奥三河・三ツ瀬明神山を歩く~そのⅡ2018年09月05日

 9/2から9/3にかけてN局の山番組の本番の録画登山を行った。中々好評らしいので関わった1人として何より嬉しいことである。
 8/28に監督さんと下見の登山に同行してポイントはつかんである。それでも台風の接近で日程のやりくりが厳しい。9/1から9/2の沢登りはキャンセルして、録画登山に合わせた。台風の接近は9/4の予定である。この日程でこなせないと放映がずれてしまう。天気予報を見ると9/3は幸いにも雨ではない。台風が天気図にあるときは山に向かうな、というのは山屋の鉄則である。しかし、台風の影響で擬似晴天が現れるのが9/3であればこれはチャンスである。
 9/2のうちに大きな見所である乳岩周遊の録画を済ませた。日曜日だけにハイカーが多かった。Pも満車状態で少し遅いと遠くへ止めることになった。夜は近場の旅館に素泊まりとした。
 9/3は午前4時起床、4時半に集った。降雨だったが一応出発するが、奥へ進むほどに降雨が激しいので旅館に戻った。1時間後、2時間後と空模様を眺めながら出発を遅らせて8時に出発。
 但し、乳岩口から登ると登頂に5時間以上かかるので、三ツ瀬口からを提案。登頂に1時間以上は節約できる。車で走る時間にはロスもあるが、労力の節約が大きいと判断した。
 結局三つ瀬を10時に出発、乳岩分岐で12時。ここから撮影開始。ミヤマママコナ以外にツルリンドウの花も見つかった。登頂は13時半を回った。14時からの下山は中道を採った。栃ノ木沢道は山道の崩れがあったからだが、この道も廃道で沢のところはみな崩壊していた。但し道標だけはしっかりして迷うことはなかったのは幸いであった。
 そして、台風の影響で南からの湿った気流の影響で、三つ瀬の谷でもこの中道でも大量の山蛭の襲来に困惑させられた。三河でもこんなにも山蛭が増えたのは驚きである。
 栃ノ木沢道分岐、鬼石分岐を経て鬼石に着くともう下山も射程距離に入った。順調に撮影を進めながら鬼石を出発。急峻な山道に疲れた足を運んだ。
 乳岩分岐を過ぎて後は桟敷岩を滑落しないように慎重に歩く。18時過ぎ、既に薄暮となった駐車場に三ツ瀬口から回ってくれたバスが待っていた。山頂からバスに携帯が通じたので助かった。通じなければ誰かが単独で下る手はずだったがその労力が省けた。
 18時を回り、30分に近い頃、続々とスタッフが車に着いた。皆さん山慣れない人ばかりなのでお疲れの様子だった。苦労の多い録画登山だったが、きっと感動的な画像に編集されると思う。
 私は複数の人に「登山の喜びは登山に要した苦労の関数である」となんどもはなしたことがある。登り甲斐のある山はそれだけ苦労も多いことである。
 高速で走る際、足首がもぞもぞするので触ると芋虫みたいな太い山蛭がいたのでズボンの上からぎゅっとつぶした。上郷SAのトイレで足首を点検すると、ぽろっと太い山蛭が落ちた。靴下、ズボンの裾が血で真っ赤に汚れた。左足からもぽろっと落ちた。他にも傷口があり、一杯血を吸われたようだ。そうか、他のスタッフと合わせると結構な量の献血を強いられたのである。
       秋山の彼方に光る三河湾

関市へ仕事探しの旅2018年09月07日

 6日の午前中は朝早く、病院で半年に1回の検診を行った。血液検査から得られるデータは上限下限の範囲に入り、3月より好転した。まあ病気ではない、また病気になる徴候もないのだろう。一安心した。大病院での検診は半日仕事である。
 午後は岐阜県の関信金本店で行われるシニア人材交流会に向かった。1社だけだったが能力を発揮できそうな予感がしたので応募しておいた。最終の時間にセットされたが、午後1時30分に地道をドライブ。着いたら何と4時だった。平日でR41は渋滞が激しかった。
 R41から旧R248を経由し、関市内に入ると迷走したが、7/14に災害ボランティアで来た際の市役所のビルがランドマークになった。あの時は早朝で渋滞もなくスムーズに1時間程度で来れたが、今日は2時間半もかかった。
 関信金本店内で時間まで40分ほど待機。中濃地域の建設業の幹部と面談すること25分。余りにも短い。それでも予め経営課題のポイントから読み込んでおいた語彙を発して反応を見るとほとんど的確に返ってきた。打つ手は打っているし、やることはやっている。不作為はなさそうだ。
 何が問題なのか、結局は人事面の充実と直感した。つまりハードもソフトも一応は体制ができている。経営者の判断1つである。経験的に社員はみな面従腹背である。社員は会社のどこを見ているのか。
・倒産の恐れがない経営をする・・・社員が住宅ローンを組む際に見られるのは社員の信用(積立貯金、定期預金などの実績の有無)もさることながら、勤務先の信用である。
・能力主義、成果主義は後進を育てないで、自分の手柄をアピールするから日本には根付かない。中小企業には特に情実が必要である。
・地域で1番の企業にする目標の明確化が必須だろう。ライバルを意識して仕事のモチベーションを高める。
・対外的な仕事をする立場の社員には権限を付与する。銀行員でよく支店長代理という肩書きの名刺をいただくことがある。支店長ではないが、対外的に同等の権限を与えられているとのイメージである。すると、社員は会社に不利益になる判断はしないものである。
 システムもハードも大切だがそこに魂を吹き込むのは人間である。知識、技術だけではない人間力が問われている。
 面談の際には思い出せなかったが、トヨタの河合満氏は中卒の現場一筋であるが若手育成を見込まれて、豊田章男社長に専務そして副社長抜擢された。あの学歴偏重社会(名大閥)のトヨタにあってこの人事はサプライズであった。
 この2年間、面談会で10社以上対話してきたが、企業は人なり、ということを今ほど強く思ったことはない。中小企業も人を育てる視点が必須である。定年後の安い人材発掘というのならこの面談会は成功しないだろう。
 終了後は17時30分になった。夕飯には早いが、関の名物と言われるうなぎの名店に寄って食した。平日の早めの時刻でも6分の入りであるから人気店であろう。名古屋にも数多有るのにここまで来る人もいるらしい。
 何であれ商売もここまで成功したら面白い。遠くても足を運んでくれる行政書士事務所にしたいものである。

「第21回企画展 幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」へ行く2018年09月17日

 16日の朝8時過ぎ、天白の自宅を出発。R23へ入り、津市の三重県総合博物館を目指した。天気は曇り時々篠つく雨で鈴鹿山脈も雲の中だった。
 津市の官庁街にまで南下してしまったのでナビでチエックすると少し来過ぎた。津駅前で北上し、近鉄線、伊勢線をわたって県道10号へ出るとすぐに博物館に着いた。三重県出身者だがここは初めてのところだ。チケットも第3日曜は20%引きの640円だった。
 館内に入ると蝦夷のアイヌ人のくらしの説明ブースがある。そこで少しばかりタイムスリップしてから順路に入る。武四郎は旅の人だが、旅は即見聞を広めて、観察して、記録してと知的好奇心を満たすものだった。

 この軌跡は豊橋市出身の菅江真澄に似ている。生没年は宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日)なので、武四郎の生没年、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)に重ねると、11年間は同時代を生きたことが分かる。菅江真澄も旅と人々の暮らしの観察者であり、記録の旅人に生きた。武四郎はその後輩になる。

 旅の巨人の展示は即ち著した文物が中心である。最後の段階で大台ケ原山に至る。したがって地味なものである。一巡して何かスパイスが足りない気がした。一旦館を出て昼食。午後から始まるトークに期待した。大川吉崇氏のミニレクチャーのテーマは「松浦武四郎と大台ケ原登山の謎」。
 13時30分から開始。講師の大川氏が開口一番今日は10人も入れば良い、と思っていたそうだ。席は満席になって満足そうだった。
 自分の名前を冠した大川学園を経営した教育者らしく、78歳の高齢者らくしくない熱弁をふるわれた。三重岳連の顧問であり、登山への情熱は若いころからのことで人後に落ちない。武四郎への思いも一入の人である。
 著書も紹介された書名はずばり『大台ケ原登山 知られざる謎』でレクチャーのテーマそのままであった。要旨は当時は秘境だったということ。そんな場所へ入山した武四郎の心理を探りたいのが大川氏の狙いである。結論は推測の域を出ないままである。
 熱弁の後は会場へ再入場させてもらい、ギャラリートークが始まった。博物館の学芸員から文物についての解説を走りながら伺った。最後の大台ケ原でやや丁寧な説明にやはり学芸員の解説がいないと素通りしてしまいそうな展示であると思った。
 やや満足になったので館を出て県道10号で北上。前方には錫杖ヶ岳の尖峰、経ヶ峰が見えた。北には鈴鹿山脈が横並びに見えた。三子山から仙ヶ岳の双子峰、鎌ヶ岳、御在所も南からの角度で見ると3つに並ぶ。釈迦ヶ岳を認めた辺りからはいつもの鈴鹿山脈の姿になった。R23へ迂回して帰名した。
 帰宅後はアイヌの文化再考になった。武四郎はアイヌ語を覚えたと言うが、アイヌ語の原文からの翻訳物はない。これまでにも他の学者、研究者にもない。その点を大川氏や学芸員に質問したが回答はなかった。無関心なのだろうか。
 一つの民族において文字がないとはどういうことなのか。
 大和民族も文字を持たなかった。大和言葉を漢文で書き著した。これを整理したものが『古事記』である。『古事記』を解説したのは松阪市出身の本居宣長であった。また外国に対してアイデンティティを示すために日本の国号を冠した歴史書『日本書紀』は唐の人らにも理解できるレベルの漢文で書かれたらしい。
 アイヌのユーカラはアイヌ語で語られた叙事詩であるが、原文は無く、日本語のカタカナで書かれている。
 武四郎もアイヌ人から地名を「ピーエ」と聞くと「美瑛」と漢字で書いた。一事が万事そんな調子である。要するにアイデンティティがないのである。文字を持たなかった民族は歴史を記録できず、他民族に同化または滅ぼされた。北米インディアン、エスキモーなど。
 武四郎はアイヌ人とその文化を愛したが和人としては当時のロシアの南下に備える重大な目的があった。そのための蝦夷の探検であった。それがアイヌ民族を滅ぼす結果になった。
 所詮、アイヌは採集生活者であった。栽培せずに山川からの恵みで命をつないできた。言葉や文化は口承で間に合ったのだろう。文字が無ければ教育も充分ではない。
 記憶の民族よりも(文字による)記録の民族が優るのである。

腰痛2018年09月20日

 数日前から腰痛がひどくなった。7/14の関市での被災ボランティア直後も腰痛があった。普段使わない筋肉を使ったせいだ。4日くらいで消えた。今回は急速に秋冷えが始まってから症状が出てきた。
 暑い時期は腰痛も一旦治ったが気温が冷えると痛みがぶり返したのだろうか。梅雨冷えになると関節が痛むように秋冷えも同じことなのだ。
 9/16も三重県にドライブしたが、シートと背中に小さな座布団を挟んだ。運転には支障はないが、振り返る際は不自由である。病院へ行くほどでもない、マッサージ屋へも行く気がしない。
 それで敷き布団をやめて畳の上で直接寝ることにした。起居も大変で何かに手をついて起き上がったが、今は寝返りを打っても痛まなくなった。かなり軽減したのである。
 敷き布団が腰痛の原因かとぐぐると、285万件もヒットした。多くの人が腰痛で悩んでいる証拠である。どうも敷き布団の見直しが必要である。
 長引いた膝痛も、自転車のポタリングで大腿筋を鍛錬したらあっという間に治った。腰痛は敷き布団以外にどこに原因があるのか。

コスモス成年後見S/C総会2018年09月22日

 9/21,午後3時からのコスモス成年後見サポートセンター愛知県支部の総会に出席。創立時は100名を越えなんとする気分があったが、員数は82名という。昨年よりも13名退会、入会3名で10名減った。広報活動には3年前から支援していたが、地方は受任の成果があがり始めたが、特に名古屋市内の会員は受任がなく、会費を払い続けるのは困難ということである。
 議案はすべて異議なしで通過した。活動に何が足りないのだろう。個々の会員の営業努力は知れたものだから組織的な認知の努力ががまだまだ足りないと思われる。今後は出版活動、大規模セミナーなどを展開しながら2025年問題に対応することになる。
 総会後は近場のレストランで懇親会を開いた。和室の座席では、腰痛が完治せず、座布団3枚を重ねて座った。辛かったが、和気あいあいのうちに終わって良かった。年に1度は非公式な会合での交流が必須である。

秋深むひと日ひと日を飯炊いて 岡本眸2018年09月27日

 逃れ得ぬ老いなればいざ冬木の芽
・・・冬木でさえ芽を出す。限られた人生ではあるが老いの春を楽しむ。

 きびきびと枯れ行くすべて手放して
・・・終活とは手放すことだったのか。

 仮の世やときどきは斯く風邪引いて
・・・生身の内はね。

 病む夫をかばう日傘を高くしぬ
・・・句友が「今はもう日傘もさせず歩行器を」という句を読んだ。日傘の季語も自在に使えるのだ。

 喪主という妻の終の座秋袷
・・・確かに終の座。

 襟巻や亡夫の義理は欠くまじく
・・・近年は夫の墓に入りたくないと、姻族関係終了届(死後離婚)を出す妻もいるらしい。でも遺族年金は、再婚しない限り、受給できる。だから結婚しても籍を入れず、事実婚という高齢者の結婚事情。既婚者には死後も貞操観念は要るのだがもう古いのか。

 膝に置く供養の菊の軽さかな
・・・原句はかろさ、だがあえて漢字にする。この軽さは精神的なもの。

 姪の目に気楽な叔母の冬帽子
・・・・喪主は姪が勤めたから、子がいなかったのだろう。気楽な叔母に見えて実は過酷な人生を歩んだ。

 読売新聞朝刊は俳人・岡本眸の死去を報じた。享年90歳というから昭和3年生れ。私の母親と同じ世代の人である。母は37歳で早世したが岡本さんは長命を得た。
 終戦時の17歳のころを想い、

 雑炊や戦後寒かりし若かりし

と詠んだ。
 終戦をはさんで十代だった人は栄養事情によって運命が分かれる。最近も相続人調査で昭和16年生れの人が50歳代で病死した事例をみて考えたことがあった。母も充分な栄養が取れなかったのだろう。一方で岡本さんは丈夫でないことを自覚して「自愛」されたのだろう。自身も病弱、夫も病死の過酷な人生。兄も病気なのに献血できないというのだ。

 寒むやわれ病歴ありて血を遣れぬ

 書架から取り出したのは岡本眸句集『自愛』(ふらんす堂、1992年)である。その中の栞をめくったら最初の紹介記事の句が掲載の俳句だった。
 折しも秋冷の今、ちょうど時節にあう。岡本さんは身辺の日常を句材として詠まれた俳人だった。
 前田普羅は風土と人が一帯になった地貌を愛した。岡本眸は女性らしく自分を愛した。世が世なら歌人の仕事である。

 新聞各紙の評伝を読んで見よう。

 毎日俳壇選者だったので毎日新聞は
「訃報 岡本眸さん 90歳=元毎日俳壇選者
会員限定有料記事 毎日新聞2018年9月27日 東京朝刊

 日常に根差した生命感に富む俳句で知られた俳人で、元毎日俳壇選者の岡本眸(おかもと・ひとみ、本名・曽根朝子=そね・あさこ)さんが15日、老衰のため死去した。90歳。葬儀は近親者で営んだ。喪主はめいの横川信子(よこかわ・のぶこ)さん。

 戦時中に勤労動員や、東京の自宅が空襲で焼失するなどの体験を経て、戦後、聖心女子学院(現聖心女子大)で学んだ。勤務先の職場句会で富安風生に会い、俳誌「若葉」に入会。岸風三楼(ふうさんろう)にも師事した。1972年、第1句集「朝」で俳人協会賞を受賞。30代での子宮がん手術や、句友でもあった夫の急逝を乗り越え、80年に俳誌「朝」を創刊、主宰した。「俳句は日記」「俳句は愛」が信条で、代表句の<夫愛すはうれん草の紅愛す><初電車待つといつもの位置に立つ>に見られるように、身辺の生活から詩をすくい上げ、深みのある言葉に結晶させた。

 句集「母系」で現代俳句女流賞、「午後の椅子」で蛇笏賞と毎日芸術賞。紫綬褒章も受けた。89年から2008年まで毎日俳壇選者。俳人協会副会長も務めた。」

「詩歌の森へ
岡本眸の「朝」が終刊=酒井佐忠
毎日新聞2017年1月9日 東京朝刊

 毎日俳壇選者を長く務め、毎日芸術賞も受賞した岡本眸の俳誌「朝」が昨年12月号で終刊になった。<鈴のごと星鳴る買物籠に柚子><霧冷や秘書のつとめに鍵多く>など、新鮮な感覚で日常から詩を生む第一句集『朝』の名をとった俳誌は創刊以来36年余。「俳句は日記」という確固とした理念に基づいて、俳壇に大きな力を与え続けて来た。その後の病の影響で終刊となったが、その理念はまだ生きている。

 岡本眸は東京・日本橋の社長秘書の仕事がきっかけで俳句を始め、富安風生に師事。幸せな新婚生活を描いた…」

 朝日新聞は
「岡本眸さんに第41回蛇笏賞 日常の息遣い詠み込む
2007年06月14日11時46分

 岡本眸(ひとみ)さん(79)が、句集『午後の椅子(いす)』で俳壇の最高賞の第41回蛇笏賞を受ける。「師の富安風生先生宅の日当たりのいい2階にあった椅子の景がふと浮かんで」題にとった。

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 会社の職場句会が俳句との出あいだった。「俳句は詠もうと思えば、誰でも、どこでも出来るもの。勝手人間で好きなことをしてきましたが、師や仲間に恵まれました」と語る。

 最近、エッセーで「〈霧冷や秘書のつとめに鍵多く〉〈更けて書く鉛筆くさき春厨〉〈柚子湯出て夫の遺影の前通る〉一句目はOL、二句目は主婦、最後は寡婦になっての作で、平凡に見える私の人生にもそれなりの起伏があった」と振り返っている。

 〈初電車待つといつもの位置に立つ〉、近くの駅の風景だ。読んだ人が「そう、そうだわ、と思ってくれたらうれしい」。日常の何げない所作、息遣いのひとつひとつを詠み込んできた句は深まり、さらに精彩を帯びてきた。

 今、東京の下町で一人で暮らす。「夫を亡くしてからは風来坊」と笑うが、「俳句は生涯の道づれ」になった。」