師走の東京から大阪の街を駆ける2018年12月03日

 11/30の夜は、愛知岳連主催の遭難を考えるの講演を聞いた。
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-820.html
 山岳ガイドを業とする小川さゆり氏から突然の噴火にどう対応し、どう生還したのかの話を聞いた。
 結論は「自立した登山者になりなさい」ということだった。
 それなら小ブログに掲げる跡部昌三氏の言葉と同じことになる。
 「その五体を安全に守ってくれるのが、山の常識であり、山の技術である。知識だけではなく、ことにのぞんで反射的に行使されるまでに身についていなくてはならない。それは何も高度な技術を要求していない。
 要するに山での危険というものは、山にあるのではなくて登山者自身にのうちにある、ということを、はっきり知っておくことである。」
 豊富な画像から得られたのは山頂付近に群れる登山者・・・というよりもハイカーの鈍感さに驚愕する。みんなが行くから登る。それで遭難すると行政の責任を問う。自己責任の自覚のない関係者は誰かの責任にしたい。実際、この件で訴訟が始まっている。
 この結果、行政は登山計画書、ヘルメットの携行を必須にせざるを得なくなった。気楽な登山が重々しいものになった。
 確かに多勢の登山者が死んだ事実は重いものがある。しかし、それは自然災害であるから仕方の無いことである。以前にも書いたが火山の山の開発をまずは中止することだ。生活のために観光開発をするのだがこうして災害が発生すると予知などできないのだから。
 そして、今年登山が解禁されると再び山頂付近に群れる登山者が列をなした。また噴火するかも知れないのに。もはや1日に30人とか、山頂は10人までとか、許可制にしないと安全は確保できない。

 講演後は、車で中央道を走り、東京へ向かった。諏訪SAで休止、うるさいのでもう一つ先のPAで6時まで仮眠。小金井で出て、中央線沿線のPに長時間の駐車をする。1日24時間で700円なら安い。
 JACの年次晩餐会に出席し、全国から参集した知己の会員と旧交を温めた。今年は皇太子殿下の最後のご臨席を期待したが講演会のみ聞かれて晩餐会へはお見えにならなかった。
 晩餐会は10のテーブルで私の席は常念岳の名前があった。それぞれ自己紹介しながら親交を深めた。二次会で更に親交を深めた後、バスタ新宿発24:25の中央道経由の夜行バスで帰名。新幹線が楽だが、料金5360円の魅力?には勝てない。

 12/2の朝5時40分の定刻どおりに金山駅前に到着。丸の内の事務所でしばしの休養。礼服に着替えて、新幹線で大阪駅に向かった。これは5830円であっというまに大阪に着く。さて駅前のビルというのだが看板にも掲載されず、さっぱり土地勘が働かず、電話で誘導してもらった。高層ビルの33Fという。着いて見ると、ガラス張りの部屋になっていてこんなところでどうやるのか。
 式が始まると、今までの式場とは一味違った演出に関心もした。動画撮影者が付きまとい、すぐ記録されてしまうのも今の時代を物語る。式後は直ちに新幹線で帰名。やっと終わった。

 師走の大都会3都を駆け抜けた。本当にくたびれた。新宿へ何しに行ったのか、人を見に行ったように本当に人が多い。明暗がない。裏町もごった返すように、後から押し出されるように動く。大阪も人が多い。しかし、少しはゆっくりしている。名古屋も多いが明暗がはっきりしている。多いところは多いが裏町に入ると寂れた気がする。

玄冬の経ヶ峰を歩く2018年12月10日

 中国の五行説では四季を青春、朱夏、白秋、玄冬に分類する。
 ウィキぺディアは「四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。」とある。
 
 12/8は亀山市の関ロッジで山岳会の忘年会をやった。9人のこじんまりとした集まりだったが、山に近い会場に集うことに意義がある。12/9には会場に近い経ヶ峰に登った。参加者は8名で皆60歳代後半の人ばかりになった。
 ネットには「生涯において最後の時期、老年時代を指す言葉として用いられる。具体的には60代後半以降と定義」されるからわれわれは玄冬の山旅をしたのだ。

 登山口は地形図で笹子川独標371ポイント付近。ここから笹子谷左岸の林道歩きがしばらく続く。北笹岳とか笹子山などの登山口標がある。林道を詰めると谷を渡渉して尾根に付いた急な山道に入る。
 枯れススキのきれいなところに着くと背景も見えてくる。鹿避けの扉の開閉もあり、鹿の繁殖が凄いのだろう。誰かが蛭もいるだろうという。多分??。
 山道は平坦になり、稲子山分岐をチエックすると湿地帯を抜けて山小屋に着く。ハイカーのオアシスになっている。多くのパーティーが小屋で休み、会食を楽しんでいた。
 
 古代インドでは「50歳~75歳 仕事や家庭から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期」を林住期と呼んだ。また「75歳~100歳 林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期」は遊行期と呼んだ。
 まだ遊行期には少し早い。この小屋が人気があるのは林住期に重なる要素があるからだろう。若い人でも泊りに来たいと言った。
 小屋の囲炉裏を眺めていると、中国の詩人・白居易または白楽天の詩を思う。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」がある。「林の中で落ち葉で酒をあたためて飲み、秋の風情をたのしむ。」の意味である。
 登るだけではない楽しみ方はまだまだある。
 
 当会の忘年山行も昔は山上までコンロ、コッヘル、食料を持ち上げてやっていたが、老いてからはPに近い小屋になり、更に布団、風呂付のロッジに格上げしてきた。
 焚火はないが、ストーブを焚いているので暖かい。疲れも癒される。体も温まり、小屋を辞して、山頂に向かった。すぐだった。素晴らしい展望である。南にはお局さんが端麗な山容でおすまし中である。その右は台高山脈の山々である。布引山地の最高峰の笠取山は風力発電の山に様変わりした。鈴鹿山脈はどうも凍て雲に覆われて小雪が舞っているだろう。
 昔は経を格納する石室のイメージがあったが、今は枯れ芝に覆われて入り口らしきものはない。新たに木造の展望台も設置されてくるたびに整備されている。登山道も格段に整備が行き届き、ハイカーも多いと思う。
 この山は「岳人」を創刊した伊藤洋平の初登山の山であった。津市の医家に生まれ、旧制中学時代にこの山に初登山、その後も鈴鹿の山々に登った。八高、京大医学部に進み、医学生の時に「岳人」を創刊。すぐに中部日本新聞に移管、中日新聞、東京新聞を経て、今はモンベルが刊行中だ。伊藤洋平の志を守る意思は固い。伊藤洋平は日本山岳会東海支部でも在籍するが、愛知県がんセンターの医師としても活躍を期待されたが、62歳の若さで死んだ。この山頂から遥かなるアンナプルナへと旅立った。
 小屋番の山日記の「伊藤洋平『回想のヒマラヤ』を読む」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/12/03/7934654

 稲子山分岐まで戻って、稲子山を目指す。破線路はあるが廃道であり、テープのマーキングが頼りになる。笹子谷右岸の杖型の林道地点に下山する。途中、鹿の遺骸を見る。地中に埋設するべきだが皮だけが廃棄されていた。今は狩猟シーズンなので注意したい。Wリーダーの尻皮は後ろ姿だけだと獣に間違われて撃たれるぞ、と脅したら女性陣の喧騒でそれはない、ということになり大笑いして、忘年山行を終えた。

猿投山彷徨2018年12月16日

 昨年5月16日に猿投山の瀬戸市側にマイカーを止めたまま行方不明になったAさんの消息は未だ分からない。仕事も雑用も一段落した15日には久々に猿投山の北麓を歩いてみた。
 8時に猿投駅でYさんを拾い、雲興寺でKさんと落ち合った。9時30分過ぎに窯跡を出発。Aさんの情報を求める看板は今も風化しつつも残されていた。
 左手の尾根に取り付く。どんどん登ってしまうので少し戻って平らな地形の尾根をかすかな踏み跡をたどって東側の谷に乗り越してみた。明瞭ではないが山仕事様の道形が残る。Aさんはこんな道を見出しては変化を楽しんでいたのではないか、との思いである。
 しばらくは谷沿いの林道を歩いた。地形図で目星を付けておいた谷に入った。猿投山の北尾根が脊梁のように支尾根を広げる。中でも530m付近から東に伸びる尾根はいくつもの谷を抱える。北の谷は西へ南へと長い。ここをまずはたどって見た。歩いた感じでは赤テープが残っているのでもの好きがバリで歩いたのであろう。充分に登路に使える谷で危険な個所はないまま源流に突き上げた。そのまま尾根を下ってもよかった。そこには赤と黄のテープがあったからだ。一旦北尾根に出てみたが北風の寒さに閉口して支尾根に戻った。そして破線路の林道がかぎ型に曲がる所へすとんと下った。浅い谷が小滝になっているので、スリングを足して確保した。今日の捜索は空振りに終わった。せめて靴とか、着衣の端きれでも見つからないか、との期待も空しく帰路についた。
 この破線路の詰まる谷が残った。地形図で見る以上に高度感があって深い谷である。また来てみようか。
 瀬戸市に住むKさんとはここで別れた。まだ日が高いのでYさんを猿投温泉に誘った。つい先日もらったばかりの無料入浴券2枚を使わせてもらった。温泉は温まる。猿投駅まで送って久々の三河路を走った。

認知症と慟哭2018年12月19日

 下記に引用したのは芥川の小説「ハンケチ」です。その一こまを読んでも人間は本当に悲しいときは泣かないものなのですね。小津安二郎もそんなことを書いていたっけ。

 仕事で関与するある老婦人は災難に遭っても泣かずに返って笑った。3度3度のご飯が食べられたら良いわと、微笑した。しかしこれもある介護福祉士によれば認知症ゆえに出る表情と言うのである。
 社会福祉乃至介護福祉はこれから急増する仕事の分野である。なまじっかな知識があるために深層心理を無視する。認知症と決めつける怖さ。心の中の慟哭に寄り添う気持ちが必須と思う。真の人間の心理を知らないと心のすれ違いとなって、認知症はますますひどくなるに違いない。心を閉ざすのである。精神障害者だと意思疎通がうまくいかないとこの場面で暴力をふるうことになる。


   小説「手巾」から     芥川龍之介

 ――何しろ、手のつくせる丈だけは、つくした上なのでございますから、あきらめるより外は、ございませんが、それでも、あれまでに致して見ますと、何かにつけて、愚痴が出ていけませんものでございます。
 こんな対話を交換してゐる間に、先生は、意外な事実に気がついた。それは、この婦人の態度なり、挙措きよそなりが、少しも自分の息子の死を、語つてゐるらしくないと云ふ事である。眼には、涙もたまつてゐない。声も、平生の通りである。その上、口角には、微笑さへ浮んでゐる。これで、話を聞かずに、外貌だけ見てゐるとしたら、誰でも、この婦人は、家常茶飯事を語つてゐるとしか、思はなかつたのに相違ない。――先生には、これが不思議であつた。
  中略
 何かの拍子で、朝鮮団扇が、先生の手をすべつて、ぱたりと寄木モザイクの床の上に落ちた。会話は無論寸刻の断続を許さない程、切迫してゐる訳ではない。そこで、先生は、半身を椅子から前へのり出しながら、下を向いて、床の方へ手をのばした。団扇は、小さなテエブルの下に――上靴にかくれた婦人の白足袋の側に落ちてゐる。
 その時、先生の眼には、偶然、婦人の膝が見えた。膝の上には、手巾を持つた手が、のつてゐる。勿論これだけでは、発見でも何でもない。が、同時に、先生は、婦人の手が、はげしく、ふるへてゐるのに気がついた。ふるへながら、それが感情の激動を強ひて抑へようとするせゐか、膝の上の手巾を、両手で裂かないばかりに緊かたく、握つてゐるのに気がついた。さうして、最後に、皺くちやになつた絹の手巾が、しなやかな指の間で、さながら微風にでもふかれてゐるやうに、繍ぬひとりのある縁ふちを動かしてゐるのに気がついた。――婦人は、顔でこそ笑つてゐたが、実はさつきから、全身で泣いてゐたのである。
 団扇を拾つて、顔をあげた時に、先生の顔には、今までにない表情があつた。見てはならないものを見たと云ふ敬虔けいけんな心もちと、さう云ふ心もちの意識から来る或満足とが、多少の芝居気で、誇張されたやうな、甚はなはだ、複雑な表情である。
 ――いや、御心痛は、私のやうな子供のない者にも、よくわかります。
 先生は、眩まぶしいものでも見るやうに、稍やや、大仰おほぎやうに、頸を反らせながら、低い、感情の籠つた声でかう云つた。
 ――有難うございます。が、今更、何と申しましても、かへらない事でございますから……
 婦人は、心もち頭を下げた。晴々した顔には、依然として、ゆたかな微笑が、たたへてゐる。――

北八ヶ岳のしらびそ小屋に泊る2018年12月22日

 30歳代に北八ツの西側からはよく登ったけれど、東側の登山道は真教寺尾根を登っただけで他はトレースしたことはない。それは交通の不便さが第一である。それでも八ヶ岳の地形図を眺めながら、しらびそ小屋にはいっぺんは泊って見たいと念願していた。
 あらからほぼ30年経過して、私も来年は古稀を迎える年ごろになった。登山者としての余命はそんなに長くはない。死ぬまでに1度は泊って見たい小屋になった。それは山岳会の12月の定例会でS君からの提案があったことから急に決まった。S君は八ヶ岳が大好きである。好みが一致して実現することになった。
 12/21朝7時過ぎ、集合場所の金山駅前を3人で出発。高速道路をひた走ると、長坂ICを経由してR141に合流した。そこからの見慣れない八ヶ岳連峰の主峰の赤岳は圧巻である。
 登山口のミドリ池入口に9時過ぎに到着。幸い積雪は少なく楽に走れた。昔からの登山口の稲子湯にも寄って見た。静まり返っていた。入り口に戻り、9時30分にゲートを出発。最初はカラマツ林の中の登山道と交錯する林道を登る。林相はシラビソに変わり源流の音が近づく。やや急な道を登りきるとストーブの煙の臭いが漂うミドリ池湖畔のしらびそ小屋に着いた。2時間10分であった。
 小屋には小屋主の奥さんが1人でお留守番であった。平日の今夜のお客は我々3人だけの貸し切りである。夕食は5時半からという。さっそくクマザサ茶がふるまわれた。夕食までのヒマは美味しいコーヒーと談話で過ぎて行った。いつの間にかあてがわれた部屋には暖房が入った。寝不足もあってうとうと寝入ってしまった。夕食になり、起きて食事。奥さんの山の話が面白かった。
 また13歳離れた御主人とのなれそめの話も面白い。何と東京都出身だそうである。「親の話は聞いておくもんだ」と意味深なことをつぶやかれた。20歳代で山小屋経営者にあこがれて結婚したことを後悔しておられるんだろうか。私は「30歳代になれば、智恵がつくからね」と応じた。青春時代の一途な心は尊いもの、大切にしてほしい。
 翌朝、5時起き、外は雨に変わった。窓から見るミドリ池も若干融雪してしまい、氷も解けたであろう。今日のニュウへの登山は早々と中止に決定した。朝食は5時30分になった。それも済ますと後は奥さんと話をしてのんびり時間を過ごした。
 山口耀久の名前を出すと、即座に有名な『北八ツ彷徨』の書名が出てきたのはさすがだ。しかし、意外なことも口にされた。山口さんの筆になる看板は息子さんが取り払ったそうだ。なぜなんだろう。山口さんの文体も読みづらいと余り評価は高くない。確かに思索的な点でスイスイ楽しめる文章ではない。
 随分としらびそ小屋での滞在時間を楽しんだ。下山したくなかったが、9時を回るとそうも行っておれず下山した。そうしたら入れ代りに続々登って来た。ミドリ池入口のPに戻って身支度を整えた。帰路は八峰の湯(ヤッホーの湯)を浴びてさっぱりする。ついでに昼食もとった。副食に名物の鯉の旨煮を付けて郷土の味を楽しんだ。
 R141に出て、途中で野辺山駅に寄った。ここからの八ヶ岳連峰の大観も素晴らしい。清里で八ヶ岳高原ライン(県道11)に入り、長坂インターを目指す。県道28に左折してすぐに八ヶ岳倶楽部の看板を見て立ち寄る。有名な柳生博さんの経営するレストランであるが、野鳥が集まる雑木林の散策が最大のウリになっている。四季の自然観察も良い。標高1360Mというから伊吹山のお花畑付近に相当する。以前は句会の人らを案内して喜ばれた。
 ここでコーヒーを注文。すると近くにどこかで見た白髪の老紳士が立って何か説明中だった。若いスタッフに聞くと柳生博さん本人だった。すぐに去られてしまった。本職はイケメンの俳優であるが、最近は日本野鳥の会会長としてのイメージが濃厚である。店を去るときに外のテラスでワインをたしなんでおられたので声を掛けてみたら気楽に応接してくれた。もっぱら山の話に弾んだ。
 去り難い八ヶ岳山麓の道草を断ち切って、又ドライブ。目の前に南アルプスの大観が。高速へ入ってからも八ヶ岳が見送ってくれた。

 奥さんが山口さんの著作に不機嫌だった理由。それは帰宅後に分かった。『八ヶ岳挽歌』を取り出し「しらびそ小屋」を読むと、今日的には個人情報がしっかり暴露されていた。現在のオーナーは今井行雄さんだが、初代小屋主は兄の今井治夫といった。小屋の建設から結婚、人生の破たんまでの顛末が赤裸々に書かれていた。
 「しらびそ小屋」の名付け親は山口耀久であったが身内の恥を書籍で公然と書かれては良い気はしない。2001年の刊行時に1度は読んだがオーナーの関係者と接するとその生々しさは普通ではない。山口耀久は八ヶ岳の開発とともに忘れられてゆくのだろう。

恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山

今はもう書くこともなき年賀状 拙作2018年12月28日

 歳末も押し迫った28日に事務所で年賀状の準備を始めた。今年は喪中はがきがことに多い。山岳会の先輩諸兄が次々に他界された年になった。俳句会でも夫や家族を亡くした人が多かったと見える。親戚でも叔父が亡くなった。6年世話をさせていただいた被後見人も亡くなった。

十二月喪中はがきのさはに受く

 住所録を整理するとあの人もこの人も亡くなった。それで住所録から削除することになる。しかし一気に削除ではなくて、取り消し線を引いて余韻を残すことにしている。
 一方でもうお付き合いはないな、と思う人は一気に削除する。昨年は50枚に減らしたが、22枚追加した。それで今年は70枚購入してあった。印刷すると高いので、シャチハタのスタンプが便利で安い。昨年もそうしたので今年もあいさつ文の違うものを購入した。

鶏毟るべく冬川に出でにけり 飯田龍太2018年12月30日

 今日は12月30日。晦日、三十日でみそかと読む。明日は1年の最後なので大晦日と言う。
 ところがブログで「大晦日の意味を知っている?由来と歴史から学ぶ、大晦日の過ごし方」を読むと
https://www.homes.co.jp/cont/press/rent/rent_00371/
がヒット。
 「実際の日付が30日でなくとも毎月の末日を「晦日」と呼び、晦日の中でも1年を締めくくる12月には大をつけて「大晦日」と呼んでいる」そうなのだ。実際は今日は晦日ではないことになる。
 まあ良いか。

 今朝も寒い。みかんが1つ腐った。暖房のある部屋から窓際の寒い部屋に置いて保管したが。買い込んだ食品をそろそろ食べて行かねばなるまい。朝から蕎麦にする。鶏肉も切り刻んだ。そして汁は鶏がらである。これは最近スーパーで2個買って冷凍しておいた1つを取り出して、大鍋に入れて昆布と冷凍した椎茸を熱湯で煮る。あくをすくい取って醤油で味付けして出来上がり。
 調理の間に古新聞紙を水に浸し、柔らかくしてちぎって床に落とす。そして箒で隅から隅を掃く。綿ぼこりを吸い取って水ぶきするようにきれいになる。昔ながらの掃除のやり方である。

 この年末イベントで思い出すのは掲載の俳句である。この句があるから竜太ファンにもなった次第。加えて、前田普羅と父蛇笏との交遊も子の目で観察していた人だった。

関連記事
飯田龍太さん死去
http://koyaban.asablo.jp/blog/2007/02/28/1216538

 今、読み返すと結社の主宰者は句を詠み、選句して、講評と観賞文を書くのは当然のことと思う。そして人気俳人たるものは書けることが最低の条件になる。書くことで文人としての付加価値が生れる。
 今年死去した金子兜太さんも一風かわった句風で存在感を示したが、一般大衆向けに論考、評伝、入門書などを書いた。中でも一茶や山頭火の評伝は一頭地を抜く。ムック本にも盛んに露出した。これはメディアによって増幅された虚像でもある。
 さかのぼると書ける俳人として、石田波郷、能村登四郎、山口誓子、森澄雄、高浜虚子、正岡子規、河東碧梧棟など多士済々の俳人が浮かぶ。最近の新人では夏井いつきや長谷川櫂が良く書いている。

剣岳の風雪のビバークから生還2018年12月31日

ソース:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181231/k10011764221000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002
北アルプス 剱岳 2人を救助
以上
 富山県警の山岳救助隊のヘリがお見事でした。一瞬の冬型の気圧配置のゆるみを見逃さず救助に向った。
 剣岳の山の天気で気温などチエックすると、朝9時現在で、標高3000m付近でマイナス13、2℃、2000m付近はマイナス11.7℃。風も1秒間に11m以上ですから正に風雪のビバークです。
 しかし、冬の剣岳を目指そうとする登山者にはそれが分かっていたはずです。
 なぜ捕まったのか、天気図を12/25までさかのぼると、良い天気で池の平山まではスイスイ登攀ができたと思われる。しかし25日から天気が悪くなった。また雪が重くてラッセルに疲労したかも知れません。そこで救助の電話をかけた。
 ビバークだけで7日間も良く持った。暖かい衣料と充分な食料・水、雪洞を掘る技術と体力もあった。加えて通信手段を確保していたことも大きい。体力や技術的には問題はなかったにせよ、年末にかけて天候の悪化の読みができなかった。
 天気図を書く知識はあったのだろうか。悪くなると予想したらすばやく懸垂に次ぐ懸垂で下降する。低山域まで下れば風雪はやわらぐ。元旦には冬の剣の登頂を考えていたんだろう。まあ無事で良かった。

小牧山に登る2018年12月31日

 昨夜、年賀状を投函すると年納め気分が高まる。今朝は日進市方面に走ると冬晴れの良い天気だ。御嶽山の雪の頭が見えて好ましい。給油、灯油、洗車などの雑用はさておいて、この際小牧山へ走った。東名・名古屋ICから西進すると小牧ICはすぐである。
 アピタ店内で遅い昼食をとってから登山口を探す。山腹の歩道を当て所なく歩くと時計の反対にやや半周してから山頂に向う歩道に入る。何分85.8mの山である。比高60mほどなので10分もかからずに山頂へ着く。
 小さな山であるが、冬でも青い照葉樹林を中心に、まだ紅い紅葉も残っている。樹齢500年はありそうな大径木が生えていて、植生は豊かである。
 山頂のお城は今日は年末で閉館中。ただし明日から三が日間は特別に開館するという。城の後つまり北側に回ると、御嶽山が真っ白に輝き美しい。右には中央アルプス、更に右は恵那山が見えた。傍らには2等三角点の小牧山が埋まっている。少し雪が残っている。
 南に回ると名古屋駅前の高層ビル群が見える。尾張野の展望台なのでゆえに信長が城を築いた。近くでは発掘工事の最中であった。見当をつけて南へ下ると藪の中でごそごそする。良く見るとウグイスである。冬のウグイスは笹子という。笹鳴きともいうが今は声は出さなかった。
 大勢の散歩者が下って来た。散歩圏に住んでいる人がうらやましい。