長久手古戦場から御旗山(富士ヶ根)へポタリング2017年09月20日

 今朝も週末の原稿のチエックと会報のチエックで午前中がつぶれる。久々に体重計に乗ると減っていない。大腿筋はついてきたが体重減に結び付くほどの運動量にはなっていないようだ。
 行く先は昨日の続きで、長久手市界隈に行く。いつもは天白川沿いに走るが、今日はいきなり山越えしてみた。植田東、梅が丘、R153を橋でまたいで、梅が丘、梅森坂へと牧野ヶ池緑地の南縁をなぞるように走った。香久山、岩崎台とつなげる。日進と長久手の市界までは登る一辺倒だ。ここまではアップダウンが多くアルバイトが大変だった。
 市界からは下り坂だが、下りきらず、卯塚墓地へ軽く登り返し、東名をまたぐ橋を渡る。杁ヶ池の交差点に来ると後は住宅地の路地裏の道を走って古戦場へ走る。
 古戦場は今日は開場していた。中に入って少しばかり地名の話を聞いた。後で地形図にもとづき、4等三角点武蔵塚71.2mを探す。少し低いところに埋まっていた。埋設は良好な環境。古戦場から御富士の交差点へ走り、御旗山へ向かった。長久手小牧の戦いの拠点である。 さて、御旗山に登った後は、日進・長久手分水界を越えて、岩崎台を下った。

 しかし、長久手古戦場といっても歴史を知らないとただの丘に過ぎない。戦国時代でぐぐると戦国時代の年表がヒットした。

 応仁の乱が始まった1467年は「人の世虚し」と覚える。1477年で終結する。さらに9年後の1486年から全国規模の戦いが勃発する。群雄割拠する武将の中で織田信長が台頭するが、1582年本能寺の変で倒れ、天下統一は志半ばで挫折した。謀反を起こした明智光秀は豊臣秀吉に討ち取られる。ここから秀吉の天下統一事業がはじまり、信長の次男の織田信雄と敵対する。
 ここではじめて、1584年の小牧・長久手の戦いの主人公の池田恒興が登場。山崎の戦いでは秀吉に仕えて貢献する。長久手の戦いでは織田信雄は徳川家康に援軍を依頼、池田は秀吉方として戦う。徳川方の岩崎城攻めで中入り(奇襲攻撃)に手間取り、徳川方に討たれる。
 長久手古戦場にはそこで死んだという池田恒興の勝入塚(45歳で入道(仏門に入ること)し、勝入斎と名乗った。)がある。49歳で討ち死にした。
 岐阜県揖斐郡池田町本郷1341-1 龍徳寺地内には池田恒興・元助父子墓がある。池田山の真西だ。ここへも行かねばなるまい。
 長久手の戦いは長期戦になり、徳川家康+織田信雄は秀吉と和睦を結ぶ。そして1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が1603年に江戸幕府を開府するまで戦乱の世は続いたのである。
 参考:年表で見る戦国時代
http://www.geocities.jp/hosinoufo3/index.html