老残のこと伝はらず業平忌 能村登四郎2020年06月16日

 昭和24年の作。『秀句十二か月』(富士見書房)によれば、この句を詠んだヒントは梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観ての感動の余波という。王朝時代の美女小野小町は能でも「鸚鵡小町」「関寺小町」は「卒塔婆」とともに三小町老女と呼ばれて重い能であるが、すべて百歳の老女の小町が登場する。それにもかかわらず業平には老残の物語がなく、美男のまま終わっていることを詠ったものである。と解説している。以下、伊勢物語の解説を交えて業平に関する蘊蓄を傾けている。ただの俳人ではないな。

 「週刊朝日」6/19のマリコのゲストコレクションを読む。
1012のゲストは髙樹のぶ子氏。
芥川賞作家だが私には新発見の作家だった。話題は『業平 小説伊勢物語』(日本経済新聞社)2420円。古典の伊勢物語を小説で著したところがよく読まれているという。丸善で手に取ってみたが結構分厚い。和歌を中心に構成してあるが、立ち読みして衝動買いするまでもなく、元へ戻した。しかし気にはなる。
 内容よりも構成である。「調べ」を小説にしたと著者は言う。ねらいは音楽的調べを小説にしたとのこと。それが気になって立ち読みしに行ったわけだが、当方の受け入れ未だ熟せずという気がする。

p98 4段目最終行からp99 2段目まで

髙樹 難しい古典と格闘しなきゃいけないと思ったら、人は読んでくれないし売れないとおもうけど、業平の歌も人生も、ある種の音楽を聴くみたいな調べに乗って、流れにのってすらすら読めるようにしたから、取りつきやすいのかも知れない。やっぱり文体が必要。

林 文体ですね。
 
髙樹  略

林 日本人にちゃんとそういう素養があった。以下略

髙樹 略

中略

髙樹 西行とか鴨長明とか、江戸時代だと芭蕉とか、いわゆる隠遁者の美、貴種流離(故郷から遠く離れた地をさすらうこと)の美意識の源流をたどってゆくと、私は9世紀の業平にたどり着くんじゃないかと思ったのね。以下略
以上が印象に残った部分。
 文体といえば、永井荷風がいる。荷風も俳人である。調べという点で共通性がある。日本人に素養があったと林氏がいうように、上田三四二『短歌一生』(講談社学術文庫)の冒頭で、短歌を日本語の底荷だと思っている。と書く。林真理子氏のコメントと一致している。その後で俳句も日本語の底荷だと思う。と追記するのを忘れない。

 表題の句は夏の季語で旧暦の5月28日。同書も期日に間に合わせて5月12日に発刊されている。

あるサイトからコピペすると

 「平安時代初期の歌人・在原業平の880(元慶4)年の忌日。平城天皇の子の阿保親王の第5子で、在原姓を賜って臣籍に下った。

六歌仙・三十六歌仙の一人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手だったため『伊勢物語』の主人公とされている。枕を共にした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、才女の小野小町も名を連ねている。」

イベントもあるようだ。

「※中止※貴族・歌人の在原業平を偲ぶ。業平忌/不退寺
5/28(木)法要11:00~12:00

平安時代の貴族で、平城天皇の孫にあたる在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりのお寺・不退寺では、業平を偲んで命日に業平忌が執り行われます。弟の嵯峨天皇に譲位され、出家した平城天皇が萱葺(かやぶき)の御殿を造営した地でもあり、のちに仁明天皇の勅命で業平が不退寺を建立。現在は業平寺とも呼ばれています。当日は、本堂に業平画像を掛けて法要を厳修。毎年、歌の上達を願って和歌や俳句をたしなむ人も多く参拝します。重要文化財・多宝塔の特別開扉も。(写真提供:不退寺)」

愛知県知立市にゆかりの歌人として
「平安の歌人である在原業平が東下りの途中、八橋にさしかかり、かきつばたが一面に咲き乱れているのを見て【からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ】と詠んだ歌はかきつばたの5文字を折り込んでいるいることで有名で、広く文人や歌人に親しまれています。」

「在原業平は平安の歌人であり、六歌仙・三十六歌仙の1人です。
知立市内には在原業平ゆかりの地が多く点在しております。
●無量寿寺
●在原寺
●落田中の一松(かきつ姫公園内)
●業平池跡
●在原業平朝臣墳墓伝承地」

 俳人能村登四郎も業平の遺跡を歩いたという。まずは奈良の不退寺を訪ねてみよう。いやその前に知立市無量寿寺が先だ。自宅から約20kmありサイクリングに最適。汗と体脂肪を絞りたい。