鈴鹿・野登山から仙ヶ岳を歩く2015年12月02日

 11/28は計画を大幅に縮小して、万野だけに登り、無事下山した。1年でもっとも日が短いこともあり、あやふやな情報しかないので茶野から先に登らず、万野から登る計画にしたが、正解だったと思う。万野周辺で午後2時か3時になって道に迷うとやばいことになるからだ。さて、大君ヶ畑を後にして会場の朝明山荘に急いだ。
          朝明山荘の一夜
 山荘では買出し組が先着して準備にかかっていた。買出しにはIさんやAさんも協力してくれたとか。鯛の粗煮、鱸の刺身、魚の鍋物、鶏のダッチオーブン焼き、サラダと盛りだくさんの料理が並ぶ。薪ストーブに乗せて置くだけでジャガイモのホイル焼きなどもできる。
 W会長や新人のM君は遅くなるので、まず、新人、旧新人、旧人の会員ら11人で乾杯をして料理に舌鼓を打った。何を話したのやら、脈絡のない話をした。そのうちM君がナナハンでやってきた。W会長は皆が出来上がって、就寝した頃に、遅くになって駆けつけた。
          小岐須渓谷へ
 11/29の朝。慌しく起床。なにぶん13人もの人が一ツ家に起居すると落ち着いては居られない。朝食をかき込んで、片付け、出発準備、室内の掃除、精算などを済ませると8時前がやっとだった。7時30分には瀬戸市のKAさんと名古屋市のKUが同乗してやってきた。みんなで記念撮影に納まった。W会長のナビで小岐須渓谷に向かう。久々の茶畑の風景が懐かしい。眼前に山腹を削られた痛々しい山が見える。野登山の東尾根である。その直下に流れるV字渓谷に分け入る。
 Pにはほぼ満杯だった。この時期は山蛭の出没もなく、かえって人気があるのだろうか。我々も支度する。15名もの参加者が一斉に一つの山に向かうなんてここ何年もなかった風景だ。W会長も張り切って滅多にやらない準備体操を始めた。
         野登山へ
 あいさつの後、出発だ。最初は渓谷を渡り、右岸に沿う山道を行く。次第に本流から支流の一の谷にそう登山道に導かれて行く。落葉期なので見通しは良い。ふわふわの落ち葉を踏んで歩く。まだ新しい乾燥した落ち葉なので音がする。
     大いなる足音聞いて山眠る    前田普羅
15人分の足音をしながら登る。窓に着くと風が心地よいがむしろ冷たいので温まった体温を逃さないようにすぐに歩くことにする。等高線が緩み若干は歩きやすい。しかし、尾根の凹凸はあり結構なアルバイトを強いられる。国見広場に着くと眺めが良い。そこで小休止した。野登山は電波塔施設があり、山上の景観は台無しである。三角点まではすぐだった。眺めは無いのですぐ下る。山道から林道に出て若干下ると仙鶏尾根入り口に着いた。ここで大休止の昼食タイムになる。
        仙ヶ岳へ
 この尾根は鈴鹿でも有数のギャップが激しい。大体は痩せ尾根でキレットもある。野登山までは石灰岩の地質だったがここからは風化花崗岩に変わるので脆い。ようやくという感じで図根点がある仙ヶ岳に着いた。もう少し歩くと仙の石があり、東峰にも寄る。絶頂感のあるいい山頂である。西の峰へは若干下って白谷道分岐を経て登り返す。ここは県境縦走路が貫く要になっている。昨年登った能登ヶ峰の草原が見える。意外にも雨乞岳周辺は雲がかかる。1200m級の上空には寒気が来ているようだ。
 小休止の後小社峠に向けて下った。急な痩せ尾根だった。峠からは植林帯に入る。谷から谷へ渡渉を繰り返しながら林道に降り立つ。大石橋まではのぼり気味で長い。車止めから舗装の車道になり終点が広く駐車場になっている。近くの句碑(遭難碑)に寄った。比較的新しい供花があった。知多半田市の30歳の医者が行方不明になりこの辺りで遺体で発見されたと記憶している。父親が建立したものらしい。
    うつしよの泪かひそと渓蛍  公?
大石橋を経て下り一方の車道になる。小岐須渓谷のPに着いた。2日間の行事と山行も終わった。それぞれに散会となり帰った。

伊藤洋平『回想のヒマラヤ』を読む2015年12月03日

 このほどアマゾンに注文してあった表記の古書が届いて折々読んでいた。本書は山渓山岳新書の1冊として昭和30年8月10日に刊行された。当時の価格で100円だった。

 著者は1923(大正12)年、三重県に生まれ、名大の前身の八高から京大医学部に進学した。医学生の頃、昭和22年に「岳人」を創刊したことで夙に知られる。京大では山岳部に所属した。1953年京大ヒマラヤ遠征隊に参加し、アンナプルナⅣ峰への登頂を試みて敗退。以後、医業に精力を傾け、ヒマラヤに近づくことはなかった。医業では癌の病因がウイルスと考えられていた時代にウイルスの研究に打ち込まれた。愛知県がん病院の初代ウイルス部長に就任したが、62歳で志し半ばで死去。
大正12年は西暦1923年。存命ならば92歳になる。余りにも早かった死去と思う。
 
 経歴を時系列で追う。生年以外の年号は未確認。

1923年 三重県の津市に生まれる
1933年 アメリカで医師をしていた父親と死別。母とともに三重県に帰国。

1935年から1940年の旧制中学の頃、津市の30km西に座す経が峰に自転車で行き、初登山。御在所岳、鎌ヶ岳に次々登山する。鈴鹿の山を大方登り終えた。八高に進む。

1940年から1943年 八高でも山岳部に所属し、穂高の岩場に連れて行かれ、氷雪の山へ導かれた。京大医学部へ進む。

1944年から1948年 京大在学中の1947(昭和22)年に「岳人」を創刊。『岳人』50号(昭和27年6月80円)に寄稿された伊藤洋平の誕生秘話を引いておく。
 「前略、私はふとIに、かねて夢に描いていた若い登山家の手で、純粋な山岳雑誌を創り上げる構想について話した。「そりゃ面白い」とIは即座に賛成してくれた。中略。それでは、誌名は何とつけるか。『蒼氷』『岩壁』そんな尖鋭な感覚を表現する名前が私の脳裏に浮かんだが、やはり何となく幅に乏しい感じで、いずれも気がすすまない。そのときルックザックにもたれて腕ぐみをしていたIが「山岳の岳に人―『岳人』というのはどやろ」と呟いた。がくじんーなんという力強い親しみのある響きであろう。このようなよい言葉が手近にあるのをどうして気づかなかったのか。「『岳人』そうだ、それに決めた」私は思わず車内で立上がって叫んだ」「今にして思えば、『岳人』が今日あるのもあるいは当然かも知れない。そして私もIもただ花粉を運ぶ蝶の役目を果たしたに過ぎず、本当に『岳人』を生み出したのは、わが登山界の新しい息吹に他ならなかったということもしみじみと理解されるのである。」
 
1953(昭和28)年にアンナプルナへ旅立つ。医師として隊員に加わった。本書の最初の裏に「この書をわが敬愛する京大ヒマラヤ遠征隊1953年の山仲間に捧げる」と記載。この遠征で書かれた紀行文が素晴らしい。
アンナプルナへの旅
嵐の中の遠征隊
中世の都にて
と3部作になっている。これらは串田孫一編『忘れえぬ山 Ⅲ』にも収録されている。その理由は伊藤洋平の名文だからと思う。頂上には立てなかったが名うての紀行家として名を知らしめた。アンナプルナへの旅は医師の観察眼でネパールの人たちを鋭く描写している。
嵐の中の遠征隊の一文「アンナプルナよさらば」には
 第Ⅲ峰の雪煙は、依然として立ち上がっている。その姿は、何匹もの白い龍が、狂喜乱舞しているように見える。
とある。
 およそ、登山家の文ではない。これは詩人の感性である。山岳雑誌「岳人」の前に詩集の編集も手がけている。比喩がうまいといえる。
 かつて、やはり登山家にして文章家の原真(1936~2009)は「よっぺいちゃん、文がうまいなあ」と関係者に語っている。よっぺいとは洋平の愛称。

1955(昭和30)年、『回想のヒマラヤ』を上梓。これ以外にも昭和24年から技術書、写真集、紀行集などを7冊以上出版した。古書で出回っている。しかし、今だれでも書店で買えるのは『忘れえぬ山Ⅲ』(ちくま文庫)のアンナプルナ関係だけだ。

1967(昭和42)年にはJAC東海支部の副支部長に就任。1970年のマカルー遠征隊長になった。1985(昭和60)年6月に死去。
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%B4%8B%E5%B9%B3-1055302

山の歌「雪山に消えたあいつ」を聴く2015年12月04日

 2015年も12月となった。年賀はがきを書こうか、と思案するが、その前に辞退の喪中はがきが来る。すでに4通になる。
 今年も多数の山仲間を失ったことを思う。山岳遭難では1月19日には北アルプスの五竜岳山麓の豪雪の沢に埋もれた山スキーの3名、4月初旬には荒島岳にアタックしたが残雪の緩みから倒木を避けられず、頭に当り、客死した。遺体発見までの捜索活動で、ほぼ半年間は気が気ではなかった。
 鎮魂の歌を聴くこととする。
 
 https://www.youtube.com/watch?v=mmFF9q-3m_U

木守柿2015年12月06日

青空に捧げよ木守柿一つ

誰からも愛されずとも木守柿

蕭条と桜並木の冬紅葉

日当たりて銀杏黄葉は黄金色

空咳や寝転んで読む山の本

年忘れ2015年12月11日

  山岳会ルームにて
懐かしき顔が嬉しき年忘れ

不揃いのよりどりみどりみかん食ぶ

寿司のあとピザも出されし忘年会

  地下鉄車内にて2句
忘年会帰りですかと赤ら顔

着膨れてなほもスマホをいじる客

燃へながら美しく落つ冬夕焼

短日や勤め帰りの足早に

  今年の日記の端に来年の予定が溜まるので
来年も登山だスキーだ日記買ふ

湯気の立つうどんに落す寒卵(鈴鹿山麓産)

松平郷から天下峯を歩く2015年12月12日

 過去の記録  王滝溪谷から天下峯を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/10/22/4647334

 以前は王滝溪谷から歩いた。今一歩きでがないので、松平郷から試みた。
 9時30分過ぎ、名古屋を出発。東の空は雲が厚い。暖かいので空気が湿っているのだろう。R153は流れもよく、豊田市をスムーズに通過できた。R301になり、矢作川を渡る橋で、流れが渋滞すると、ふっと目の前を見ると、目の前に焙烙山と六所山が並んで、屏風のように聳える。
 10年前の合併で豊田市最高峰の名誉は剥奪されたが、豊田市民には朝な夕なに眺められ、親しまれている里山である。天下峯は前景に埋没して同定はできない。
 R301は丘陵地を越えて、東海環状の豊田松平ICを左に見て下ると巴川にかかる松平橋を渡る。右折し、案内にしたがって左折する。豊田松平ICから7kmで松平郷への案内板のある三叉路に着く。左折するとPとトイレがあるが、松平東照宮や高月院はまだ奥まで走る。11時前に着いた。
      松平郷・沢連(そうれ)の山里を歩く
 今日は休日なので農産物を売る露店が開店していたので白菜と里芋を買った。車はまばらにある。すでにシーズンは過ぎて閑散としている。しかし、名残りの紅葉も素晴らしい色彩を見せる。11時過ぎ、身支度を整えて、天下峯に向かう。六所山への登山口を右に見送り、高月院への道も見送る。車道歩きである。坂道を歩くと左に在原家のミニガイドがあるが、下山後に見送る。
 登りきった三叉路を右折。セメントのよう壁の前後に枝道があり、下は高月院への近道と石碑があった。
 ぐんぐん急な坂道を登ると二股になるが道標を見て直進。暖冬のせいで道路わきのツツジが狂い咲きしている。右折の道も上部で合流する。一軒の住居と建物があるが行き止まりだ。ここからヘアピンのように左折する。車道の幅はあるが通過は困難だろう。
      六所山を遥拝する東宮口へ(ひがしみやぐち)へ
 荒れた舗装から地道になり、きり開きを越えるとまた舗装路になる。桧、杉の植林山の山腹を巻く感じだ。残された渋柿がたわわに実っている。照葉樹林の青、雑木林の彩り、針葉樹の植林と変化する。車道は一旦下って軽く乗り越す。ほとんど平坦な道になった。そのまま歩くと六所神社のある東宮口に着いた。東宮(とうぐう)とは皇太子の意味があるが、橋の名前のところに地蔵橋とあり、宮口川とあったので宮口の東の意味か。
 ここは六所山の麓であり里宮である。農村舞台もある。あるHPにはかつては宮口村といい、社領だったという。村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる、と書いてある。宮口音頭まであるそうだ。数分下ると、坂上町字金姓(かねしょう)の地にある下宮一の鳥居が建っていた。鳥居からは六所山が背景に見える。あの山は明神山(六所大明神)とも呼ばれたが、山全体が御神体であり、古代からの遥拝地なのであった。なぜかここだけが残されたのも神聖な場所だからだろう。
     神聖な六所山遥拝の地を育む水田
 それにしても仁王への分岐にある宮口川の橋から眺める六所山は素晴らしい山容である。三河三霊山(三河本宮山、猿投山)の一つというだけはある。緩やかな丘陵地形に挟まれた谷の風景は、鎌倉市辺りならば谷戸(やと)という地形である。多すぎない水量の宮口川は美しい水田を潤す。地形図を眺めると六所山の西麓だが、南側の山が低く、朝早くから陽光に恵まれるのだろう。そして水田を北側に集約し、宮口川を南の山陰に寄せて流す。北側に民家も寄せているが、背後からも小さな流れがある。制御しやすい湧水は農業に助かる。
 十二月の今は穭田(ひつじた)になっている。地味が豊かで今にも生育しそうだ。「刈り取った稲の株から再び生えてくるひこばえを穭(ひつじ)といい、一面に穭の生えた刈田を穭田という。乾いた田の面を吹く風に弱々しい青い葉が揺れているのは晩秋の寂しい眺めだが、中には青々と葉が茂って、小さな穂をつけるものもある。枯れ果てた四囲の景の中でその青さは目にしみるが、やがて霜が来ると白々と枯れてゆく。それまでの間、穂をついばみに」降りてくる小鳥の声がしばらく穭田ににぎわいとなる」(水原秋桜子編『俳句小歳時記』大泉書店 より)
 六所山は農の恵みを与えた山だった。
     仁王から天下峰へ登る
 宮口川に沿う細い車道を下ると仁王に着く。ここが天下峯の登山口になる。王滝への道から右折すると民家が肩を寄せ合うように建っている。奥まで歩き橋を渡る。奥の民家で行き止まりとなるので細い山道に右折する。すぐに安全寺に着く。松平親氏が天下泰平を祈願したという謂れが書いてある。山門には天下山とある。
 奥へ入るのは略してそのまま植林内の山道を登る。細い車道に出ると天下峯への小さな道標がある。車道を登って行くとほどなく天下峯への山道が分かれる。楓の冬紅葉が美しい。右はフリークライミングのゲレンデに直行し、上部で左折する。そのまま車道を行くとトイレとPがある。すぐ右手に天下峯への山道が登って行く。
 どちらでも良いがこちらの方が少しは短い。周囲は巨岩の並ぶ急峻な山腹である。その所々に石仏が安置されて心休まる。クライマー達は大きな取り付くシマのない巨岩に取り付いて攀じ登る。その横をすり抜けて階段状の道になるとすぐに巨岩の横たわる頂上である。13時少し前に着いた。
 頂上からは豊田市の市街地も眺められるが、何といって六所山の眺めが良い。左には兄貴格の焙烙山も並ぶ。少し背が高いが山格は六所山に及ばない。松平親氏はここからやがて天下を治めるぞ、と祈願した。企業経営者なら何々で日本一になるぞ、とか、願うことだろう。トヨタが日本一から数十年で世界一を実現したように願わないと実現もしない。13時30分過ぎ、下山。
     東照宮へ
 元の仁王へ戻る。361号を王滝へ歩き、橋を左折。豊松小学校のある峠道を越えて360号へ下る。少し登り返して東照宮へ2.3kmの案内のある車道を歩く。羽明という山さとを経て登ると沢連(そうれ)に着く。往きに見た在原家の墓所のある在原山に寄った。在原家は松平の遠祖という。徳川さんは先祖を大切にしたんだろう。
 車道を下ると松平郷に戻った。山頂から東照宮まで約4kmで1時間程のこと。ほぼ4時間弱の山里ウォーキングでした。東照宮には大勢のハイカーが説明を聞いていた。Pには大型のバス1台があり団体さんらしい。閑散と思っていたが意外にも午後から来訪する人が多かったようだ。

帰り花2015年12月13日

  12/12は小津安二郎の誕生日と命日
十二月生まれて死ぬも十二日

  小津映画は淡白な味わいだが本人は
  松阪牛や鰻を好む健啖家だった
小津の忌やがっつり鰻食べたき日

松平の地の白菜を売る露店

山眠る先祖代々眠る郷

帰り花山路にひそと花つつじ

山柿も数多実りし冬木かな

凍て蝶に老残の身を重ねけり

冬の田の果に霊峰六所山

穭田の伸び伸びと伸び冬温し

冬紅葉登山口だけ彩りぬ

冬枯れの老いばかり棲む山の里

訃報!谷口けいさんが大雪山系・黒岳で遭難死2015年12月22日

 毎日新聞から
21日午後2時50分ごろ、北海道上川町の大雪山系黒岳(1984メートル)を登山している男性から「女性1人の姿が見えなくなった」と道警本部に電話で通報があった。道警などが22日、周辺を捜索したところ、遭難した山梨県北杜市大泉町の登山家、谷口けい(本名・谷口桂)さん(43)を発見。病院で死亡が確認された。

 道警旭川東署によると、21日午後2時35分ごろ、山頂付近でロープを使って登っていた時、谷口さんがロープを外して離れ、仲間が戻ってこないのに気付いた。近くの斜面には滑落したような跡があったという。

 谷口さんは、男性4人を含む道内外の登山仲間5人組でスキー登山のため20日に入山。同日は7合目で1泊した後、21日に山頂に登る予定だった。

 道警は21日夜に無事下山した4人から事情を聴くとともに、山岳遭難救助隊などが22日朝から捜索を開始していた。

 谷口けいさんは、世界の優れた登山家に贈られるフランスの「ピオレ・ドール賞」(黄金のピッケル)を2009年に女性として世界で初めて受賞。エベレストなどの登頂経験もあり「今の日本で最も活躍している女性登山家の一人」とも評される。【横田信行、日下部元美】
以上
黒岳の地図
http://maps.gsi.go.jp/?ll=43.703716,142.921314&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0

 今年、1月17日の支部の新年会に招き、スピーチを拝聴したばかりだった。明るく感じのよい女性登山家だった。インターネットで遭難の報を知ったが、大怪我をしていながらもきっと生存しているだろうと思った。その願いも空しく帰宅後のニュースは死亡を報じた。山は非情であると強く思う。
 お悔やみ申し上げる。

冬の雨2015年12月23日

 暖冬の象徴のような冬の雨。山上では雨か雪か。
 雨が降る前の午前中にスタッドレスタイヤに交換した。午後は定例の句会をこなした。夫が亡くなったり、骨折して介護に追われたり大変である。一方で早くに夫と死別した人は俳句に音楽にと活動しまくる。新年会を約して、散会した。散会後、エンジン音が大きくなったのでオイル交換する。これで冬道の準備は終わった。

谷口けいさん遭難 「登山家の星」悼む 田部井淳子さん2015年12月23日

毎日新聞から
 世界的登山家の谷口けいさん(43)が大雪山系黒岳で遭難、死亡したとの知らせに山岳関係者からは驚きと悲しみの声が上がった。

<谷口さんは女性として世界初の「ピオレ・ドール」受賞>「今の日本で最も活躍している女性登山家の一人」
 谷口さんは2006年春にアルピニストの野口健さんらが行ったネパール・マナスル峰の清掃登山隊に参加し、自身初の8000メートル峰登頂を果たした。当時、別の隊でマナスルに入山中で、ベースキャンプで交流した登山家の田部井淳子さん(76)は「とてもショックだ。谷口さんは男性と対等に登れる体力と技術を持った女性登山家の星だった。これからの人を失ってしまい、残念でならない」と突然の死を悼み、「女性にとって登山中のトイレは大きなハンディ。装備を外し、バランスも崩しやすい。突風の影響なども考えられる」と話した。

 谷口さんが黒岳に入山する直前に見送ったという登山家でニセコ雪崩調査所所長の新谷暁生(しんやあきお)さん(68)=北海道ニセコ町=は「もっと多くのことを成し遂げてくれるはずだったのに」と惜しんだ。【手塚耕一郎】
以上
 朝刊は谷口けいさんの遭難死を報じた。国際的登山家の死を悼んだ。用足しにと確保のザイルを解いた。それがどんなリスクがあるのかは彼女も十分に分かっていたはずだ。転落というが、ほんのちょっとした油断であろう。田部井淳子さんは女性のハンディを指摘された。だから彼女は女性だけでパーティを組む。女性だけの山岳グループはそういう意味があるのだ。