西濃・池田山2017年09月23日

 昨日の雨も上がった。今日なら登山も可能と久々に池田山に行くことにした。先だって長久手古戦場へ行った際、池田恒興(勝入)、元助父子の塚を見学した。
 大垣城の城主。元々は織田信長と親近な関係だった。信長死後、秀吉側について、小牧城を落として城主になったが、岩崎城攻めの失敗で徳川+織田信雄側に首級を挙げられた。
 しかし、次男の輝政が家督を相続、大垣城主になる。秀吉の仲介で家康の次女をめとる。そのために秀吉死後は家康側について姫路城主となる。徳川幕藩体制は300年続いたが、池田家も代々繁栄した。徳川家との縁組のおかげである。
 めとった際に、父を討ち取った永井直勝を召しだし、父の最期を語らせたという。身上が5000石と知って家康に加増するように言上して倍増させた。大物の武士に討たれたなら父も名誉と考えたのか。武士道の考えなのか。子孫には三島由紀夫、永井荷風がいるという。
 10/28には姫路城へ1日旅行する予定。輝政が今の大規模な姫路城に修築したという。長久手、大垣+池田町、兵庫・姫路と結ぶ歴史の旅になる。みな偶然の結びつきである。
 池田家は戦国時代を生き延びたなかなかの名門と知る。2人が主要人物と知って調べたら池田町に墓地があると分かった。それなら池田山登山とかねて行ってみることにした。
 名神高速の一宮IC付近で3重衝突の事故が発生。その影響で1時間30分遅れて10時30分出発になった。登山口は2年前に開通した大津谷登山口である。登山道の取り付きは急な尾根の一歩から始まる。植林の中の疎林をジグザグを切りながらぐんぐん高度をあげる。たちまち汗がふきだす。しかし、風があるため汗がすぐ冷えて爽やかだ。
 20分したところで小休止。又歩き出すと4等三角点に着く。さらに急登が続く。やれやれの思いで林道の端に着いた。林道を登ると霞間ヶ渓からの車道と合流してこの登山道2.84kmに一区切り。ここからは傾斜もゆるみ稜線伝いになった。宮標石があった。
 車道と並行しながら山頂に向うと車道の終点に有人の売店があった。売店から山頂へもひと登りあった。20分ほどで13時前に山頂に着いた。老夫婦の先着と入れ代ると静寂な山頂になった。展望台は周囲の樹木が伸びて台無しだ。13時15分、早々に下山した。
 大津谷登山道との合流地から霞間ヶ渓へ下山。車道とからみながら下る。途中からは車道と離れて静かな道になった。登山口には15時過ぎに着いた。少ししゃべっているうちに15時30分になり、大津谷登山口に向って車道を歩き始めた。やや登り気味で3km、約30分ほどでマイカーに戻った。
 池田町内に戻って池田恒興・元助父子の墓を探すが見つからず。龍徳寺も墓の案内板も見いだせなかった。あまり力を入れていないのだろうか。池田温泉に入湯して帰名する。