朝日遺跡ミュージアムを見学②2020年12月15日

猿投神社所蔵の絵図は1300年前。
 朝日遺跡がこの位置にあること、2400年前の人たちの生活の場だったことで、想像力を巡らせて頭で考えることは大変に楽しい。雑駁な知識、断片的な知識がくっつきあってまとまってゆく好奇心が刺激されます。
 何でこの清州の位置に、というのは2400年前は干潟が広がっていたというのです。そうか、今の五条川も自然河川ではなく、木曽川の古い流れの1つという。「一方、尾張側では、この御囲堤の完成で木曽側の氾濫は無くなりましたが、逆に尾張平野はそれまで派川であった五条川、青木川、日光川、三宅川、領内川などの八流が無くなり水不足になる」(水問題研究所:木曽川物語から)ので取込み口を設けて用水化したのです。
 地質学の本には東海湖という絵図があります。今の白鳥町あたりまで長良川は入江だった。鷲ヶ岳山麓の阿多岐では藻が珪藻土になり切り出してコンロに利用されています。「美濃白鳥湖に堆積した成分が重なって,約300万年~150万年前に形成」されたので相当古い話です。
 時代が進んで、最後にアップした猿投神社所蔵の717年(古事記は712年、日本書紀は720年)の絵図になると1300年前の地形になります。清須(清洲)も津島も水っぽい地名ですが実際に昔は島だった。それも木曽川の氾濫で、長良川は西に押し出されて、沖積平野になります。秀吉の頃から尾張国側は堤防を高くして囲い込みます。前述の通り濃尾平野は巨大な造成地になった。
 愛西市教委の学芸員、石田泰弘さんは「東方からやってきた人たちが道中、尾張国と伊勢国を行き来する際、七里の渡しを使った記載があったのはわずか五十五点。最多は、同県清須市付近から甚目寺(同県あま市)を経て同県津島市に至る津島街道で、実に三百九十五点もあ」ったとして津島街道が主流だったことを明らかにされた。古代史と古絵図からの推移を見てもむべなるかな、と思います。4月ごろ、中区丸の内の事務所から津島神社(疫病退治の神様)までサイクリングして参拝しましたが緩やかな下り坂でした。往きは休まず走ったが帰りは喫茶店で一休みしました。
 こうしてたかが遺跡ではあるが、雑駁な知識が積り重なって、それはまるで地層のように、想像を膨らませることができるようになってきた。それと改めて再発見したのは西日本には陶器の産地が多いのに東日本にはほとんどない。これも弥生文化を考えるヒントになります。瀬戸市の猿投山山麓の赤津は有名ですが、なんでこんな山奥に津の地名があるのか不思議でした。しかし猿投神社の絵図には掲載されています。海に面していたのです。
 赤津、瀬戸市(陶器生産の本場)、日進市(陶土採取場がある)、東郷町(古窯がある)、常滑市(常滑焼がある)と陶土の地質が続いているそうです。これが海浜だったのか。