年向きには良い企画である。
 若い入場者はグッズに関心があるのだろう。或いは山の情報だろう。山岳会のブースも手ごたえはあったらしい。登山学校の申込者があれば言うことはない。
 セミナーはさほどパンチのある講師はいないのでスルーした。もう三浦雄一郎らの時代ではないのだろう。スーパー登山家は居ないのだ。田中陽希は何と言っても国内のみだし。三百名山という既知の山が対象では新鮮さはない。
 シニアにターゲットを絞れば面白い企画が生まれる可能性はある。全国の古道サミットとか、奥の細道サミットなど面白いのではないか。

ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)

三の窓から2022年06月13日

 俳句雑誌への原稿書きも下書きはできた。結局は山の句を取り上げることになった。三の窓のことである。富山県の人が出稿した短歌が詠進歌に入選してその影響は俳句にも及んだのだ。天皇と一緒の空間に居ることの感動は何物にもかえがたいのではないか。そんな羨望が俳人にも伝播したわけだ。富山県の地形は北が日本海、東と南が北アルプス、西が白山連峰と山と海に囲繞されている。そのために日の出は三の窓から出る。それも春遅くになってからだ。それから田植えが始まる。一度は見てみたいものである。

梅雨寒2022年06月14日

 6月も半ばになった。本日東海地方も梅雨入りと伝えられた。終日日照がないせいで気温が低く半袖では小寒い感じである。梅雨寒というのだろう。食品のストックが無くなったので夕方買い物に出た。小雨で傘は要らないがあれば助かる。最初に行った店より、もう一つの安売り店に転じた。いつもはにぎわっている鮮魚コーナーだが、小雨のせいかお客はほとんどいない。肉類、食用油、など結構買ってしまった。

雑務2022年06月15日

 小雨でうっとうしいが、郵便物があるはずなので、丸の内の事務所に行く。請求書と金融関係からの2通あった。金融関係は相続がらみのもので署名の肩書が漏れていた。先方の見本にしたがって記載したはずだが、上層部のチエックで差し戻されたのかな。指示通り記載して投函。請求書は宛名の違いで再発行を要請した。
 書店に寄り、本を買う。
1 パウロ・コエーリョ『星の巡礼』(角川文庫)・・・スペイン巡礼の旅を描いた小説。俳人の黛まどかが解説を書いている。たぶん読み切れるだろう。

2 フィフィ『日本人に知ってほしいイスラムのこと』(祥伝社新書)・・・中共によるウイグル人人権問題があるが、高まらないのはなぜか。メディアは中国に不利な報道はしない制約もある。参院選には在日ウイグル人が帰化して日本人になり被選挙権を得て出馬する。当選すると国会でウイグル人の立場を訴えると政治的効果は大きいが、イスラム教徒なので政治的に厄介なことになりかねない。
 日本にもイスラム教徒は増えているらしい。少し知って置きたい。

3 高橋洋一『理系思考入門』(PHP)・・・政府の出す数字は信用できるのか否か。数学が専門の高橋洋一が書くと理解はこうなる。
 今年亡くなった石原慎太郎も作家で文弱の徒に見えるが一橋大学では公認会計士の試験勉強に勤しむ会計人の入門者だった。
 石原氏の国会議員時代はあまり好印象ではないかったが都知事になってからは得意の会計知識と会計人の人脈を生かして都財政を複式簿記化して成果を挙げている。都の銀行をつぶしたこともあるが、彼一人の責任ではあるまい。
 高橋洋一も同じことをいうのだが政府中枢で仕事をしていた経験もあって指摘がするどい。数字は説得力がある。田中角栄もコンピュター付きブルドーザーと呼ばれていたが、それはぱっぱっと数字で把握する才覚があったということだ。

予定2022年06月16日

 山岳会の予定を検討した。会合のメンバーが7名集まる見込みになりその日を決定した。また山岳会本部への原稿をまとめた。朝からほぼ一日かかったことになる。
 菅江真澄、松浦武四郎、柳田国男などの書籍をひっくり返しながら引用するところは引用して約10枚分のボリュームになった。

梅雨晴れ2022年06月17日

 今日は久々に暑かった。それによく晴れた。マイカーの日射除けをして置かなかったのでギラギラ暑い。上前津で昼食後、支部ルームのホワイトボードに会合の予定を確保しておく。
 事務所に走る。書類に目を通しておく。夜になって、事業年度終了届が迫ってきた取引先に勧告のメールを出す。
 先月末宿泊したホテルに電話で領収書を要求した。HPの問い合わせから要求したが回答がない。楽天経由で予約したが支払いは普通はクレジットカードで決済するが、現地で現金払いになり、フロントでは領収書は発行されなかった。珍事みたいな事務である。業務上の宿泊なので発行は必要だから郵便で送付を依頼した。
 夕飯は自転車で飯屋に行った。そろそろ朝のポタリングを再開したいと思いながら深夜まで起きているせいか朝は遅くなる。

水草の里を訪ねて~尹良親王の祠発見2022年06月18日

 古橋和夫『写真が語る 三河宮尹良親王ー稲武の尹良親王とその周辺』(発刊 昭和62(1987)年。印刷 桃山書房)は多分稲武の尾形誠意堂で買ったものだろう。1200円。 
 三河宮があったのは稲武の後山(710m)界隈であった。ここを水草の里という。しかし、この本に示された地図の地名は現在の地図には反映されていない。そこで徒手空拳で捜す。
 先週もここだろうと、車を走らせたが徒労に終わった。九沢を経めぐって地形を把握したに過ぎない。第一地蔵峠がどこなのか。最初は塩の道の地蔵峠との間違いか、とも思われた。
 18日に走ってみて、峠を通過して、徒歩で探ってみた。車を降りて峠を振り返ると地域のバスの停車場がありそこに地蔵峠と書かれていた。地蔵峠はあったのだ。これで謎が解けてゆく。
 乗り越し部分の西側に枝道があるので歩いてみた。そこに尹良親王の両尊像を祀った祠がないか。しかし、無かった。そのまま下ると里へ行く。石仏が10体以上集まったところがあるので見ると馬頭観音もあった。
 久々に人を見た。他所から嫁いできただろう女性だったが聴いてみた。ユキヨシ様の祠を探していると伝えるとやっぱり峠にあった。細道があるというのでもう一人が案内してくれた。心細い道だったがあった。但し祠を開けることはできず、他日に期待した。
 後は九沢に走った。後山に続く山路の登山口を探すためだった。降雨があり、舗装から地道になったが粘土質なので引き返した。九沢の四等三角点を探したがGPSの示す場所には発見できなかった。
 媼が一人道を徒歩で歩いていたので聞いた。世間話に終始した。一軒家で一人暮らしだという。水道は引いてあるので、都会的な生活は想像できる。昔なら山水を引いて風呂也、甕なりに汲み置きしなければならない。薪を割り、芝を集めておかねばならないが、それはない。燃料はガスだろう。何となっている。
 もう80歳を越えたという。夫は7年前に死んだ。息子は3人いるが豊田市、日進市、北海道にそれぞれ出て行った。もう戻らないだろうという。一度都会生活を味わうともう戻れない。特にTVで都市を知るとなおさらだ。家が壊れるか、自分が死ぬかどっちが先か、笑えない冗談を言う。
 視野に入る田畑がみな休耕田なのでもう跡継ぎが居ないんですね、と聞いたら、この辺の家屋は皆住人がいないとも言われた。全国的に問題になっている空き家である。九沢では2軒だけが生活している。家は人が済まないとあっという間に荒れてしまう。屋根の根田が腐って抜けてしまう。廃屋化して行くが今なら間に合う。
 30分も話しただろうか。名古屋へ帰ることを告げて九沢の媼と別れた。ここにはまだなんども来る予定である。今度は後山に登ろうと思う。

藤沢周平の小説に学ぶ2022年06月19日

 映画「たそがれ清兵衛」を見た。江戸末期の下級武士の高潔な姿を描き、日本アカデミー賞などを総なめした山田洋次監督の名作であり、真田広之も宮沢りえの演技もすばらしかった。

 下記のやりとりが印象に残った。
娘は家で『論語』を素読している。江戸時代には論語や儒教を学ぶことが「学問する」ことで、そこで論語が説くのは「人生をいかに生きるべきか」であった。

 そこで娘には疑問が浮かぶ。そこで父、清兵衛に聞いた。

 娘「お父はん。針仕事ならって上手になれば、いつかは着物や浴衣が縫えるようになるだろう?んだば、学問したら(即ち論語を学んだら)、何の役に立つんだろう?」
 
 父「学問は針仕事のようには役だたねえかもの。」(沈黙)
 「学問しぇば、自分の頭でものを考えられるようになる。考える力がつく。この先、世の中がどう変わっても考える力、持っていれば、何とかして生きていくことができる。これは男っこも、女んこも同じことだ。わかるか?」

 清兵衛は、幕末という激動の時代を予感してか、針仕事のような直接役に立つことではなく、自分の頭で考える能力をつける学問の重要性を説いた。これは今の時代に我々に必要なことでもあると思う。

 今、世界はますます予測不能に変化する。この中で、直接役立つようなスキルではなく、生きるために自分の頭で考える力をつけなければならない。その核心の問いは「人生をいかに生きるべきか」である。そしてこの問いの根底には「幸せとは何か」を問うことにつながる。

 小手先のスキルを学ぶことを超えて、今、人生をいかに生きるべきかを問い、そして、幸せとは何かを問うことが必要である。
以上
・・・学問の本来の姿です。

『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を受領2022年06月20日

上北山村のHPから大台ヶ原の山上図
 古書店に注文してあった斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』(ナカニシヤ出版 平成6(1994)年刊)が届いた。早速中身を見たのは1922(大正11)年20歳の未発表の山行記録の中の大台ヶ原山だった。足どりをたどってみた。

①10/28 京都駅から柏木の朝日屋に泊まる。

・・・入之波は温泉がある。奥吉野の南朝の旧跡を訪ねた。大台辻は台高山脈の縦走路に入る。ここから川上辻を経て秀ヶ岳までは2時間である。昔歩いたが強風で川上辻からバス停に行き帰った。

②10/29 柏木から多分歩きで入ノ波(しおのは:入之波)~筏場~大台辻~大台教会に着く。

大台教会とは・・・「大台教会

ここは神習教大台ケ原大教会という神道の教会である。神習教は「自然の中に自分をゆだね、山をあるいてもらえればよい」というおおらかな宗教とされる。

1891(明治24)年、御嶽山で修業した美濃出身の行者・古川 嵩(かさむ)が大台ケ原を霊場として開山しようと入山、1899(明治23)年教会が設立された。

大台ケ原山の山中で、2匹の夫婦狼と寝起きし終業に励んだとされる古川は、越冬も経験しながら、地元の人々に大台ケ原の素晴らしさを伝えながら修行を続け開山にこぎつけた。大正に入って、大台ケ原に登山する人も増え、教会は宿泊施設としての役割も持った。1922(大正22)年には、西堀栄三郎、今西錦司などの4名が泊まっている。1961(昭和36)年の大台ケ原ドライブウエイ開通までは、山に上ってくる人のよりどころであった。

現在、教会は信者の宿泊施設として利用され、一般登山者は教会の隣の「たたら亭」を憩いの場としている。≪大峰・大高より抜粋≫」


③10/30 教会~日出岳~牛石ヶ原~大蛇岩~木津(こつ:紀北町)~便ノ山~馬越峠~尾鷲

・・・大蛇岩は現在の大蛇嵓。ここからいきなり紀北町の木津に下っている。ルートが簡略過ぎるので文を読むと、「大蛇岩から引き返してトロッコ道を下り、小屋で昼食す。
 そこへちょうどトロッコがきたので皆材木の上に乗って、二ノ俣国有林の秋色を賞しながら地図に樫山とある三角点の尾根まで運んでもらった。それから岩井谷と不動谷の合流点近くに下りた時にはもう月の光が美しく谷間にさしていた。中略。
 銚子川に沿うて便の山まで下り馬越峠に上った。尾鷲の燈火がちらちらと輝いた。十時半尾鷲に下りた。以下略。その後は汽車で帰京するのではなく、鳥羽までは船に乗った。時化がひどく悲惨だったらしい。

 何のことはない、「1915(大正4)年に尾鷲の土井與八郎によって拓かれた」尾鷲道はすでに開通していたが、そこを歩かずにトロッコに乗って楽している。

 二ノ俣谷は尾鷲道と樫山と堂倉山をつなぐ稜線に挟まれた谷である。不動谷の本流になる。

④10/31 鳥羽~宇治山田~大廟参拝~宇治山田~木津(きづ:関西線の木津駅)~帰京