鉢盛山は朝餉まつ山 鉢伏は 夕めし終えて月をまつ山 太田水穂2020年08月10日

<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="http://maps.gsi.go.jp/?hc=hic#11/36.124287/137.951889/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1"></iframe>
ブログ「犀川を溯る」から
 「あなたの手紙、いつもいつもなぜあゝ云うよい筆が早速にまわるだろうと感服にたえません。それは花のかんばしい野を清い水がさらさらと流れるようで す」
 これは、女学校で国語を教えていた青年教師が卒業したばかりの教え子に送った手紙の一節です。教え子は奥安曇野の南小谷に住む渋谷貞子。青年教師は、太 田貞一、歌人の太田水穂。いまから百年も前、明治三十九(一九〇六)年のことです。
 太田は当時、松本高等女学校、いまの蟻ケ崎高校の教師でした。
 貞子の文学的才能を高く評価していた太田は、文学仲間の吉江孤雁に彼女を紹介し、翌四十年、二人の結婚式で媒酌人をつとめました。
 貞子に吉江を紹介した手紙があります。
 「その人は丈は五尺五寸ぐらい、身体は肥えている方で、頬も豊かな目の丸い、笑うと愛嬌豊かな姿、小さい時から美少年と云われました。…只今は早稲田へ 教師に出る傍ら、独歩社という文学の社を立てて出版著述をしています…」
 当時、太田は吉江と文芸雑誌「山比古」の同人同士であり、上京するごとに吉江宅に泊まっていました。
 吉江と同宿していたのが、やはり同人だった松本郊外の和田出身の窪田空穂でした。
 太田は和田小学校長をしていた頃、「この花会」を創り短歌刷新運動をしていました。窪田はその頃からの文学仲間でした。
 吉江と貞子の結婚した明治四十年、太田はやはり松本高女での教え子だった亀井藤野と窪田との媒酌人も務めたのでした。
 また彼自身も、その二年後、「この花会」で知り合った有賀みつ(四賀光子)と結婚し上京、大正四(一九一五)年「潮音」を創刊し、中央歌壇で妻と共に活 躍します。


 吉江や窪田にとっても活躍の時代が訪れます。
 吉江は母校・早稲田大学に初めて仏文科を創設、教え子から西条八十、日夏耿之介、井伏鱒二、広津和郎、宇野浩二など錚々たる人物を輩出させます。
 窪田は早稲田大学の教授を務める傍ら、「槻の木」を発刊、「国民文学」派の歌人として著名になります。
 中央で活躍する彼らの脳裏からいつも離れなかったのが、自分たちを育ててくれた故郷の自然でした。
 鉢盛山は朝餉まつ山 鉢伏は 夕めし終えて月をまつ山 水穂
 塩尻の原新田(塩尻短歌館のある場所)に生まれ育った太田水穂にとって、東と西に望む二つの「鉢」の山は忘れられない山でした。
 湧きいづる泉の水の盛りあがり くづれるとすれや なほ盛り上がる 空穂
 窪田が和田から松本の高等小学校まで片道八キロかけて登下校したときを思い出して詠んだ歌です。当時、お母さんが握ってくれた三つのおにぎりの二つは昼 食に食べ、残りの一つは帰りの島立の湧水のほとりで食べた記憶を蘇らせたものです。
 いまは、わさび畑がたった一枚残るほどに減ってしまった奈良井川扇状地の湧水も、明治の頃はこんなにも水量が豊かだったのでしょうか。


 吉江の妻・貞子は、窪田の「槻の木」短歌結社に所属し短歌を詠んできましたが、昭和十五(一九四〇)年に夫を亡くし、四十六年に八十四歳でこの世を去り ました。
 
 きのふまで鳴きける百舌鳥を思ひつゝ 夕さりて夫と野路を歩む
さだ子
 
 師・太田が嫁ぐ前に送った手紙のような、夫を支えての生涯でした。
 「君の性格は、余の見るところでは、このような人に配偶されて最もその光輝を発揮するように思われるのです。…夫の事業に同情を存し、夫の事業をよく理 解して、夫と共に苦楽相い合する生活を趣味ある土台の上に立てるように」

(地域史研究家=安曇野市)
隔週日曜日掲載
以上
・・・今日は山の日の祝日なので山を詠んだ歌人の歌を掲げました。