高麗船(こまぶね)のよらで過行霞哉 蕪村2020年04月26日

 高麗船が港に入るのかと思ったら、寄らないで行ってしまった。春の夢か霞か。「よらで過行」は蕪村的表現のひとつ。何か為そうとするときの躊躇感、なさずに済ましてしまった悔恨、質素な奥ゆかしさ。

コトバンク:高麗の国の船。朝鮮の船。また、高麗の国に渡海するための船。

https://daisukepro.exblog.jp/30046290/
「朝鮮人来朝図」という江戸時代の絵があります。朝鮮通信使の一行に、警護や案内役の対馬藩士を加えると2000人もの大行進。ラッパや銅鑼(どら)、太鼓。楽隊の演奏にあわせて江戸町人の歓声が聞こえてくるようです
▼外交使節団である通信使が李朝から徳川幕府に初めて派遣されたのは1607年。その後、200年余の間に12回の派遣があったとされています。朝鮮の首都・漢城(現ソウル)から江戸を往復する、ときに1年近くにも及んだ長旅は、善隣友好の証しでした
▼「信(よしみ)を通(か)わす」という通信は、親しく交わる意味をもちます。
〈高麗船(こまぶね)の寄らで過ぎ行く霞(かすみ)かな〉。江戸中期の俳人・蕪村は通信使の船が港に寄らなかったことを残念がるような句を詠んでいます

・・・・蕪村は京都住まいだった。一方で朝鮮通信使の船は対馬から瀬戸内海を航海して淀川を遡り、江戸へ向かったと思われる。
ネットでは
「『朝鮮通信使と江戸時代の三都』(仲尾 宏/著 明石書店,1993.8)p.75に「江戸時代の使節が毎回数百名にのぼる大規模な使節団であって、釜山より大型の船団を仕立てて瀬戸内海を東進し、大坂で川船に乗り換え、山城国伏見まで淀川を遡行する必要があった」、p.105に「朝鮮使節が大坂の地に一歩を踏みだすことになるのは土佐堀川南岸、難波橋よりやや上流の地点である」という記述があります。
『朝鮮通信使がみた日本』( 姜 在彦/著 明石書店,2002.6)p.107-119に、1624年の釜山から江戸までの路程の記述があります。p.111に「十一月十五日に大坂の尻無川河口のの店浦(伝法)に着いた。ここから大坂までは、吃水線の浅い川御座船に乗り換えた。」という記述があります。
『李朝の通信使 : 江戸時代の日本と朝鮮』(李 進煕/[著] 講談社,1976.6)p.134-139に尻無川の河口から西本願寺までの道のりについての記述があります。」
・・・高麗船は大きいので瀬戸内海で停泊。川舟に乗り替えて京都に向かった。それを残念がり、霞の季語に託したのだろう。

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