吉田絃二郎の文学碑『島の秋』2020年01月31日

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吉田絃二郎(1886~1956)の生涯から

    対馬時代 兵役期 (1906-1908 年)
 念願の早稲田大学文学科に入学するが対馬要塞砲兵大隊に入隊。国境の孤島での兵役生活をおくる。
明治 36 年佐賀工業学校卒業後、佐世保海軍工廠に働くが 38 年1月・向学心に燃える絃二郎は貧苦の中上京を決意し、ついに早稲田大学第二高等予科に入学。39 年9月待望の早稲田大学文学部入学。同年、徴兵検査の結果甲種合格。12 月1年志願兵として対馬要塞鷄知砲兵大隊に入隊。
 つづいて、41 年見習士官として重砲兵大隊に入る。陸軍砲兵少尉任官。国境の地対馬の練兵は激しかったが、生活は安定し幸福な時代であった。ただ、夜となく昼となく寒い朝鮮風が吹き荒れて、山は鳴り海は吼える玄海の孤島での日々は、度々郷愁に取りつかれることもあったが、これを慰めてくれるのはアルバイト先の東京神田の設計事務所で知り合った女性、後の明枝夫人からの便りや慰問の品々であった。
 後に、文学者として確乎たる位置づけをした短編小説「磯ごよみ」・「島の秋」はここを舞台としたもので、昭和 32 年上見坂公園内に、島の秋文学碑が建立され、対馬の人々の絃二郎に寄せる真情が窺われる。
■「島の秋」・・・自作について 絃二郎
 「対馬の兵営生活時代に、漫々たる玄海の波を眺め日から日、夜から夜と孤島の山の背をたどりながら行軍をつづけたころ感じた島の印象を叙情詩的な気分で描いてみようと試みた。」 私は、解剖のメスを持つ科学者の眼で人生を見ないで、直感の境に於いて自然と瞑合する詩人の心を持って人生を見たい。
 この心から出発して静観した私の人生はいつも死と悲哀と流転の相を背景として、刹那より無限に暗い一路を辿っているものであった。
以上
 対馬の地政的な経緯と吉田の動きを時系列に並べてみた。対馬の要塞化の経緯が分かる。吉田は山歩きも好きだった。山の随筆も残している。これも『日本風景論』の影響である。同時代の文人に俳人・前田普羅がいる。山岳俳句で一世を風靡した。友人には俳人・飯田蛇笏も要る。吉田、前田、飯田は偶然だが早稲田大学英文学の出だった。大正昭和の激動の時代の空気を一杯吸いながら文学に生きた。

明治23年 有明山の一等三角点選点
明治24年 御岳の一等三角点選点
明治24年 観音岳の一等三角点選点
*対馬の五万分の一の地形図作成のための三角点測量がはじまった。
明治27年 志賀重昂『日本風景論』発刊
*約15年間のロングセラー、15刷を重ねた。
明治32年 要塞地帯法制定
明治37~38年 日露戦争
明治38年 日本山岳会設立
明治39年 吉田絃二郎 早大に進学
明治39年 吉田絃二郎 志願兵として対馬に入営
明治43年 朝鮮併合
大正元年 五万図「厳原」等測量
大正5年 『島の秋』を早稲田文学に発表

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