長い疑いの末に直観的に仮説が生まれる(梅原 猛)2019年01月19日

 2019年1月12日死去。哲学者として古代史分野で大胆な仮説を立てて来た人。
https://www.sankei.com/west/news/190114/wst1901140004-n1.html

 梅原さんの知的好奇心はとどまるところを知らず、これまでの文明史観、歴史観を根底から覆す大胆な独自の学説は「梅原日本学」と呼ばれた。国際日本文化研究センターの設立にも尽力し多くの後進も世に送り出した。

 梅原さんは、哲学者の西田幾多郎にあこがれ京大の哲学科に入学。やがて哲学から、古代史、歴史、日本研究へと関心を広げていく。昭和44年、学園紛争を機に立命館大学を去ったのを機に、浪人生活を送った3年間に書き上げた論文が、梅原さんの名前を高めることになった。
 それは記紀論を執筆するうえで飛鳥・奈良時代の実力者、藤原不比等(ふひと)(659~720年)を調査するうちに、芽生えた古代史への疑問だった。そこから、法隆寺建立の謎に迫る「隠された十字架」(昭和47年)、宮廷歌人、柿本人麻呂の死の謎に迫る「水(みな)底(そこ)の歌」(48年)が生まれた。現在では、これらは「梅原古代学」「梅原怨霊史観」として高く評価されているが、当初は研究者から批判されるなど、反響を呼んだ。

 自らの研究にとどまらず、日本研究をもっと学際的に国際的にやりたいとの思いから、昭和53年には、「日本学の真のアカデミズム」をかかげ、日本文化研究所設立構想をまとめ上げ、仏文学者の桑原武夫さん、民族学者の梅棹忠夫さんとともに設立に向けて奔走。文部省(現文部科学省)に何度も掛け合うが進展しないため、当時の中曽根康弘首相に直談判、大きく動き出す。
 62年5月、国際日本文化研究センター(京都市西京区)が設立され、初代所長に就任。3期8年務め、その間、河合隼雄さん、山折哲雄さん、芳賀徹さん、井上章一さんら日本の人文科学分野を牽引(けんいん)する人物が日文研に集まった。
 海外からの研究者にも積極的に門戸を開き、ドナルド・キーンさんら優秀な研究者が次々と集まった。
 平成2年には、政府の脳死臨調の委員に就任し、「法律が人間の死を決めるべきではない。『死とは何か』という議論が十分になされていない」と少数派として法案に反対し続けた。

 また、「仏教は無用の殺生は許していない」として長崎県の諫早湾干拓や、三重県の長良川河口堰建設問題では反対を唱えた。

 平成25年5月には、米寿を記念した講演で「人類哲学序説」を出版したことに触れ、「私の尊敬する白川静先生は96歳まで生きられた。私もまだまだ長生きして、『本論』を書きたい」と話していた。