うららかに済せし認知症検査 訃報 俳人・後藤日奈夫2020年06月09日

 読売新聞の訃報欄に後藤日奈夫とあり103歳の長寿に驚いた。父の夜半は有名な”滝の上に水現れて落ちにけり”がある。

 うららかに・・・の句は春の好日に本人の認知症検査が行われたのだろう。どんな検査かは知らないが、基本的なことがらを医師から問われて応える。あなたの両親の名前は、あなたの妻の生年月日は、など極めて本人にまつわるカテゴリー(キーワード)を聞かれたのだろう。それがうまく回答できたんではないか。健常者として俳句も詠んでいけるぞ、と。

メディアの方で評伝を掲載したのは朝日と毎日だけだった。
https://www.asahi.com/articles/ASN685R2NN68PTFC00W.html

 研ぎ澄まされた視点による写生俳句のほか、機知に富んだ洒脱(しゃだつ)な作品でも知られた俳人の後藤比奈夫(ごとう・ひなお、本名後藤日奈夫〈ごとう・ひなお〉)さんが5日、老衰のため死去した。103歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は長男立夫さん(故人)の妻久子さんと、長女岡田方子(まさこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。

 1917年、大阪市生まれ。俳人・後藤夜半(やはん)の長男。41年、大阪帝国大理学部卒。父に俳句を学び、俳誌「ホトトギス」「玉藻」に投句。54年から俳誌「諷詠(ふうえい)」編集兼発行人を務め、76年に父から主宰を継いだ。俳人協会副会長、同顧問などを歴任。06年、亡妻・恒子さんを詠んだ句集「めんない千鳥」で俳壇の最高賞といわれる蛇笏(だこつ)賞。15年に山本健吉賞。

 代表句に「東山回して鉾(ほこ)を回しけり」など。

ごぼうササガキの親鳥炒め2020年06月10日

 親鳥が賞味期限が今日とあるのでまたごぼうのササガキと炒めた。醤油と砂糖、酒で調味すると程よいつまみにもなる。炊き立てのご飯に混ぜると鶏めしにもなる。今時は冷蔵庫のものは傷みが早いの2日以内に食べ尽くせる量で良い。
 濾過水を作る水道の蛇口の汚れが目についたので分解して掃除した。水垢だろうか、黒い垢がプラスチックに溜まっている。バクテリアかも知れません。網も外すと中から砂片が出てくる。水道も水だけでないのだ。水道管内の錆かも知れない。日本の水道は安全とは言え、やはり濾過は必要である。

梅雨入り2020年06月11日

https://tenki.jp/news/ntv/20200610-07659312.html
 気象庁は10日午前、中国、近畿、東海地方の梅雨入りを発表しました。一方、九州や四国では大雨のおそれがあり、警戒が必要です。
梅雨前線が北上し、名古屋市内では、午前中から弱い雨が降っています。この先も、くもりや雨の日が続くことから、気象庁は、中国、近畿、東海地方で梅雨入りしたとみられると発表しました。各地で、平年より2日から3日遅い梅雨入りです。
一方、梅雨前線の活動が活発になっており、西日本では、11日にかけて、雷を伴った激しい雨が断続的に降り、大雨となる所がありそうです。
以下略
・・・というわけで、名古屋も昨日昼から雨。夜は窓の隙間を5センチ程度明けておいたが梅雨寒の感じで夏布団をかぶって寝た。今朝もどんよりして猿投山はすっぽり雲の中に入った。いよいよ雨の季節だ。今年はいきなり梅雨が来た。新緑の山歩きはほとんど味わうこともなく過ぎてしまった。本当は北アルプスなど高い山がまだまだ新緑を見せているはず。しかし体力が落ちているのでそれも向かう気力が今一だ。今夏はどうなるやら。

道迷いは遭難の複合要因の元2020年06月12日

 最近、赤い布切れの枚数を増やした。常備は10本だったがさらに10本追加した。なぜなら4月下旬から5月一杯も道迷いによる山岳遭難が激増しているからだ。肉体的にフレイルとなっていると思うので用心に越したことはない。

道に迷って山中を彷徨う内に

1 木の根っこにつまづいて転倒、最悪は骨折

2 体力の消耗でリカバリーができなくなり滑落し、打撲又は骨折

3 道迷いに心理的にあせってとんでもない方向へ行ってしまう

4 挙句の果てに山中で死亡する例が後を絶たない

5 迷うと沢筋ならやがて人家のある里に出られると素人考えで下ると、滝に遭遇し、尾根に逃げると急な崖に遭遇し、戻る事さえ困難になる。
奥美濃の名峰・冠山の遭難碑は急な降雪に慌てて沢を下り死亡した。(1955年(昭和30年)11月6日に沢沿いのルートで福井銀行員24名が遭難し、うち2名が死亡した事故)

6 藪で見通しが悪く、RFのために木に登ったが生木ではないために折れて転落死した事例(五蛇池山)があった。

7 登る際に、足元が照葉樹林の落ち葉で滑ったために体重を支えるために何気なくつかんだ細幹の木が腐っていたために折れて、100m以上滑落死した事例(鈴鹿の釈迦ヶ岳)

8 ノーザイルで登ることは出来ても下ることは困難と知る

 以上のように道迷いは単純な事故に思えるが複合的な遭難原因につながっている。言わば風邪は万病の元というごとく、道迷いは遭難の元なのである。

ワークマンで買ったTシャツ2020年06月13日

半袖ポロシャツ 吸汗速乾機能  黄緑は山の中で良く目立つ色です。780円。
 小雨降る中、以前から気になって居た作業着専門店「ワークマン」のショップに行ってきました。作業着は登山用の衣料と条件は同じながらデザイン、品質で今一だったが、最近はデザインも質感も向上したと聞いて、とりあえず、手袋を買って試そうかと入店した。
 無骨なデザインのズボンは相変わらずだが、スマートなデザインもある。何よりシャツ類がファッション性も加味されて物色するうちに値段の安さもあり衝動買い。
 来週末はいよいよ県外の鈴鹿で沢初めに行きます。それよりもこのお腹の出っ張りを凹ませたいがどうにもならない。運動量を増やしてゆくしかないだろう。

干し物やひねもす梅雨に取り込めず 拙作2020年06月14日

 一日降雨。洗濯物に手をやると湿っているのでそのままに置くとまた大降りになった。いつになれば取り込めるやら。否、室内干しにするか。

熱々のうなぎ釜飯馳走され 拙作2020年06月15日

 久々に山仲間に会う。
 仕事で北関東に長期滞在して、チャイナウイルスの感染著しい都市圏の宿泊業のスタッフで頑張っていた。今年前半の難しい期間を過ごしてきたが、地元採用の後継に譲って帰名できたそうだ。ホテル業界は今も大手のアパホテルが一泊2500円の投げ売り価格で宣伝しているそうだが苦境から脱するには期日がかかる。
 さてと昼食をともにと市内を回った。どこへ行くやらと思ったら鰻屋だった。鰻屋といえば東区山口町であるが、ここも老舗らしい。メニューは釜飯のみで、値段も結構張るが馳走してくれるので黙っていただいた。ほんとうに小さな釜にたれごと炊き込んであるから熱々である。一杯目は普通に鰻飯で食い、二杯目はだし汁と薬味にネギとわさびを入れて食べる。いわゆる名古屋名物といわれるひつまぶしである。
 梅雨晴れ間に一息つける御馳走であった。深謝。
 事務所は相変わらず仕事が入らず、だが、ファックスやらメールやらで情報が入ってきたので来週から営業もしていこうと思う。マイカーで行ったが、名城公園から栄間の地下鉄も60%くらいの乗車率で少し戻っている感じがする。名古屋経済が再始動するには今一早い。
 しかし、丸栄はきれいに解体が終わった。久屋大通りの再開発が始まっている。中日ビルも解体中だからこの恩恵があるにちがいない。錦三も通ってみたが賑わいが戻るのは早いだろう。こんな時期にこそ、新規開店の店もあるから新陳代謝が進む。楽観で行こう。

老残のこと伝はらず業平忌 能村登四郎2020年06月16日

 昭和24年の作。『秀句十二か月』(富士見書房)によれば、この句を詠んだヒントは梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観ての感動の余波という。王朝時代の美女小野小町は能でも「鸚鵡小町」「関寺小町」は「卒塔婆」とともに三小町老女と呼ばれて重い能であるが、すべて百歳の老女の小町が登場する。それにもかかわらず業平には老残の物語がなく、美男のまま終わっていることを詠ったものである。と解説している。以下、伊勢物語の解説を交えて業平に関する蘊蓄を傾けている。ただの俳人ではないな。

 「週刊朝日」6/19のマリコのゲストコレクションを読む。
1012のゲストは髙樹のぶ子氏。
芥川賞作家だが私には新発見の作家だった。話題は『業平 小説伊勢物語』(日本経済新聞社)2420円。古典の伊勢物語を小説で著したところがよく読まれているという。丸善で手に取ってみたが結構分厚い。和歌を中心に構成してあるが、立ち読みして衝動買いするまでもなく、元へ戻した。しかし気にはなる。
 内容よりも構成である。「調べ」を小説にしたと著者は言う。ねらいは音楽的調べを小説にしたとのこと。それが気になって立ち読みしに行ったわけだが、当方の受け入れ未だ熟せずという気がする。

p98 4段目最終行からp99 2段目まで

髙樹 難しい古典と格闘しなきゃいけないと思ったら、人は読んでくれないし売れないとおもうけど、業平の歌も人生も、ある種の音楽を聴くみたいな調べに乗って、流れにのってすらすら読めるようにしたから、取りつきやすいのかも知れない。やっぱり文体が必要。

林 文体ですね。
 
髙樹  略

林 日本人にちゃんとそういう素養があった。以下略

髙樹 略

中略

髙樹 西行とか鴨長明とか、江戸時代だと芭蕉とか、いわゆる隠遁者の美、貴種流離(故郷から遠く離れた地をさすらうこと)の美意識の源流をたどってゆくと、私は9世紀の業平にたどり着くんじゃないかと思ったのね。以下略
以上が印象に残った部分。
 文体といえば、永井荷風がいる。荷風も俳人である。調べという点で共通性がある。日本人に素養があったと林氏がいうように、上田三四二『短歌一生』(講談社学術文庫)の冒頭で、短歌を日本語の底荷だと思っている。と書く。林真理子氏のコメントと一致している。その後で俳句も日本語の底荷だと思う。と追記するのを忘れない。

 表題の句は夏の季語で旧暦の5月28日。同書も期日に間に合わせて5月12日に発刊されている。

あるサイトからコピペすると

 「平安時代初期の歌人・在原業平の880(元慶4)年の忌日。平城天皇の子の阿保親王の第5子で、在原姓を賜って臣籍に下った。

六歌仙・三十六歌仙の一人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手だったため『伊勢物語』の主人公とされている。枕を共にした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、才女の小野小町も名を連ねている。」

イベントもあるようだ。

「※中止※貴族・歌人の在原業平を偲ぶ。業平忌/不退寺
5/28(木)法要11:00~12:00

平安時代の貴族で、平城天皇の孫にあたる在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりのお寺・不退寺では、業平を偲んで命日に業平忌が執り行われます。弟の嵯峨天皇に譲位され、出家した平城天皇が萱葺(かやぶき)の御殿を造営した地でもあり、のちに仁明天皇の勅命で業平が不退寺を建立。現在は業平寺とも呼ばれています。当日は、本堂に業平画像を掛けて法要を厳修。毎年、歌の上達を願って和歌や俳句をたしなむ人も多く参拝します。重要文化財・多宝塔の特別開扉も。(写真提供:不退寺)」

愛知県知立市にゆかりの歌人として
「平安の歌人である在原業平が東下りの途中、八橋にさしかかり、かきつばたが一面に咲き乱れているのを見て【からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ】と詠んだ歌はかきつばたの5文字を折り込んでいるいることで有名で、広く文人や歌人に親しまれています。」

「在原業平は平安の歌人であり、六歌仙・三十六歌仙の1人です。
知立市内には在原業平ゆかりの地が多く点在しております。
●無量寿寺
●在原寺
●落田中の一松(かきつ姫公園内)
●業平池跡
●在原業平朝臣墳墓伝承地」

 俳人能村登四郎も業平の遺跡を歩いたという。まずは奈良の不退寺を訪ねてみよう。いやその前に知立市無量寿寺が先だ。自宅から約20kmありサイクリングに最適。汗と体脂肪を絞りたい。

門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

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ただ一人帆をあやつれり梅雨の海 拙作2020年06月18日

 歌手の橋幸夫さんのFBに素敵な海の写真がアップされた。湘南あたりだろうか。西日が落ちかかって海面に光の帯ができた。鈍色に光る海である。手前には浜辺が見えて、少し先にウインドサーフィンの若人が一人船に乗っている。わずかな風をあやつって海の上を滑らせる光景である。表題の句は写真に付けてみた。