日進市の白山宮へポタリング2017年06月02日

日進市の白山宮の参道
 昨日、日進市の五差路に白山という交差点があった。安いガソリンスタンドを求めて走りまわった際に立ち寄ってみた。その名も白山宮とあり、平成になって新築した新しい社殿だった。
 そのうえ、足腰の関節の痛みを取るという「足王社」が本殿の横に移転されていた。サッカー神社ともいうらしい。元々は飯田街道沿いに在ったものらしい。早速参拝した。
 地形図では独立標高点77mのある丘陵地の山腹に位置する。特に山の名前はない。77mの山頂へはひらかれた道があったので登ってみたが何もなかった。植生は照葉樹林の林で眺めはない。
 下山して宮司さんに聞く。名古屋周辺には白山神社が多いこと、私の母の在所も三重県の白山町といった話をした。

HPに整理してあるのでコピペすると祭神は

主祭神 菊理姫命 伊弉冉尊 大巳貴命

配祀神 大山祗神 木花開耶姫命 稻田姫命

                 由 緒
  
 創立年代は不詳であるが、境内に古墳があることから古い年代に求めることができ、加賀国白山のご分霊を勧請した近郷無双の古社である。
 大永3年(1523)本郷城主、丹羽若狭守氏清(天文7年岩崎へ移城)が始めて祭祀を司ったとの記述が見られ、以来、湯立、笹踊り、棒の手、馬の塔(献馬)の神事が氏子によって伝承され、「白山の馬まつり」として人々に親しまれ、普く有名になった。
 近年では茅輪祭をはじめ多くの祭礼に年間を通じ数万人の参拝者が訪れる。
 社地は約1万坪を有し広大無辺なご神徳は、いやちこなるを拝します。
              むすびのご神徳
 主神、ククリヒメの神は、その名の通りすべてのものを括り結び合わせることをご使命とされ、古語に産靈をムスビと言っているように、すべてのものを産む力(生命力)が、生成化育の信仰を生み、人生は結びの和によって一層大きく発展することを教えています。
 離合集散ただならぬ世の中にあって生産者には、生産(むすび)の力を、商人には人を引きつける徳を、交際上には人に和を与え給う大神として、人々の上に、ますますムスビの徳を垂れ給うのであります。
以上

 昨夜は大気が不安定になり、雷鳴が響いた。風は北から吹いてくるので冷たい風と暖かい空気との摩擦で雷が起きたのだろう。寝付きにくいが、6月ともなると夜が短い。朝6時目覚め、6時30分には出発できた。自転車にまたがり、いつものコースを走る。三河山間部に雲が多いが、猿投山は見えている。
 本郷町から県道57を横切り、左折して山に向かうと白山宮のPに着く。自転車も置く。約35分のポタリングだった。途中、写真撮影もあるので25分くらいだ。ちょうどいい運動量になる。
 石の鳥居の右手に由緒が書かれている。古墳への道もついている。立派な参道である。新しい花崗岩の石畳が登ってゆく。上部で石段になる。まずは本殿に参拝し、続いて足王社に参拝した。昨日は中年の女性が参拝していた。若くても足腰の痛みはあるのだろう。サッカーの選手も参拝にきたようである。プロは練習と試合で怪我だらけであろう。時に神頼みにもなるのだ。
 77mへの登頂は省略して下山した。また自転車にまたがって日進の田園地帯を走った。大ぶりの野鳥が代田にいるのでよく見たらカイツブリのようである。珍しい鳥ではないが近くで見ると大きい。
 名古屋市平針駅に近くなると裏道、抜け道も途端に交通量が増えた。走らなくなると同時に危険を感じる。喫茶店で一休みして帰宅した。

月の出や印南野に苗余るらし 永田耕衣2017年06月03日

 今朝もすっきりした五月晴れになった。北風が涼しいというより寒いほどだ。ポタリングでまた日進市の田園地帯を走る。今日目に付いたのは代田もかなり田植えが進み、植田になってきたことである。それに伴い、余り苗もそこかしこに見られた。この風景で思い出したのがこの俳句だった。
 農家では田植えに備えて苗を余裕を見て育てる。植え終わると片隅に苗が少し残っている風景、それが余り苗、苗余るという季語になる。
 掲載の俳句は山本健吉『現代俳句』で紹介されて有名になった。印南野はいなみのと読む。
 ウィキには稲美町でヒット。「兵庫県南部に位置し、神戸都市圏に属する。兵庫県南部の加古川と明石川に挟まれた印南野台地に位置し、兵庫県東播磨県民局に区分されている。古代では印南野と呼ばれており、播磨国風土記では入波と呼ばれている。万葉集では稲日・稲見と呼ばれており、この本に登場している印南野は古くからの歌枕である。」と案内。
 帰宅の途に就いたころには風向きは西風に変わり、空は薄曇りになった。

日進市の足王社へ参拝するポタリング2017年06月03日

 昨日、司馬遼太郎『この国のかたち 二』(文春文庫)を読んだ。その中の「スギ・ヒノキ」の項に、
 古代、曲物が生活用具の主たるものだった。
 古代や上代につかわれたために、いまでも曲物は神事につかわれる。神前にたべものをのせてそなえる容器(神饌具)ーたとえば三方ーは曲物だし、またどの神社の境内でも、手洗い場に置かれているひしゃくも曲物であり、曲げ物でなければ清浄感が付随しない。以下略
 そうか、御手洗場のあのひしゃくは曲げ物だったのか。それを確認するための参拝でもある。
 今朝は、昨夜の飲酒がたたって、遅めの寝ざめになった。出発も7時過ぎになった。今日は路地裏の道を走りぬけて、日進市の県道57の「白山」の信号のある交差点まで走った。白山宮へはすぐだ。Pに駐輪する。参道を歩く。いくらもなく本殿に辿りつくが、振り返って、御手洗場でひしゃくを取り上げてみると、なるほど杉の板を薄くして曲げたものであった。
 私が登山用の弁当箱に愛用しているのも曲げ物であった。南木曽町の小椋さんの店で買った。これも杉の板を楕円形に曲げて底を付け蓋をセットにしてある。そしてうるしを塗ってある。塗らずにおくと水分がしみ込んで黒ずむという。
 今日の再発見はひしゃくは曲げ物ということであった。加えて、田園風景の中に余り苗を見たことだった。これは別項で書いておいた。
 帰路、立ち寄ったデニーズの玄関の真上の燕の子は今朝はもう巣立ちしていなかった。5/30には在った注意書きも撤去されていた。めでたし。

日進市の岩崎城址へポタリング2017年06月04日

 6時過ぎ起床。今朝も快晴である。いつもより寒いので長袖を着用した。ネットによれば白馬山荘では降雪があったとか。冬に逆戻りしている。立山ではまたも小型飛行機が山に衝突したらしい。気象の変化が激しい日本の空は危険そのものだ。登山も同じである。
 小寒い中を自転車にまたがって天白川を遡るポタリングである。コースは昨日とほぼ同じで、梅森寄りに走ってみた。すると梅森八幡社があったので寄ってみた。八幡社というだけに後に回ると八幡造りの立派な社殿である。御手洗場は杉の曲げ物ではなく、竹を節で切って、コップにしてあった。これもありか。
 旧街道筋を走ると医者の家が大きく目立つ。狭い小路はさながら戦前の昭和の時代を物語る。道路こそ舗装してあるがマイカーが行き交う広さはない。もう1つ上に良い道が付いている。
 旧道筋を突っ走ると岩崎城が見える。眼下は植田が広がる田園地帯である。今日は岩崎城に寄っていく。県道57を若干北上すると岩崎城への入り口がある。自転車すら入るなとある。自転車を置いて歩き出す。一番高いところをへて古墳を見る。その前面が日進市の市街地や田園の展望台になっていた。ぐるりとまわるともう見どころはなく入口へ戻る。
 路地を走り抜けると白山宮のある丘が見える。今日はパスして日進市役所沿いに帰宅の途についた。
 さて、八幡社のことである。
 梅森では氏神としていた。ふたたび、司馬遼太郎『この国のかたち 五』(文春文庫)の神道を読むと、古事記や日本書紀に出てこない神を祀る外来神(渡来神)ということが分かった。
 6世紀に仏教が入って来た。入れ代るように日本の神々は没落していった。8世紀になって僧たちは神々にお経を聞かせて救済した。それが神宮寺という。
 八幡神が現れたのはこの時だった。最初は大分県の宇佐に始まった。この神は人格神といった。政治にも口出しした。仏教が盛んになると「自分はむかしインドの神だった」と託宣した。そして仏教を支持し、受け入れた。神が仏を讚仰した。これが神仏習合ということである。
 蕃神とも書いている。
 ウィキには「蕃神(ばんしん)とはその国、その土地の外部(外国、異国)からやってきた神。単に外国の神という意味ではなく、外来の神、つまり、外から入り込んできた後に定着し、その国、その土地で既に信仰の対象とされるようになってきている神を指していう。蕃神が信仰されるようになる経緯としては、意識的に布教される、あるいは、その国の人々が蕃神の存在を知り、自発的に信仰を始める、などが考えられる。
 もともと神道が信仰されていた日本においては、伝来当初の仏教について、「仏」を「蕃神」(トナリノクニノカミ)と呼ぶなどしていた。」とあった。今は死語になった。
 司馬の八幡神の書き方が面白い。
 「奉ずる人達の中央政権への働きかけが異常なほど活発だったことも以前ふれた。奈良朝の東大寺の大仏造営のときもこの神が託宣活動をし、ついに国家機関(東大寺)の域内にまつられることになる。
 同時にこの神はいちはやく仏教に帰依した。神仏習合という奇策を演ずることによって神々を亡びから救った功は小さくない。」
 後から来たものは少数派であり、弱者である。おおく発言して政治的にも活発に行動しないと埋もれてしまう。
 神道にもこんな重層性があったのかと思う。

日進市の足王社へ参拝!2017年06月05日

白山宮の右におはす足王社
 俳句雑誌の原稿を1本仕上げる。昨夜から見直すが最後が決まらず。『古事記』の漫画本、解説本、司馬遼太郎『この国のかたち』等を乱読。石頭でも読んでおれば少しは神道の知識が浸透するだろう。
 5/25に亡くなられた岡田英弘氏の著作の1冊も読みたいが、モンゴル史、東洋史、世界史は壮大で手が付かず。これまでの積読で結構たまっている。著作集の最終巻は買わなかった。メディアに出てこなかった学者は埋もれたままなのだろうか。
 読書に倦んで夕飯を外食。白山宮へちょっとドライブする。自転車で抜け道を知ったからスイスイ走る。途中、すすきらしい群落を見た。白い穂波がゆれて美しい。水田もほぼ植田になった。早いところは青々としている。日々成長している。またカメラで撮影したい。
 白山宮へは約7kmから8kmだった。自転車の運動量は往復15km程度。約2時間かかる。ちょうどいいくらいか。誰も居なかったPに着くとあちこちから参拝の車が着いた。たちまち数台が止まった。先客は鳥居の下で軽く会釈して参道を登った。
 杉の曲げ物のひしゃくで手を清める。本殿へ参拝後、足王社へ参拝する。中年女性の参拝客とすれ違った。いつもは早朝なので誰もいないが普通の時間帯はかなりの参拝客があるようだ。なにぶん、ここは常駐の神職や巫女(みこ)さんもいる。車のお祓いも受け付けているから経済的にも恵まれている。
 帰路は普通の車道を走る。白山宮の麓に来ると西には鎌ヶ岳の尖峰が見えた。別の所からは猿投山は無論、焙烙山や六所山も見えた。高い建物がないから意外に遠方まで見通しが良い。
 名古屋市に近づくと植えたばかりの水田に大西日が反射した。巨大な鏡面に反射してまぶしいほどであった。苗はひねもすこのエネルギーをいただいて大きく育つ。今読んでいる『古事記』のアマテラスオオミノカミの光かと思う。

余り苗を撮る2017年06月06日

 今朝もいい天気である。やっぱり小寒いので長袖を着た。出発は6時過ぎになった。撮影のためにザックにカメラを入れると結構重みを感じる。天白川沿いに走って日進市役所のかなり手前で撮影ポイントに来た。
 薄の穂が出て美しいところである。それにしても早すぎる。俳句歳時記では秋の季語になっているからだ。立秋の8/8以降でないと把握しにくい。最近の気候が少し早まっているのだろうか。その後は余り苗を撮影した。
 日進市役近辺まで足を伸ばしたが荷が重いせいか、白山宮の参拝は休んだ。一般道をUターンして帰途についた。途中、神明社という村社をお参りした。ここのひしゃくはあるにはあるが、プラスチック製だった。無人の村社になると簡素である。先の大戦の戦没者も祀られていた。タイサンボクの花も散り始めた。
 天白川沿いに戻ると、小学生の集団登校に出くわす。懐かしい光景である。国道153号を梅森西の交差点を渡り、名古屋市へ戻る。

日進市の白山宮へ!雨の中の参拝ポタリング2017年06月07日

 今日は久々に曇り空になった。そのせいで小寒い感じだ。登山用の長袖シャツを着用して出発する。ズボンも少し厚めの生地にした。日進市へは名古屋市内を一番ストレスなく出ることだ。すると立体交差になっている名二環の下を通過するのがいい。
 県道をまたいで国道153号はトンネルをくぐるともうほとんど車に出会うことのない道になる。昨日は重たいカメラを持ったせいか白山宮へ行き損ねた。今日は軽くしたので大丈夫と思いきや小粒の雨が降って来た。引き返すには近づきすぎている。この時期の雨は濡れても大したことはあるまいと白山宮を目指す。県道57号を横断してすぐだった。
 車は2台止まっていた。自転車を止めて誰もいない参拝道を登りだす。御手洗場の曲げ物のひしゃくで手を清める。本殿で参拝、足王社で参拝した。ふと気付くと稲荷も祀ってあるので商売繁盛を祈願した。加齢に伴い神頼みが増えた。自転車にまたがって帰途についた。大降りにはならず帰宅中に乾いた。

痩せたければダイエットしてはいけない2017年06月08日

 今朝の中部経済新聞の16面の見出しだ。日刊ゲンダイから購入した記事である。
 要旨は以下の通り。
1 減量を目的にした食生活は、かえって肥満を招く。
2 おやつを饅頭などの和菓子にする。
3 「食事量を減らしなさい、カロリー制限をしなさい」とは言わない。
4 「体重を減らして健康に」というアドバイスは健康をむしばむ。ダイエットや体重をコントロールするための行動はむしろ体重増加につながる。
5 カロリー量を減らせば必然的に食事量が減り、体に必要な栄養素が量的にあるいは質的に不足する。
以上
 なかなかに難しいものです。
 
 食事制限や食事療法は一つ間違えば体を痛めてしまう。病気になってしまう。さまざまな情報が飛び交うが注意したいことです。

平針・秋葉山へポタリング、そして針名神社へ2017年06月09日

 昨夜は上前津にある山岳会のルームで編集会議のため自転車で出向いた。約10kmはある。今時は7時台でも明るいからだ。往路も帰路も主要道の自転車道の凹凸が辛いのでなるだけ路地裏を走った。すると普段車で走らないから知らない発見がたくさんある。
 御器所(ごきそ)という由緒ありそうな地名の裏道は住宅でびっしりだ。そんな中に御器所八幡宮の案内を見たから少しUターンして参拝してきた。なかなかに立派な境内である。

 今朝は昨日の遠出の疲れもあって近場にした。そうだ、秋葉山を訪ねよう。自宅は6時30分に出発。原の交差点からはじまる県道58号(飯田街道、旧平針街道)を約2kmも走れば平針駅南への道と交差、直進すると秋葉山に登る参道があった。舗装だが歩いて登る。
 登りきると標高58mの独立標高点のある秋葉山の本殿の前に立つ。ここは慈眼寺という曹洞宗の寺院だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E7%9C%BC%E5%AF%BA_(%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82)
            針名神社へ
 さっき登った参道は北からの道だが実は南からも参道が登ってきていた。こっちが本道と思われた。そして地続きに針名神社へ続く道を走った。秋葉山は人の手が入らず、御手洗い場もアルミのひしゃくで水は枯れていた。ちょっと荒れた感じがしたが、こちらは車もあるし、立派なお社に御手洗場もある。ここのひしゃくは曲げ物である。
 新しい気分の残る境内を歩いて参拝した。
 歴史は「針名神社の創建は古く、延喜式神名帳の”従三位針名天神“の記載により、今から約1100年以上前と推察できる。
 「延喜式」とは、延喜五年(905年)に醍醐天皇の命により編纂が開始された「養老律令」の施行細則を集大成した全五十巻に及ぶ古代法典である。この「延喜式」の第九巻・第十巻に記載されている神社のことを式内社と呼び、針名神社も式内と冠しているのはこの史実によるものである。
 元々は現在地より約800m北、天白川左岸の元郷に祀られていたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在の社地に遷し祀られたとされる。
 現社殿・社務所・手水舎等は昭和天皇御即位五十年の奉祝記念事業として昭和51年11月6日に竣功した。境内地は約一万二千坪を有し、名古屋市内でも有数の規模を誇る神社である。」

 由緒は「主祭神の尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)は、尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫にあたり、父の尾綱根命とともに犬山市の針綱神社にも祀られている。
 古代豪族尾張氏の氏神と考えられております。配神として、大巳貴命(おおなむちのみこと)又の名を大國主命(おおくにぬしのみこと)また、記紀神話の国造りの際に全国を回って国土開拓を協力した神とされる少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っている。
 なお八幡神(応神天皇〔品陀和気命〕)を明治42年に合祀している。」とあった。

 古代豪族尾張氏の氏神とあれば、ここに大巳貴命が祀られているのは当然であろう。しかも大事にされていたから八幡神が優位になることはなかった。稲荷様も勧請されているので商売繁盛を祈願した。
 何より気に入ったのは秋葉山から針名神社の境内の閑静なことである。もちろん常緑樹が主であり、林床に日光が当たらないから地面が出ている。小鳥の鳴き声も聞こえる。散策には素晴らしい別天地であろう。
 社殿から高い場所への階段道を登ってみたら名古屋市農業センターの一角だった。少し南に3等三角点の「平針」63.5mが埋まる。さらに南は平針試験場である。

 針名神社からは路地裏の細道を走って原駅前の通りに出た。そこでパン食べ放題の喫茶店で休み帰宅した。

西三河・岩根山561m(伊熊神社)を歩く2017年06月10日

おぶつなさんは産土神の意味とみられる
 緊急入院からほぼ1ヶ月経過、食欲の回復、ポタリングで大腿筋の鍛錬ともやってきた。まだ2時間3時間の山歩きは自信はない。
 ちょこっと、山を歩いてみようと、試歩の山として選んだのは西三河の岩根山(伊熊神社)であった。等高線を眺めてもほぼ円錐形の立派な山容が推察できる。山頂に三角点はないが、神社マークがある。

 国道153号から、堂ノ脇で左折する。旭高原元気村への案内板がある。惣田町で左折、加塩町からの道で右折する。しばらく走ると伊熊神社社叢へ案内する看板がある。頂上に至る車道で左折。軽四向きの狭い道を走る。どこかで歩き出すと思われたが直下まで行けた。しかし、未舗装になった辺りで車を止めた。歩きだしたらまた舗装になっていた。

 徒歩5分で登頂してしまった。これでは試歩にならない。
 頂上には杉の木立に囲まれた立派なお社が建っていた。これが伊熊神社である。右脇には大木があった。これも祠があり信仰の対象であろう。別社も建っている。裏手に回ると歩道になっていてぐるりと歩ける。裏手の大岩が何か曰くありげであるが何も説明はない。大きな黒御影岩に何かが彫られていた。

 おぶつな(奈の変体がな)さん凡てが凡て七十七の(以下判読不明)

 「おぶつなさん」をググるとと産土神のことであった。

「神道・日本語・日本文化を学ぶ」というHPには
「産土神(うぶすながみ)と氏神(うじがみ)は、世間一般では同じ意味で使われる場合が多いのですが、本来は異なる神として立て分けるべきです。

 産土神(うぶすながみ)とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神です。
 産土神は、日本神道の神とのみ限定してはいけません。

 日本に限らず、地球上、大地ある限り、その土地に産土神(うぶすながみ)がいらっしゃる。神道であるとか、キリスト教であるとかに関わりなく、地球全土に産土神がいらっしゃるのです。

 この産土神が、その土地をお守りなさいます。
 つまり、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしておられるのが産土神です。

 氏神(うじがみ)とは、氏一族があって、その一族を守護する神のことです。
 先祖のみたま祭りをする際には、先祖のみたまたちと、その奥にいらっしゃる氏神様とを、お呼びしてみたま祭りをお仕えします。

 また、先祖のみたまが、あの世で修行を積み重ねて神格化なさると、その家の氏神の一柱となることもあります。」とあった。

 岩根山は産土神の山であったのだ。恐れ多くて三角点など埋設できなかったのだろう。
 それで社殿に近づいて参拝した。すると額がかかっていた。由緒書きである。
 社伝はこの山人らの信仰の歴史を伝えている。
 
一 村社伊熊神社ハ伊熊字笠松ノ海抜千四百尺ノ山上ニ鎮座ス勧請年月は未詳仁治三年再建寛政十年白山大権現ノ称号ノ神祇官統領神祇伯王ヨリ賜リツ安政四年四月正一位ノ位階ヲ賜ハル明治六年大権現ノ称号ヲ廃セラレ村社格トナル大正二年三月村社琴平神社ヲ本社二合祀ス大正八年八月十二日幣帛供進ノ神社ニ指定セラル

一 祭神
菊理比賣命
大物主命

一 境内反別
壱反五畝拾歩

大正九年九月二十七日
以上
 白山大権現とはウィキによれば「白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。」
 明治6年の廃仏毀釈が仏教と神道を分離してしまった。伊熊神社はかつては白山信仰の拠点だったと思われる。
 「全国の白山権現社の多くは、菊理媛神を祭神とする神道の白山神社となっている。」そうだ。社伝の琴平神社とは大物主命を祭神とする。すると別社がそれだろうか。大正2年の合祀だから比較的新しい。
 こんな小さな神も長い間には結構な波乱の内に鎮座してきたのである。

 小さな山上を一回りすると下山するのみであるが、鳥居の下へ本来の参道が下っていた。地形図では北東へつづく尾根である。それをたどると数分で下の鳥居に着いた。そこには馬頭観音(昭和六年十二月十日の碑文)など3体が建っていた。さらに山に向かって右側に細道が続いていて辿ってみると林道終点に着いた。これも参道だった。
 地形図の破線路も今は林道になったばかりだ。かつては峠道であった。右下に上伊熊の家が見えたので明瞭な山道を下ると草刈り中の人がいた。住民である。猪用のわなの檻の草を刈っていた。2日に1回は来るそうだ。捕まえても食べず、埋設するだけという。伊熊神社の里宮はないらしい。登り返すとさらに反対側にも山道が下っていた。昔は山道で行き来していたのである。
 愛知県の伊熊神社社叢の看板があった。植林の多い愛知県にはこれでも貴重な神社の杜として保存されている。
 参道を登り返した。途中には大岩があり、またまむし草も多かった。地質は花崗岩と思われた。山麓近くまで水田が拓かれているのは水が豊富な証拠である。

*自宅に戻ってから5万の地形図「明智」でチエックしたら平成元年6月18日に登った記録の書き込みがあった。下の鳥居の右側の道から登っていた。全く記憶にない。