万緑を顧みるべし山毛欅峠 石田波郷2018年06月29日

 昨夜から強風が吹いた。蒸し暑い一夜だった。天白川も泥で濁っているから上流で相当な雨が降っただろう。先般、小学4年の子等の川遊びのために刈られた河川敷の刈草ももう枯れている。暑さである。梅雨明けも近い。その前に大暴れがあるか。
 明け易い。いくらも寝ていないのにもう朝だ。

 この時期が来ると思い出す一句である。そして好きな俳句である。

 句の背景をググルと「週刊俳句 Haiku Weekly」に

俳枕15 奥武蔵・山毛欅峠と石田波郷 広渡 敬雄

「青垣」18号より転載
 奥武蔵は埼玉県の南西部に位置し、武蔵野台地が緩やかに高さを増して丘陵、山岳となる辺り。その地域を名栗川(入間川)と高麗川が潤し、合流して荒川に至る。

 山奥まで集落があり、正丸峠、山伏峠を越えれば秩父盆地が開ける。

 歴史的には七世紀に新羅に滅ぼされ日本に亡命した高句麗の人々が、霊亀二年(716年)この地(高麗郡)に集結し創建した高麗神社があり、彼岸花で有名な巾着田の日高市、武者小路実篤の「新しき村」の毛呂山町、梅園で名高い越生町、最近では俳人石田郷子氏が居住し、創意工夫で心豊かな山村生活を発信している名栗村(現飯能市)等がある。

 萬緑を顧みるべし山毛欅峠  石田波郷

 七夕や檜山かぶさる名栗村  水原秋櫻子
 枯野きて修羅の顔なり入間川 角川源義
 桑を解くひとへ瞼の高麗の裔 能村登四郎
 実篤の書にいなびかりつづけざま 細見綾子
 擂粉木の素の香は冬の奥武蔵 三橋敏雄
 あたたかき砂あたたかき石名栗川 石田郷子

 山毛欅峠(橅峠・782㍍)は秩父盆地と飯能市の境・正丸峠と関八州見晴台のほぼ中程にある。

 現在は奥武蔵グリーンラインも通じ、峠の小高い杉並木に昭和五十年に建立の自然石に刻まれた石田波郷の句碑がある。但し、かつて波郷を驚嘆させた山毛欅林は杉の植林となり往時を偲ぶすべもない。

 句集『風切以後』に収録されているこの句は、『日本百名山』の著者深田久弥や中村汀女も愛誦し、波郷自身も「私の数少ない自然を詠んだ句で一番気に入っている」と語っている。

 自句自解等には、「昭和十八年五月、長男修大誕生直後、文学報告会職員のハイキングで奥武蔵に遊んだ。見はるかす四方の浅黄、萌黄、浅緑、深緑の怒涛のように起伏する爽大な風景に魂を奪われ即刻にこの句を為した。三月から月俸九十円の一書記であった」とある。

 矢島渚男は昭和32年3月、二十二歳の大学生の時、東京都江東区砂町の波郷宅を訪ね、以後師事したが、その日にこの句を色紙に書いていただいたと「亡師追想」で述べている。

 波郷は大正2年愛媛県の松山市生まれ。松山中学時代から俳句を始め、十七歳で水原秋櫻子門下の五十崎古郷に師事し、「馬酔木」に投句。昭和7年同巻頭を得て単身上京、百合山羽公、瀧春一、篠田悌二郎、高屋窓秋、石橋辰之助、相生垣瓜人等錚々たる俳人とともに二十歳で最年少同人となり、窓秋、辰之助と並んで「馬酔木三羽烏」と称された。

 健康にも恵まれ、辰之助等とハイキング、スキー等を意欲的に楽しんだ。終生の師横光利一にも目をかけられ、二十二歳で第一句集『石田波郷句集』を上梓し、二十四歳で「鶴」を創刊主宰。

 三十歳の結婚を機に「馬酔木」を辞した。

 召集による入隊以後体調を崩したが、終戦早々の昭和21年、「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」と宣し「鶴」を復刊する。

 その後肺を病み、再三の成形手術、清瀬の東京療養所入所により、「療養俳句」の一時代を確立した。

 万全な体調でないものの、朝日俳壇選者、現代俳句協会さらに俳人協会の設立に尽力し、昭和三十年、四十二歳で『定本石田波郷全句集』により第六回読売文学賞を受賞、俳壇で重きをなした。

 昭和44年には、句集『酒中花』で芸術選奨文部大臣賞を受賞するも、同年11月21日五十六歳で逝去。深大寺に葬られた。「今生は病む生なりき烏頭」

 戦後十二年間暮らした江東区の砂町文化センターに平成12年、「石田波郷記念館」が開設されている。

 句集は十六冊あるが、句の重複も多く『石田波郷全句集』には『鶴の眼』『風切』『病雁』『雨覆』『惜命』『春嵐』『酒中花』『酒中花以後』の八冊が収録されている。玄人跣の自身の撮影写真も添えた『江東歳時記』、『清瀬村』等の随筆集もある。

 長男修大氏著の『わが父波郷』『波郷の肖像』は、父波郷とのほど良い距離感があり、最良の語り手を得た感がする。

 作風は馬酔木調の抒情的青春性の横溢する二十歳代前半、加藤楸邨等の影響を受けた「人間探究派(難解俳句)」時代、戦後直後の「焦土俳句」時代、そして四十歳からの長い「療養俳句」時代と生涯に大きな変遷がある。特に後半は自身の診療生活の限られた句材を詠んだ私小説風の俳句も多い。

 終生、「俳句の韻文精神」、又、「豊饒なる自然と剛直なる生活表現」を唱え、「俳句は文学ではない」との俳句の本質を喝破した言葉も残している。
 山本健吉は、句集『風切』(昭和18年)で、抒情的新興俳句と訣別し、蕉風「猿蓑」を手本に古典の格と技法とを学び生活に即した人生諷詠としての俳句に開眼したと述べる。

 多くの波郷の佳句の中から、自然詠に限って記したい。

 元日の殺生石のにほひかな(那須湯本)
 花ちるや瑞々しきは出羽の国
 雪降れり月食の汽車山に入り(越後湯沢へ)
 雨蛙鶴溜駅降り出すか (軽井沢にて 草軽軽便電気鉄道)
 葛咲くや嬬恋村の字いくつ
 蓼科は被く雲かも冬隣 (霧ヶ峰 鷲ヶ峰)
 浅間山空の左手に眠りけり
 琅玕や一月沼の横たはり(手賀沼)

 ◎泉への道後れゆく安けさよ(軽井沢)

*山毛欅峠の句は句集『風切以後』の表記に拠った。
以上
 江東区の砂町文化センターの「石田波郷記念館」は行ったことがある。両側が個人商店が並ぶ狭い路地を抜けて歩いた。庶民の街である。ちょっと離れた場所に古石場文化センターがあり、小津安二郎の生誕の地がある。
 登山・ハイキングを兼ねてブナ峠の句碑に行って見たいと思う。奥武蔵は埼玉県の奥で西部鉄道沿線らしい。1000m級以下の低山がほとんどで奥三河の山のイメージに近い。
 自然詠は自然の中に入らないと得られない。芭蕉も旅に出て佳吟を残した。旅といえども、他人に面倒を一切任せた商品として、バスや電車に乗っての観光旅行ではない。
 旅することは生きることと思うようなイメージである。それは山旅に近い。登山こそが本来の旅の原型を残している。波郷のころはまだ峠の趣があったが今は写真で見ると車道が通じている。まあそれでも足で歩けば少しは感じるものがあると思う。