司馬遼太郎・街道をゆく『壱岐・対馬の道』を読む2019年09月23日

 HPから目次をコピペする。
【壱岐・対馬の道】対馬の人/壱岐の卜部/唐人神/宅麿のこと/壱岐の田原/郷ノ浦/豆腐譚/曾良の墓/曽祖父の流刑地/神皇寺跡の秘仏/風濤/志賀の荒雄/厳原/国昌寺/対馬の〝所属〟/雨森芳洲/告身/溺谷/祭天の古俗/巨済島/山ぶどう/佐護の野/赤い米/千俵蒔山/佐須奈の浦

 この中の対馬の”所属”、雨森芳洲を読んだ。p165から申維翰(しんゆはん)の『海游録』(東洋文庫252)を引いて、朝鮮人と日本人の考え方の違いを解説する文は、現代にも通じる。芳洲はこの人物の扱いに困惑した。対馬藩主は申と会わずにことを治めた。
 申は現代でいえば、文大統領だ。申は朝鮮人官僚を自縄自縛してしまったというのだ。これもまた儒教の弊害であろう。福沢が「封建制は親の仇」と嘆いたのも儒教の毒が回った封建制のことである。新しい時代を開明してゆくには儒教は弊害になる。戦前の李氏朝鮮は日本が徹底的に儒教を叩き壊したから発展を見たがしょせん自分の頭ではなかったから今に至るまで抵抗がある。

 芳洲は長寿を得てこの対馬の土になった。長寿院に葬られた。「市指定史跡。江戸時代有数の儒学者として知られた人物の墓。」と紹介されている。
 対馬に曽良の墓があるとは意外だ。観光用HPには「江戸幕府の命により諸国の実態調査員である巡見使に任命された河合曽良は1710年、この任務のため壱岐に渡った際、病に倒れ、この地に没しました。」とあるからホントに死んだのだろう。

・・・対馬には1等三角点が3座あり、最高点の矢立山648m、白嶽なども良い山だ。いつかは登山と芳洲の墓を訪問する目的で行きたい。
 俳人の高浜虚子も訪れている。こんな句碑もある。
 
 「上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、

     「対州は 大山国や ほととぎす」   虚子

島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と」