北ア・薬師岳慰霊登山 ― 2015年08月03日
今年も同窓会富山県支部の幹事の方から電話で薬師岳慰霊登山へのお誘いを受けて即決で参加することにした。今回はブログで知った兎夢さんが同窓と知り、行事の案内をしたら同行することになった。。
名古屋を7/31の夜発ち、岐阜各務原で兎夢さんと合流。沢の話、奥美濃の山の話で盛り上がった。ひるがのSAで仮眠。あるぺん村に集結。
8/1から8/2にかけて9人が登山。幸い2日とも好天に恵まれてアクシデントも無く無事に下山した。余談だが、毎々、太郎坂の急登は足にこたえる。今回も足の痙攣に備えて持参した「芍薬甘草湯」が9人中3人の役に立った。
たった今読んでいた本にこうあった。
「記憶の働きというのは不思議です。人は二度死ぬと言います。一度は息を引き取ったとき、二度目はその人のことを記憶する者が居なくなったときです。中略。誰からも忘れられたとき、人は二度死ぬのです」
渡部昇一氏
死者から見て世の中から忘れられて行くのが一番辛いことです。ですからお彼岸やお盆の行事もあるでしょう。靖国神社や護国神社も戦争で亡くなった人を忘れないためです。
薬師岳で死んだ愛知大生13人を慰霊するのは今はもう直接関係のない人ばかりになりました。しかも若い頃、登山をしていたわけではなく、ふと気づいたら自分の住んでいる富山県の山で大先輩達が亡くなったことを知った。経験者でも辛い3000m峰に登ってせめてもの慰霊をしたい。そんな気心を持った人ばかりです。
こうしたアクティブにして稀有な行事が継続されるのは富山県人が真宗の徒だからといえるだろう。地味ながら北陸地方の片隅で人生を刻んでいく同窓の活動に敬意を表する。
山行記は過去のものを貼り付けた。
2010年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666
2012年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2013年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/07/29/6927586
名古屋を7/31の夜発ち、岐阜各務原で兎夢さんと合流。沢の話、奥美濃の山の話で盛り上がった。ひるがのSAで仮眠。あるぺん村に集結。
8/1から8/2にかけて9人が登山。幸い2日とも好天に恵まれてアクシデントも無く無事に下山した。余談だが、毎々、太郎坂の急登は足にこたえる。今回も足の痙攣に備えて持参した「芍薬甘草湯」が9人中3人の役に立った。
たった今読んでいた本にこうあった。
「記憶の働きというのは不思議です。人は二度死ぬと言います。一度は息を引き取ったとき、二度目はその人のことを記憶する者が居なくなったときです。中略。誰からも忘れられたとき、人は二度死ぬのです」
渡部昇一氏
死者から見て世の中から忘れられて行くのが一番辛いことです。ですからお彼岸やお盆の行事もあるでしょう。靖国神社や護国神社も戦争で亡くなった人を忘れないためです。
薬師岳で死んだ愛知大生13人を慰霊するのは今はもう直接関係のない人ばかりになりました。しかも若い頃、登山をしていたわけではなく、ふと気づいたら自分の住んでいる富山県の山で大先輩達が亡くなったことを知った。経験者でも辛い3000m峰に登ってせめてもの慰霊をしたい。そんな気心を持った人ばかりです。
こうしたアクティブにして稀有な行事が継続されるのは富山県人が真宗の徒だからといえるだろう。地味ながら北陸地方の片隅で人生を刻んでいく同窓の活動に敬意を表する。
山行記は過去のものを貼り付けた。
2010年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666
2012年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2013年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/07/29/6927586
盛夏 ― 2015年08月04日
薬師なる雷鳥人を恐れざる
雷鳥の天の声聞くごときかな
雷鳥の親一羽子は二羽を見る
老鶯や老いても続く山歩き
お花畑より奥黒部なる山又山
雪渓の解けて流るる黒部川
天上に咲くや白山一花群れ
稚児車見へてもうすぐ小屋が近し
遠目には笹に黄菅の群れ咲きて
綿菅の群れ咲く池塘鏡めく
薬師より湧きいずるなり山清水
ごくごくと飲めば元気や山清水
登山小屋混み合ひ飯も列をなす
テントすらお一人様やキャンプ場
炎天の路ひたすらに登るべし
夏木立登り下りや太郎坂
雷鳥の天の声聞くごときかな
雷鳥の親一羽子は二羽を見る
老鶯や老いても続く山歩き
お花畑より奥黒部なる山又山
雪渓の解けて流るる黒部川
天上に咲くや白山一花群れ
稚児車見へてもうすぐ小屋が近し
遠目には笹に黄菅の群れ咲きて
綿菅の群れ咲く池塘鏡めく
薬師より湧きいずるなり山清水
ごくごくと飲めば元気や山清水
登山小屋混み合ひ飯も列をなす
テントすらお一人様やキャンプ場
炎天の路ひたすらに登るべし
夏木立登り下りや太郎坂
西穂高岳 ― 2015年08月10日
8/8~8/9。新人3人組の要望に応えて、各務原の伊木山での岩登りのトレーニングに続き、西穂高岳に登山を果たす。最終目的は槍穂高連峰の大キレットのトレースになる。
午前4時起きて支度や普羅忌なり
奥飛騨に来ればさはやか槍も見ゆ
ハイマツの尾根はただただ残暑厳し
竜胆や岩を攀づれば西穂高
西穂高岳に立つ行く雲の秋めきて
灯火親し福島訛と相部屋に
午前4時起きて支度や普羅忌なり
奥飛騨に来ればさはやか槍も見ゆ
ハイマツの尾根はただただ残暑厳し
竜胆や岩を攀づれば西穂高
西穂高岳に立つ行く雲の秋めきて
灯火親し福島訛と相部屋に
社告:「山の日の歌」歌詞を募集 ― 2015年08月11日
毎日新聞 2015年08月11日 東京朝刊
来年8月11日に誕生する祝日「山の日」に賛同する自治体、公益団体や企業などでつくる全国「山の日」協議会(会長・谷垣禎一衆院議員)は、「山の日」を記念した歌を制作します。
日本作曲家協会最高顧問の船村徹氏が総合プロデューサーを務め、歌詞を一般から募集。船村氏や作詞家らが最優秀作と優秀作を各2編選び、著名な作曲家が曲をつけ、2016年春以降、楽曲として完成させる予定です(歌詞は一部改稿・補作の場合あり)。
【募集要項】未発表作品、800字以内。〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記。郵便(はがき不可)は〒100−8051(住所不要)毎日新聞社「山の日の歌」募集係(毎日企画サービス内)まで。
応募フォームからも応募可能
https://www.mainichi-ks.jp/form/yamanouta/
締め切りは今年末。最優秀賞2編に各50万円▽優秀賞2編に各10万円の副賞を贈呈。著作権は全国「山の日」協議会に譲渡(著作権利用料は山の安全・保全活動などに活用します)。
詳細は応募フォームに記載しています。お問い合わせは同募集係(03・3212・2273。土日祝日および年末を除く午前10時〜午後5時)。特別協力=毎日新聞社▽協力=下野新聞社▽後援=株式会社共同通信社
以上
来年8月11日に誕生する祝日「山の日」に賛同する自治体、公益団体や企業などでつくる全国「山の日」協議会(会長・谷垣禎一衆院議員)は、「山の日」を記念した歌を制作します。
日本作曲家協会最高顧問の船村徹氏が総合プロデューサーを務め、歌詞を一般から募集。船村氏や作詞家らが最優秀作と優秀作を各2編選び、著名な作曲家が曲をつけ、2016年春以降、楽曲として完成させる予定です(歌詞は一部改稿・補作の場合あり)。
【募集要項】未発表作品、800字以内。〒住所、氏名、年齢、職業、電話番号を明記。郵便(はがき不可)は〒100−8051(住所不要)毎日新聞社「山の日の歌」募集係(毎日企画サービス内)まで。
応募フォームからも応募可能
https://www.mainichi-ks.jp/form/yamanouta/
締め切りは今年末。最優秀賞2編に各50万円▽優秀賞2編に各10万円の副賞を贈呈。著作権は全国「山の日」協議会に譲渡(著作権利用料は山の安全・保全活動などに活用します)。
詳細は応募フォームに記載しています。お問い合わせは同募集係(03・3212・2273。土日祝日および年末を除く午前10時〜午後5時)。特別協力=毎日新聞社▽協力=下野新聞社▽後援=株式会社共同通信社
以上
「山の日」の言いだしっぺは船村徹さんか? ― 2015年08月12日
来年の8月11日は「山の日」としていよいよ祝日になる。私などは若い頃から「ホリディ山の日」なのであまり実感はない。
こんなことを言い出したのは誰か。
それはどうも演歌の作曲家として知られる船村徹さんらしい。所属する日本山岳会のHPに船村さんの「山の日」への想いが綴られたエッセイがあるので転載する。
「「山の日」をつくろう 船村 徹 (オピニオン)
船村 徹
「海の日」という祝日がある。1996年に制定された国民の祝日のひとつである。
現在7月の第3月曜日となっていて、世界唯一、わが国にだけ存在する祝日である。
海をテーマにした作品を数多く手がけてきた私も心から納得して、設立には微力ながら協力したおぼえがある。ぐるりと海にかこまれた海国日本なのだから、われわれが海の恩恵にあずかって生きているのもあたりまえだ。
太古から「山海一体」
しかし、まてよ、考えれば考えるほど、なんかへんな気がしてならないのである。「海があんのに山がねえー」べつに海なし県の栃木(塩谷町)で生まれ育った男の偏見などではなく、自然界の大摂理として、太古から信仰的にも実生活的にも人類にとっては「山海一体」なのであった。
山に降った雨や雪は、森にしみ出して林を流れ下り村や里をうるおして大河となって、やがて広大な海洋へとたどり着くのだ。とどのつまりが山と海とは、親友でもあり、男と女、夫婦以上に深い仲でもあるのだ。山が栄えれば海がよろこび魚は肥える。深山幽谷をほとばしる水源は神秘の栄養素にみちて、プランクトンやミネラルなどを運んで、渓谷や湖沼の淡水魚や里の農産物にも幸せをさずけながら大海に入ってゆく。
やっぱり「山」はすごいのだ。「山」が痛んじゃいけない。近頃の燃料の高騰が海上労働にたずさわる諸氏にとっては、たしかに楽ではないが、海に魚介類がいなくなったら、全国的にいちころでヘコタレっちまうだろう。
国民が心をひとつに
幼かったころのふる里の川には、天然ものの渓魚はピチピチとむれ跳ねていて、学校帰りに川へ入ってヤマメでもイワナでもカヂカでも、手づかみでバケツ一杯とれたもんだった。秋になると裏の山々には渡り鳥たちが飛んでくる。あの那須岳の奥のあたりに、おれの初恋のひとが住んでいるんだ ―などと空想して、渡り鳥にたのんでみよう― 葉に書いた愛の手紙を…そんな少年の恋物語を友人たちと語りながら歩いた山の小径も、なぜか美しかった。
山ぐにで育った私は、中禅寺湖しか知らなかったから、上京して音楽大学に入ると横浜港へ海を見に出かけた。あのあたりはアメリカ占領軍の管理がやかましくて、「犬と日本人はいるべからず」なんて書いたカンバンがフェンスにぶら下がっていたが、かまうもんかともぐり込んで波止場の水をなめてみた。やっぱり塩っぱかったのを今でもおぼえている。
最近、海を豊かに守るためには、「山」を大切にしなければならないと、植林活動にいそしむ漁協も多いと聞く。いい事である。
今こそ日本国民が心をひとつにまとめて、「山の日」をつくり、国民の祝日とさだめ、おおいに、「山海の友情」を厚くしようではないかと思っている。
(日本作曲家協会最高顧問、日本山岳会々員)
※2008年9月7日 下野新聞より転載」
以上
作詞家の星野哲郎と組んで「なみだ船」以来、数々のヒット曲を飛ばしたから海のイメージが強い作曲家である。星野哲郎は愛弟子の演歌歌手・島津亜矢に自分の果たせない夢を歌詞化した「海で一生を終わりたかった」(作曲・船村徹)を歌わせているほどの海オタクだった。
しかし、船村さんは必ずしも海にこだわりは無かった。それは引用したエッセイを読むと良く分かる。星野哲郎も1990年には「山」を書いて、北島三郎が作曲し、自身で歌った。歌詞の内容は今一である。人生を歌い過ぎてしつこい。ボキャブラリーの豊富な海ものと違って山ものは難しい。俳句でも山岳俳句の分野は季節のずれや地貌があって把握が難しいとされる。名作詞家にも不得手はある。
茫漠としてとらえがたい山をどう歌詞化するのか。今回の「山の日」の歌はもちろん演歌調や民謡調であってはなるまい。ある人はバラード調が良いと言った。「虹と雪のバラード」とか「君といつまでも」などが有名であるが、演歌よりは軽くて歌いやすいが甘くなりやすい。日本人の山に対する思いを共感を得るにはどう把握するか。上記のエッセイの中にヒントはあると思う。
こんなことを言い出したのは誰か。
それはどうも演歌の作曲家として知られる船村徹さんらしい。所属する日本山岳会のHPに船村さんの「山の日」への想いが綴られたエッセイがあるので転載する。
「「山の日」をつくろう 船村 徹 (オピニオン)
船村 徹
「海の日」という祝日がある。1996年に制定された国民の祝日のひとつである。
現在7月の第3月曜日となっていて、世界唯一、わが国にだけ存在する祝日である。
海をテーマにした作品を数多く手がけてきた私も心から納得して、設立には微力ながら協力したおぼえがある。ぐるりと海にかこまれた海国日本なのだから、われわれが海の恩恵にあずかって生きているのもあたりまえだ。
太古から「山海一体」
しかし、まてよ、考えれば考えるほど、なんかへんな気がしてならないのである。「海があんのに山がねえー」べつに海なし県の栃木(塩谷町)で生まれ育った男の偏見などではなく、自然界の大摂理として、太古から信仰的にも実生活的にも人類にとっては「山海一体」なのであった。
山に降った雨や雪は、森にしみ出して林を流れ下り村や里をうるおして大河となって、やがて広大な海洋へとたどり着くのだ。とどのつまりが山と海とは、親友でもあり、男と女、夫婦以上に深い仲でもあるのだ。山が栄えれば海がよろこび魚は肥える。深山幽谷をほとばしる水源は神秘の栄養素にみちて、プランクトンやミネラルなどを運んで、渓谷や湖沼の淡水魚や里の農産物にも幸せをさずけながら大海に入ってゆく。
やっぱり「山」はすごいのだ。「山」が痛んじゃいけない。近頃の燃料の高騰が海上労働にたずさわる諸氏にとっては、たしかに楽ではないが、海に魚介類がいなくなったら、全国的にいちころでヘコタレっちまうだろう。
国民が心をひとつに
幼かったころのふる里の川には、天然ものの渓魚はピチピチとむれ跳ねていて、学校帰りに川へ入ってヤマメでもイワナでもカヂカでも、手づかみでバケツ一杯とれたもんだった。秋になると裏の山々には渡り鳥たちが飛んでくる。あの那須岳の奥のあたりに、おれの初恋のひとが住んでいるんだ ―などと空想して、渡り鳥にたのんでみよう― 葉に書いた愛の手紙を…そんな少年の恋物語を友人たちと語りながら歩いた山の小径も、なぜか美しかった。
山ぐにで育った私は、中禅寺湖しか知らなかったから、上京して音楽大学に入ると横浜港へ海を見に出かけた。あのあたりはアメリカ占領軍の管理がやかましくて、「犬と日本人はいるべからず」なんて書いたカンバンがフェンスにぶら下がっていたが、かまうもんかともぐり込んで波止場の水をなめてみた。やっぱり塩っぱかったのを今でもおぼえている。
最近、海を豊かに守るためには、「山」を大切にしなければならないと、植林活動にいそしむ漁協も多いと聞く。いい事である。
今こそ日本国民が心をひとつにまとめて、「山の日」をつくり、国民の祝日とさだめ、おおいに、「山海の友情」を厚くしようではないかと思っている。
(日本作曲家協会最高顧問、日本山岳会々員)
※2008年9月7日 下野新聞より転載」
以上
作詞家の星野哲郎と組んで「なみだ船」以来、数々のヒット曲を飛ばしたから海のイメージが強い作曲家である。星野哲郎は愛弟子の演歌歌手・島津亜矢に自分の果たせない夢を歌詞化した「海で一生を終わりたかった」(作曲・船村徹)を歌わせているほどの海オタクだった。
しかし、船村さんは必ずしも海にこだわりは無かった。それは引用したエッセイを読むと良く分かる。星野哲郎も1990年には「山」を書いて、北島三郎が作曲し、自身で歌った。歌詞の内容は今一である。人生を歌い過ぎてしつこい。ボキャブラリーの豊富な海ものと違って山ものは難しい。俳句でも山岳俳句の分野は季節のずれや地貌があって把握が難しいとされる。名作詞家にも不得手はある。
茫漠としてとらえがたい山をどう歌詞化するのか。今回の「山の日」の歌はもちろん演歌調や民謡調であってはなるまい。ある人はバラード調が良いと言った。「虹と雪のバラード」とか「君といつまでも」などが有名であるが、演歌よりは軽くて歌いやすいが甘くなりやすい。日本人の山に対する思いを共感を得るにはどう把握するか。上記のエッセイの中にヒントはあると思う。
村中征也『白く高き山々へ』上梓なる! ― 2015年08月13日
8月11日、郵便受けにどっしりとしたものが投函されていた。それが表記の本であった。以前から出す出すと聞いてはいたが、新年会でも出版されていなくて、注文取りに回っていた。やっと上梓されたのだ。
冒頭のはじめにを読むと、8月11日というのは筆者が58歳の誕生日から2日後にアルプスのマッターホルンの頂上に立ったこだわりの日だったのである。つまりこの日を待っていて満を持して送付してきたのである。
ナカニシヤ出版。1500円+税。購入は直接HPから注文。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b208660.html
内容は高卒で東海銀行に入行後、登山を開始したこと。銀行員としての人生を終えた後も一般企業で働いたことなどから自分史の趣が濃厚である。しかしこれだけなら出版する意義はない。
若い頃からアルプス登山に夢を持っていた。それを夢だけに終わらせずに実践していった。定年退職を機に、夢の実現に向けて加速していった。アルプス登山に関してはガイドを伴っての登頂なので特別に珍しい話はない。ガイド付なら無難に登頂できて当然である。
登山記も過去にあまたあるから価値はないと思われる。登山記に挿入される短歌も江戸時代の旅人の紀行の模倣に過ぎない。本文からはなれると韻文としての独立を保てないであろう。つまり感動がなく、写生にとどまり、違和感がある。歌人なら歌人として季節感のある短歌にするべきではないか。
異色なのは登山での意思疎通を滑らかにするためにアルプスに同化するかのようにドイツ語留学したことである。ここに筆者の本当に言いたい部分があるのではないか。ドイツ語を堪能なものにしてからが本書の真骨頂というべきだろう。単なる旅人として山頂をかすめるだけではない現地人との交遊録になっている。
日本の銀行員というものは天気の良い日に傘を貸して、雨が降ると取り上げる、という格言?にあるように大変ドライなものである。担保をとり、連帯保証人を立て、且つ歩積み両建て預金を積ませる銀行優位の時代もあった。
又、50歳までに支店長の昇格のコースから外れると資本関係のない企業へ片道切符をきられる過酷な世界でもあろう。高卒といえども成績は上から5番以内しか採用されないとも仄聞している。個人としては優秀な人が多い。筆者もその例外ではないだろう。
大銀行ゆえに経済的には恵まれたものの真に友情をはぐくんだり、信頼関係を結ぶことが無かったのではないか。日本では金融ビッグバンで金融システム崩壊の危機を招いた。公的資金を注入されて、銀行員は尊敬と信頼を失い、大衆の中の孤独なエリート層だったのである。
川口マーン恵美著『日本とドイツ 歴史の罪と罰』によれば、小学校を終えると、A校=エリート層の養成、B校=中堅層の担い手の養成、C校=伝統的には職人の養成と分かれる階級社会の教育システムを描く。敗者復活戦はない仕組みである。
欧州のような階級社会の中で、一生人に使われて過ごす階級に客人として入り込めば、筆者は日本から来たエリート層なので、一種尊敬のまなざしで迎えられたであろう。そこが居心地の良さにつながっている。ヒマラヤ山系においてはもっと顕著であろう。
さて、海外遠征の盛んな日本山岳会東海支部も草創期は抜きん出たアルピニストのガイドレス、シェルパレス登山が主流だった。次が組織登山の時代、高齢者のエベレスト登山、インドヒマラヤ登山が続いた。インドヒマラヤについては実りの時期になって、今年中にも登山記が集大成される。
そして、今回のように個人のアルプス登山記がまとめられることになった。かつて、東海支部で手腕を発揮していた原真は『快楽登山のすすめ』の中で、自分本位の登山を勧めた。
「面白い山登りをやるための第1条件は、「自分本位」になることだろう。「他人本位」の山登りではちっとも面白くないということは、まだ社会通念になっていない。日本人が、山に限らず一般に物事を楽しむ能力に欠けているのは、他人本位だからである。封建時代の遺風が残っているお国柄といってよい。この遺風を打ち破らなければ、面白い登山はできない。
自分本位の人間というのは、自分の考えをもっている-少なくとも、もとうとしている-人間のことである。こういう人間は他人の考えを尊重する能力を持っているから、たがいに協力しあえる。一方、他人本位の人間というのは、自分の考えをもっていない-またはもとうとしない-人間のことである。この種の前時代に属する人間たちは、自分が考えをもたないのと同じに、他人も考えをもつべきでないと思っている、こういう人間たちには、集団に対する従属や支配(おなじものである)の感情はあるが、個人としての自己表現の精神にとぼしい。彼らは、他人の犠牲になるかたわら、自分でも他人を犠牲にして生きていこうとする。」
過激な考え方である。しかし、夢に見たアルプス登山を実現するためには自分本位にならざるを得ない。シュリーマンの『古代への情熱』、日本を測量して回った伊能忠敬とか、若い頃から蓄財し、高年になってから夢の実現に向かって生きた。筆者の周到な生き方にはそんな人たちとの共通項もあるのである。
冒頭のはじめにを読むと、8月11日というのは筆者が58歳の誕生日から2日後にアルプスのマッターホルンの頂上に立ったこだわりの日だったのである。つまりこの日を待っていて満を持して送付してきたのである。
ナカニシヤ出版。1500円+税。購入は直接HPから注文。
http://www.nakanishiya.co.jp/book/b208660.html
内容は高卒で東海銀行に入行後、登山を開始したこと。銀行員としての人生を終えた後も一般企業で働いたことなどから自分史の趣が濃厚である。しかしこれだけなら出版する意義はない。
若い頃からアルプス登山に夢を持っていた。それを夢だけに終わらせずに実践していった。定年退職を機に、夢の実現に向けて加速していった。アルプス登山に関してはガイドを伴っての登頂なので特別に珍しい話はない。ガイド付なら無難に登頂できて当然である。
登山記も過去にあまたあるから価値はないと思われる。登山記に挿入される短歌も江戸時代の旅人の紀行の模倣に過ぎない。本文からはなれると韻文としての独立を保てないであろう。つまり感動がなく、写生にとどまり、違和感がある。歌人なら歌人として季節感のある短歌にするべきではないか。
異色なのは登山での意思疎通を滑らかにするためにアルプスに同化するかのようにドイツ語留学したことである。ここに筆者の本当に言いたい部分があるのではないか。ドイツ語を堪能なものにしてからが本書の真骨頂というべきだろう。単なる旅人として山頂をかすめるだけではない現地人との交遊録になっている。
日本の銀行員というものは天気の良い日に傘を貸して、雨が降ると取り上げる、という格言?にあるように大変ドライなものである。担保をとり、連帯保証人を立て、且つ歩積み両建て預金を積ませる銀行優位の時代もあった。
又、50歳までに支店長の昇格のコースから外れると資本関係のない企業へ片道切符をきられる過酷な世界でもあろう。高卒といえども成績は上から5番以内しか採用されないとも仄聞している。個人としては優秀な人が多い。筆者もその例外ではないだろう。
大銀行ゆえに経済的には恵まれたものの真に友情をはぐくんだり、信頼関係を結ぶことが無かったのではないか。日本では金融ビッグバンで金融システム崩壊の危機を招いた。公的資金を注入されて、銀行員は尊敬と信頼を失い、大衆の中の孤独なエリート層だったのである。
川口マーン恵美著『日本とドイツ 歴史の罪と罰』によれば、小学校を終えると、A校=エリート層の養成、B校=中堅層の担い手の養成、C校=伝統的には職人の養成と分かれる階級社会の教育システムを描く。敗者復活戦はない仕組みである。
欧州のような階級社会の中で、一生人に使われて過ごす階級に客人として入り込めば、筆者は日本から来たエリート層なので、一種尊敬のまなざしで迎えられたであろう。そこが居心地の良さにつながっている。ヒマラヤ山系においてはもっと顕著であろう。
さて、海外遠征の盛んな日本山岳会東海支部も草創期は抜きん出たアルピニストのガイドレス、シェルパレス登山が主流だった。次が組織登山の時代、高齢者のエベレスト登山、インドヒマラヤ登山が続いた。インドヒマラヤについては実りの時期になって、今年中にも登山記が集大成される。
そして、今回のように個人のアルプス登山記がまとめられることになった。かつて、東海支部で手腕を発揮していた原真は『快楽登山のすすめ』の中で、自分本位の登山を勧めた。
「面白い山登りをやるための第1条件は、「自分本位」になることだろう。「他人本位」の山登りではちっとも面白くないということは、まだ社会通念になっていない。日本人が、山に限らず一般に物事を楽しむ能力に欠けているのは、他人本位だからである。封建時代の遺風が残っているお国柄といってよい。この遺風を打ち破らなければ、面白い登山はできない。
自分本位の人間というのは、自分の考えをもっている-少なくとも、もとうとしている-人間のことである。こういう人間は他人の考えを尊重する能力を持っているから、たがいに協力しあえる。一方、他人本位の人間というのは、自分の考えをもっていない-またはもとうとしない-人間のことである。この種の前時代に属する人間たちは、自分が考えをもたないのと同じに、他人も考えをもつべきでないと思っている、こういう人間たちには、集団に対する従属や支配(おなじものである)の感情はあるが、個人としての自己表現の精神にとぼしい。彼らは、他人の犠牲になるかたわら、自分でも他人を犠牲にして生きていこうとする。」
過激な考え方である。しかし、夢に見たアルプス登山を実現するためには自分本位にならざるを得ない。シュリーマンの『古代への情熱』、日本を測量して回った伊能忠敬とか、若い頃から蓄財し、高年になってから夢の実現に向かって生きた。筆者の周到な生き方にはそんな人たちとの共通項もあるのである。
お千代保稲荷に商売繁盛を祈願! ― 2015年08月15日
2009年10月に定年退職後、2010年8月1日に名古屋市中区丸の内に行政書士事務所を開業した。あれから早いもので今年で5周年を迎えることができた。開業年の年末年始にお千代保稲荷に参拝したのを契機に毎年1月中には参拝する。念願はもちろん商売繁盛である。
念願すればご利益は付いて回るものだと思う。2010年11月に会計の仕事、翌年には契約書の仕事が入って順調なスタートを切れた。定期収入は事務所の運営を支える。そしてスポットでも帰化申請、成年後見人の仕事等が舞い込み、軌道に乗った。
昨年8月1日には新事務所を確保。旧事務所の撤去のために移転を余儀なくされた。新事務所を物色するが、賃貸も割高のために思い切って自前の事務所を持つことにした。事業用資産は減価償却できるからだ。地下鉄・久屋大通駅から徒歩2分の好立地である。今回はこれのお礼参りもある。
当面の目標の年商1000万円まではまだ遠いが、節目節目で伸びてゆくだろうと思う。富士登山と同じで、山麓の登山口から5合目までは緩斜面の登りで長く、ゆっくりした歩みであるが、5合目を越えると傾斜が増して登りがたくなり苦しくもなる。そんな時神頼みが生きてくる。
昼前の暑い時間帯に出かけたせいか、車は少ない。正月ほどの混みようはないが、適度に善男善女の流れはあるので淋しい感じはない。50円だして油揚げとローソクを買って参拝。小社にも丁寧に参拝した。
もう一つの狙いは「なまず料理」を食することだった。小ぶりのなまずの蒲焼と鯉の刺身、鯉こくなどがついて2000円。但し、一口食べると頼りない味覚にがっかりする。淡白な白身を甘辛い醤油味で整えてある。醤油のたれの味に負けているのだ。鰻とは見た目そっくりでも脂分の豊富さにおいて比較にならない。旨みとは実に脂肪にあると思わせた。店を出ると、串カツの店が人だかりになっていた。見るだけにして車に戻った。
念願すればご利益は付いて回るものだと思う。2010年11月に会計の仕事、翌年には契約書の仕事が入って順調なスタートを切れた。定期収入は事務所の運営を支える。そしてスポットでも帰化申請、成年後見人の仕事等が舞い込み、軌道に乗った。
昨年8月1日には新事務所を確保。旧事務所の撤去のために移転を余儀なくされた。新事務所を物色するが、賃貸も割高のために思い切って自前の事務所を持つことにした。事業用資産は減価償却できるからだ。地下鉄・久屋大通駅から徒歩2分の好立地である。今回はこれのお礼参りもある。
当面の目標の年商1000万円まではまだ遠いが、節目節目で伸びてゆくだろうと思う。富士登山と同じで、山麓の登山口から5合目までは緩斜面の登りで長く、ゆっくりした歩みであるが、5合目を越えると傾斜が増して登りがたくなり苦しくもなる。そんな時神頼みが生きてくる。
昼前の暑い時間帯に出かけたせいか、車は少ない。正月ほどの混みようはないが、適度に善男善女の流れはあるので淋しい感じはない。50円だして油揚げとローソクを買って参拝。小社にも丁寧に参拝した。
もう一つの狙いは「なまず料理」を食することだった。小ぶりのなまずの蒲焼と鯉の刺身、鯉こくなどがついて2000円。但し、一口食べると頼りない味覚にがっかりする。淡白な白身を甘辛い醤油味で整えてある。醤油のたれの味に負けているのだ。鰻とは見た目そっくりでも脂分の豊富さにおいて比較にならない。旨みとは実に脂肪にあると思わせた。店を出ると、串カツの店が人だかりになっていた。見るだけにして車に戻った。
円空と和歌 ― 2015年08月16日
8/15はお千代保稲荷のお参りを終えてから、まだ帰名するには早いので、高賀山の麓の洞戸の円空記念館に出向いた。先週の8/8には円空の第二回歌集展が開催されてシンポもあったが山行でいけなかった。気になっていたシンポであるが文書には残されなかった。その代わり、円空和歌集という小冊子が発行された。(500円)15首ていどの和歌を見開き2ページで4首掲載し、簡単な解説を加えて、自筆原文の写真も併載された。
閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。
”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”
の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。
来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。
今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。
円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。
円空の和歌は
”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん”
”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”
とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。
土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。
仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。
菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。
松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。
円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。
閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。
”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”
の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。
来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。
今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。
円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。
円空の和歌は
”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん”
”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”
とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。
土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。
仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。
菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。
松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。
円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。
五竜捜索隊の解散式 ― 2015年08月27日
8/26、夜、支部ルームに大勢の若い人たちが集まった。去る4/11に結成された五竜捜索隊の解散式ということである。若い会員等の無償の働きがあった。その中に老齢のわが身もある。雪の尾根や谷を縦横に探し回る体力はないが多年の経験から何とか埋没地点を予測することができた。
4月、5月GWと行ったが見つからなかった。6月半ばに残雪の谷の中で3人は遺体で発見されたのである。これは早大山岳部OBの連中で意地に掛けても探し出した。その執念が実った。大町警察署も驚くほどスピーディな発見らしかった。先年の御池岳も長期に亘ったが執念で探し出した。遺体の発する電波のようなものが強いのだろうか。
7月には遺族のお別れ会が催されて私も出席した。大半は勤務先の東京海上火災の社員だった。しめやかではなく、賑やかに行われた。
そして、8月になり、捜索隊の解散式になり、けじめをつけた。支部長Oさんも出席。今後の遭難対策についても話し合った。愛知岳連の遭難対策口の話もしておいた。鈴鹿の遭難者の60%以上は愛知県民であり、増加傾向にあるからだ。
解散式の後は、近くの飲食店でミニ宴会になった。久々の顔ぶれに話も弾んで酒量がオーバーしてしまった。地下鉄に乗ったところまでは覚えているが、気が付いたら米野木駅だった。すでに12時を回っている。電車までオーバーしてしまった。終電だったのでやむなくタクシーで帰宅した。名鉄運賃260円とタクシー代3700円余りを払った。宴会での飲み代は某筋の配慮で無料だったが、トンだところで支出してしまった。
関連記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/07/09/7703946
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/04/12/7609749
4月、5月GWと行ったが見つからなかった。6月半ばに残雪の谷の中で3人は遺体で発見されたのである。これは早大山岳部OBの連中で意地に掛けても探し出した。その執念が実った。大町警察署も驚くほどスピーディな発見らしかった。先年の御池岳も長期に亘ったが執念で探し出した。遺体の発する電波のようなものが強いのだろうか。
7月には遺族のお別れ会が催されて私も出席した。大半は勤務先の東京海上火災の社員だった。しめやかではなく、賑やかに行われた。
そして、8月になり、捜索隊の解散式になり、けじめをつけた。支部長Oさんも出席。今後の遭難対策についても話し合った。愛知岳連の遭難対策口の話もしておいた。鈴鹿の遭難者の60%以上は愛知県民であり、増加傾向にあるからだ。
解散式の後は、近くの飲食店でミニ宴会になった。久々の顔ぶれに話も弾んで酒量がオーバーしてしまった。地下鉄に乗ったところまでは覚えているが、気が付いたら米野木駅だった。すでに12時を回っている。電車までオーバーしてしまった。終電だったのでやむなくタクシーで帰宅した。名鉄運賃260円とタクシー代3700円余りを払った。宴会での飲み代は某筋の配慮で無料だったが、トンだところで支出してしまった。
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http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/04/12/7609749
新涼 ― 2015年08月27日
お盆以降、朝夕はめっきり涼しさを感じるようになった。これを新涼という。日没が遅くていつまでも明るかったが今は明らかに早くなった。涼しさは日没の早さに関係しているのだろう。
今日も日中、外へ出て帰ってくると汗が吹き出す。残暑はまだまだ厳しい。それでも気分は秋になる。秋は英語でオータムAUTUMNだが、米語圏ではFALLになるそうだ。これは滝(FALLS)を意味する。つまり、日が落ちる(のが早い)、水が落ちるという意味だろうか。
飛躍するが、春はSPRINGである。バネも同じだ。残雪の山を歩くと、雪に抑えられていた枝が融雪で押さえが解放されてピーンと撥ねる。正しく春を感じる。
やはり、秋は落ちるイメージがふさわしい。秋の夕焼けも美しい。夏の雄大な夕焼けと違って早く終わる。激しかった蝉しぐれが虫しぐれになった。そこが淋しさにもつながるのだろう。人恋しい気分を生む。いま少し、夏の気分を味わいつつ秋に雪崩落ちて行く。
今日も日中、外へ出て帰ってくると汗が吹き出す。残暑はまだまだ厳しい。それでも気分は秋になる。秋は英語でオータムAUTUMNだが、米語圏ではFALLになるそうだ。これは滝(FALLS)を意味する。つまり、日が落ちる(のが早い)、水が落ちるという意味だろうか。
飛躍するが、春はSPRINGである。バネも同じだ。残雪の山を歩くと、雪に抑えられていた枝が融雪で押さえが解放されてピーンと撥ねる。正しく春を感じる。
やはり、秋は落ちるイメージがふさわしい。秋の夕焼けも美しい。夏の雄大な夕焼けと違って早く終わる。激しかった蝉しぐれが虫しぐれになった。そこが淋しさにもつながるのだろう。人恋しい気分を生む。いま少し、夏の気分を味わいつつ秋に雪崩落ちて行く。
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