北信濃俳句紀行 ― 2019年01月26日
四日目(1/24)はとことんスキーを楽しもうという組と帰る組に分かれた。東京へ帰る人らは朝食後宿の車で妙高高原駅まで送ってもらった。私はスキーは堪能したので今日はのんびりと道草を食いながら、帰名することにした。まずはマイカーの周囲の除雪が一仕事だった。天井は約1mは積もっただろう。エンジンは一発でかかったので安心した。
除雪を終えて荷物を積み込んだ。8時30分過ぎに出発。最初は信濃町にある一茶の記念館を見学する。9時30分過ぎに入館。何分この時期は見学者もいないらしい。入館料は500円のところ暖房もしていないというので250円にしてくれた。順路にそって見学すると一茶の生涯を学ぶことができる。投句コーナーでは即吟で3句を投句しておいた。開封と選句は秋だそうな。「楽しみにしていてください」と係員がいう。受賞すればまた登山を兼ねて訪問するか。
”これがまあ終の棲家か雪五尺” 小林一茶
の観賞はこの時期でないと実感は得られない。まだ5尺(150センチ)にはならないが累積では降雪しているだろう。駐車場の奥の雪捨て場は堆く積んでいる。
生涯の苦労が俳句ににじみ出ている。俳句で孤独を癒されたであろう。俳句の縁で多数の他人とつながり、名声も得た。人生は何が幸いするか分からない。
次はR18を回避して県道37号で善光寺へ直行した。小高い丘からは雪の善光寺平に見えたが、平地に下ると雪はない。いつぞやのPに止めて善光寺へお参りした。ここでも外人が多い。
次は松本市の杉田久女の句碑である。松本城のPに止めて、城山(じょうやま)公園まで徒歩で訪ねた。若干の登りはスキーで体が揉み解されたけれど、登っていないためにエネルギーの発散不足気味を解消した。句碑は松本市街を俯瞰する小高い丘の上に建っていた。さらに目を転ずると雪嶺の常念岳が見えた。
この景色か、久女が好きだったのは。
”あじさいに秋冷いたる信濃かな” 杉田久女
という格調高い句にふさわしい地である。
句碑を辞して、近くにある久女の墓にも行った。分かりにくいが、赤堀家の墓の隅の小さな墓に、1月21日の久女忌を修した供花が残されていた。思わず手を合わせた。こんな時期でもちゃんと修されている。久女ファンは多いのだ。山が好きなだけでなく父親の出であることが分骨の理由であろう。
湯本明子『俳人 杉田久女の世界』(1999年 本阿弥書店)によれば、冒頭の縁(えにし)の項で、小原村の墓、次いで松本市の墓が紹介されている。「久女の墓」の墓碑の筆は虚子の手になるという。分骨の骨を拾ったのは父親だったという。その遺志を実現したのは娘の石昌子であった。
石昌子の夫は日本山岳会会員の石一郎(『山岳』第36年第2号に会員番号1944と掲載。昌子も会員番号1945で正会員である。)といい、ウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者であった。昌子も「岳人」に寄稿している。昌子の句碑も墓も小原町松名にある。娘の手により久女は納まる所に納まったのだ。
道草を終えるともう4時。そろそろ帰名につかなきゃ。R19で木曽を経て帰った。
除雪を終えて荷物を積み込んだ。8時30分過ぎに出発。最初は信濃町にある一茶の記念館を見学する。9時30分過ぎに入館。何分この時期は見学者もいないらしい。入館料は500円のところ暖房もしていないというので250円にしてくれた。順路にそって見学すると一茶の生涯を学ぶことができる。投句コーナーでは即吟で3句を投句しておいた。開封と選句は秋だそうな。「楽しみにしていてください」と係員がいう。受賞すればまた登山を兼ねて訪問するか。
”これがまあ終の棲家か雪五尺” 小林一茶
の観賞はこの時期でないと実感は得られない。まだ5尺(150センチ)にはならないが累積では降雪しているだろう。駐車場の奥の雪捨て場は堆く積んでいる。
生涯の苦労が俳句ににじみ出ている。俳句で孤独を癒されたであろう。俳句の縁で多数の他人とつながり、名声も得た。人生は何が幸いするか分からない。
次はR18を回避して県道37号で善光寺へ直行した。小高い丘からは雪の善光寺平に見えたが、平地に下ると雪はない。いつぞやのPに止めて善光寺へお参りした。ここでも外人が多い。
次は松本市の杉田久女の句碑である。松本城のPに止めて、城山(じょうやま)公園まで徒歩で訪ねた。若干の登りはスキーで体が揉み解されたけれど、登っていないためにエネルギーの発散不足気味を解消した。句碑は松本市街を俯瞰する小高い丘の上に建っていた。さらに目を転ずると雪嶺の常念岳が見えた。
この景色か、久女が好きだったのは。
”あじさいに秋冷いたる信濃かな” 杉田久女
という格調高い句にふさわしい地である。
句碑を辞して、近くにある久女の墓にも行った。分かりにくいが、赤堀家の墓の隅の小さな墓に、1月21日の久女忌を修した供花が残されていた。思わず手を合わせた。こんな時期でもちゃんと修されている。久女ファンは多いのだ。山が好きなだけでなく父親の出であることが分骨の理由であろう。
湯本明子『俳人 杉田久女の世界』(1999年 本阿弥書店)によれば、冒頭の縁(えにし)の項で、小原村の墓、次いで松本市の墓が紹介されている。「久女の墓」の墓碑の筆は虚子の手になるという。分骨の骨を拾ったのは父親だったという。その遺志を実現したのは娘の石昌子であった。
石昌子の夫は日本山岳会会員の石一郎(『山岳』第36年第2号に会員番号1944と掲載。昌子も会員番号1945で正会員である。)といい、ウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者であった。昌子も「岳人」に寄稿している。昌子の句碑も墓も小原町松名にある。娘の手により久女は納まる所に納まったのだ。
道草を終えるともう4時。そろそろ帰名につかなきゃ。R19で木曽を経て帰った。
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