恵贈・尾上昇著『追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録1970』2020年12月11日

 このほど尾上昇著『追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録』(中部経済新聞社)が発刊された。
 まずは発行元の売りを引用してみると
「中部経済新聞社は、日本山岳会会長も務めた尾上昇氏の著書「追憶のヒマラヤ マカルー裏方繁忙録一九七〇」を発刊しました。

 今から50年前、日本山岳会東海支部の登山隊が、ヒマラヤにある世界第5位の8千メートル峰「マカルー」の南東稜からの登頂に、世界で初めて成功しました。本書は、当時その登山隊の裏方として活躍した著者が、計画や準備、現地への渡航から登頂成功までの悪戦苦闘を、自身の半生とともに振り返った回想録。海外登山の魅力や組織運営の難しさ、その後の山との関わりについてを描いています。」
とある。
 目次を見ると第一部マカルー1970にP22からP200まで割いた。全頁335Pあるから約60%と大半を傾けた。但し著者は登攀はしていないから客観的な傍観者的な把握に努める。本人ならばいかに困難な壁、氷雪の山稜を突破したとかの勇ましい表現で語られることになるがそれなない。登山の武勇伝ではない。東海支部50年史から関係分を引用してみる。
「  マカルーへの序曲
 1967年はぱっと開花したような華やかな印象を与える。4月23日の通常総会で支部長に熊沢正夫(1129東海中学、八高、東大)が選任される。東大OBで植物学の専門家であり、名大教授、戦前の日本山岳会会員ながら戦中のどさくさで退会となっていたが支部長就任を契機に復会する。『上高地』なる本も上梓している。5号の尾上昇の書いた追悼文から少しだけ引く。「「おい、尾上君、名古屋大学にうってつけの人がいるぞ。」。
 これが熊沢先生と東海支部とのお付き合いの始まりである。」そう言ったのは原真だった。そこで原真、尾上昇、湯浅道男の3人で名大まで口説きに行く。以下は熊沢先生の側の回想である。「ある日、大学の研究室に東海支部員と名乗る若者の来訪を受けた。用向きは翌年度から支部長を引き受けよというのである。私も今まで数え切れないほど生命保険の勧誘員に訪問された。「生命保険は一度も入ったことがないし、これからも入る気はない。その私を加入させるよう君が説得するというなら、一つやってみなさい」と。
 ところが今回の件についてはそんな態度はとれなかった。もともと自分自身特別な登山歴はないながら山好きだったことや、損得かまわずひたむきに山を愛しこれに登ろうとする若者の心情に今でも惹きつけられる弱点がこちら側にもあった。」として快諾された。そしてご遺志で1ヶ月その死を伏せられ、葬儀の類も一切行われなかった。(1982年11月5日死去)
 彼を見出した原真も2009年3月20日に死亡したがマスコミに知れ渡ったのは4月2日のことでしかも葬儀、告別式も本人の遺志で行われなかった。医師のプライドで延命治療を嫌ったこともあろうが師と仰いだ熊沢に倣ったとの思いもするのである。
 副支部長には伊藤洋平が就任。京都大学の医学生のころ昭和22年に『岳人』を創刊した。『岳人』50号(昭和27年6月80円)に寄稿された伊藤洋平の誕生秘話を引いておく。「前略、私はふとIに、かねて夢に描いていた若い登山家の手で、純粋な山岳雑誌を創り上げる構想について話した。「そりゃ面白い」とIは即座に賛成してくれた。中略。それでは、誌名は何とつけるか。『蒼氷』『岩壁』そんな尖鋭な感覚を表現する名前が私の脳裏に浮かんだが、やはり何となく幅に乏しい感じで、いずれも気がすすまない。そのときルックザックにもたれて腕ぐみをしていたIが「山岳の岳に人―『岳人』というのはどやろ」と呟いた。がくじんーなんという力強い親しみのある響きであろう。このようなよい言葉が手近にあるのをどうして気づかなかったのか。「『岳人』そうだ、それに決めた」私は思わず車内で立上がって叫んだ」「今にして思えば、『岳人』が今日あるのもあるいは当然かも知れない。そして私もIもただ花粉を運ぶ蝶の役目を果たしたに過ぎず、本当に『岳人』を生み出したのは、わが登山界の新しい息吹に他ならなかったということもしみじみと理解されるのである。」と締めくくった。
 『岳人』は14号から名古屋の中部日本新聞社(現中日新聞、後に東京新聞に移管)に移った。
 同28年にアンナプルナ遠征に参加している。マカルー遠征では遠征隊長になる。後に愛知県がんセンターの初代所長となる。
 新役員のその他の欄に尾上昇(日本大学6001)の名前を初めて見る。後のマカルー隊員で、第五代と第七代支部長を通算18年務めた。2009年には第23代日本山岳会会長に選ばれている。
 5月17日に支部通信編集会議を行う。6月に第一号を創刊した。湯浅道男、矢入憲二とある。
 5月19日の役員会の出席者の中に谷久光の名前をはじめて見る。朝日新聞記者で後のマカルー隊員である。
 9月1日に支部ルームが原病院地下図書室に移転された。
11月に支部報2号が発刊された。(湯浅道男)
     ヒマラヤ登山解禁の予告
 1968年2月29日ネパール政府は日本外務省に対して部分的な登山解禁を予告。
 3月17日通常総会を開催。尾上昇、湯浅道男が常任委員になる。1969年春を目指してマカルー計画実施を決定した。
 3月23日 原病院で臨時役員会を開催。ヒマラヤ登山実行委員会を設置し、熊沢正夫が委員長に就任。4月8日にマカルー隊員を公募。6月14日の役員会に小川務(東京理科大学6633)の名前を初めて見る。後のマカルー遠征隊員で調査隊員として1969年に遠征。第十一代支部長である。
 8月24~27の山行 剣岳西面を登攀。参加者の中に徳島和男の名前を見る。後の日中友好皇冠峰登山隊1993の隊長であるが穂高涸沢で雪崩にて遭難死。
 1969年2月23日 マカルー調査隊日本出発。隊長松浦正司、小川務ら5名。28日に日本外務省はネパール政府にマカルー隊の推薦を打電。3月12日 ネパール政府は新登山規則を発表、マカルー調査隊に対する登山許可と本隊に対する仮登山許可が出る。アメリカ、ダウラギリにも登山許可が出る。
 4月13日の通常総会で委員が24名と大幅に増員された。出席者も多数に上る。
5月17日 第1回海外登山研究会がもたれる。マカルー隊員の浅見正夫(6856)が参加。24日 第2回には中世古直子(名古屋山岳会6739)、越山将男(早稲田大学6782)が参加。以後、11月16日まで継続的に実施された。会を追う毎に出席者数が増えていった。第10回でKJ法、梅棹式による資料整理法の採用が行われた。
    マカルー隊出発
 6月3日 マカルー調査隊はネパール政府から本隊の登山許可証を入手。12月20日 マカルー隊荷、名古屋港を出発(日光山丸)
 1970年1月1日 マカルー隊員発表される。2月14日にマカルー本隊、熊沢正夫以下十五名、羽田空港を出発した。伊藤洋平、谷久光は後発。
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隊の名称 マカルー学術遠征隊1970年
主催   日本山岳会東海支部
後援   愛知県、名古屋市、NHK、朝日新聞
ヒマラヤ委員会 熊沢正夫(委員長、遠征隊総指揮)、原真(事務局長)、伊藤洋平(遠征隊長)、村木潤一郎、沖允人、贄田統亜(6497)、渡辺興亜(6576)、田中元、松浦正司、尾上昇 
 学術研究担当者 御手洗玄洋(高所医学)、樋口敬二(地球科学)、木崎甲子郎(地球科学)、伊藤洋平(血清疫学)
登山隊員 調査隊(1969年) 松浦正司(隊長)、尾崎祐一(5822)、山田勇、生田浩、小川務
     本隊(1970年)  
原真(隊長)、市川章弘(登攀隊長)、田中元、尾崎祐一、松浦正司、尾上昇、川口洋之助、後藤敏弘、吉原正勝、長谷川勝、橋本篤孝、越山将男、生田浩、浅見正夫、中世古直子、芹谷洋子、白籏史郎(6068)、谷久光
地球科学隊員(1970年) 相馬恒雄(隊長)、五百沢智也、加藤喜久雄、沢田豊明、奥平文雄、森林成生、加納隆
シェルパ 調査隊二名、本隊二十七名、地球科学隊一名、リエゾン・オフィサー調査隊一名、本隊一名     以上
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 このように優れた登山家と学者をそろえた布陣の遠征隊は空前絶後の大規模なものとなった。2月22日からはダラン・バザールからポーター400名によるキャラバンが開始された。3月22日マカルー先発隊
によってBCの建設がなされた。25日には登攀を開始。5月18日に標高7950mの地点にC6を建設。
 5月23日には尾崎祐一(5822)と田中元の隊によってついにマカルーに登頂した。29日にはBCの撤収、帰路のキャラバンが開始された。6月16日にはダラン・バザールで隊員解散。7月13日には朝日新聞講堂にてマカルー報告会が出席者多数のもとに行われた。早速出版物の刊行にもとりかかる。
 12月20日にはマカルー地球科学班も帰国した。年初からの一連の行事や活動を眺めると1970年はマカルー一色に塗りつぶされた感がある。
 しかし、ある会員は支部ルームに行ってもマカルーやヒマラヤに関係のない会員は近づきがたい雰囲気が醸成されていたと証言する。マカルー成功に酔う影で支部に亀裂が入り始めていたのだった。マカルーの報告会は名古屋だけではなかった。11月になると松本市、大阪市、神戸市で、翌年2月には札幌市でも行われた。異様な雰囲気にもなるだろう。
 1971年2月になると第一回マカルー公式報告書編集会議がもたれた。原真、尾上昇、越山将男、市川章弘、浅見正夫、伊藤洋平らが出席した。尾上昇は十二回まで連続的に出席し、遠征の成果に熱心に関わろうとした姿勢が見える。十三回からは原真、浅見正夫、松浦正司に絞られていた。最終は8月の11日で第十七回の会議がもたれた。1972年の12月25日に装丁も立派な『マカルー遠征隊公式報告書「遥かなる未踏の尾根―マカルー1970年」』(編集者 原真、浅見正夫)が茗溪堂(東京・神田)から刊行された。写真は白籏史郎の手になる豪華なカラー写真入りである。
    マカルー遠征後の虚脱感
 2011年支部報No・124「東海地方の登山史と東海支部21」によると「編集した原真はこの報告書は以降10年ヒマラヤ登山の教科書になると高らかに宣言した。事実、内容の濃い優れた報告書ではあった。 しかし実態は原真編集というより原真著作といったほうが当たっている内容で、実際に隊員が提出した報告も彼の意に沿わぬところは全て書き直されてしまい、中心メンバーからも不満の声が出てくるようになり、隊員の多くの気持ちも支部から次第に離れていってしまった。設立以来意気軒昂であった東海支部にも危機が訪れんとしていた。」
 内容的には冗長のそしりを逃れない。原真が一貫して関わってきたことは何だったのか。KJ法が生かされたとはとても思えない。マカルーという山以外のことに主張が多すぎるのだ。報告書なのだから写実に徹して編集するべし。
 もう一つ特筆すべきは熊沢正夫支部長が2期目に入った年だった。通常4年で交代するがマカルーの余韻であろうか。その余韻も冷めるときがきていた。
 年末になってルームが移転した。1972年6月になると委員会が熊沢支部長宅で行われている。東海山岳3号の編集が3回行われたが年内刊行はならなかったようだ。
   東海支部解散の危機
 1973年になると年間を通じて5回の記述を残すのみであった。一体何が起こったのか。
3月3日の常務委員会には「東海支部の休会中の運営について検討」が行われた。3月29日に秘書解雇、4月11日の委員会も熊沢宅であった。そしてこれがこの年の最後の委員会でもあった。熊沢正夫、小栗嘉浩、中世古隆司、山田勇、郡正也、浅見正夫の六名。
 4月15日の通常総会は「1973年度の支部運営に関して中世古隆司氏に一任」の決議があるのみだった。4月30日には「事務所閉鎖」とだけある。事務所は翌年6月には池沼慧宅に移転した。
 東海支部は目標を失い迷路に入ったのだ。だが中世古らによって、すぐ再建の道が探られる。
 それを証言するのは次の記事。2009年支部報No・119「東海地方の登山史と東海支部16」によると「支部最大の実力者原真と私が対立し、原病院地下のルームも追い出され、東海支部崩壊の危機に直面した時、湯浅、尾上両君が強力にバックアップしてくれ」たと書いている。
 1974年総会では名大教授の樋口敬二が第四代支部長になった。地球科学の学者であった。常務委員は浅見正夫、池沼慧の2名、委員は石本恵生、蟹江武士、郡正也、石川博、国島陽三、会計監事は後藤敏弘だった。マカルーで活躍した会員はわずかに浅見ただ一人となった。10月26日から27日に御在所の日向小屋で焼肉を食う会が開催された。石岡繁雄、原真ら30名の参加者を見た。参加者の中には東京から神崎忠雄(日大、現在日本山岳会副会長6002)、池田常道(「岩と雪」編集者、7641)、京都から塚本圭一(4482)が来ている。
 1975年も東海山岳3号の編集など低調な活動実態が叙述されるのみだった。3月に会員間の懇親を狙いとする「山と探検の集い」が開催された。31名の参加者をみたが尾上、中世古の名前はなく、又はマカルーで活躍した会員の名前はわずか3名のみだった。」

 引用は終わり。この後は支部長に就任する。その後も海外遠征は数々あるが尾上氏の手のひらの上で処理できたであろう。本書ではマカルーがすべてである。
 
 著者は何が書きたかったのか。それは読者それぞれの感想があるが、人間の面白さである。マカルー登山を通じての赤裸々な人間のドキュメントを描きたかったのである。言わば、北杜夫『白きたおやかな峰』の尾上版である。

 第二部は私と山、若き冒険の日々と山岳会。ここは日大山岳部、東海高校山岳部などの山を通じた交遊録になる。

 あとがきの中で本書は遺言のつもりでまとめた云々とある。人間は余命が残り少なくなるとそういうものを書きたくなるのか。JACの先達の今西錦司も『山岳省察』(講談社学術文庫)という本を、戦死するかも知れないとしてまとめたらしい。実際には長命を得ているが。
 しかし、世の中には松尾芭蕉のように韜晦した人物もいた。「韜晦は「とうかい」と読み、自分の本心、才能、実力、地位などをつつみかくすことを言います。また、人の目をくらますとか、姿をくらますという意味。」らしい。今でこそ芭蕉の本はあふれているが、ひとかどの人物は韜晦しても後世になって研究者により掘り返されるものである。
 さて尾上氏の遺言はどう評価されるか。