Iさんのお別れ会に出席 ― 2015年07月09日
今年1月19日に北アルプス五竜岳の山中で山スキー中に行方不明となっていたIさんが6月17日に発見された。彼のお別れ会が、昨夜、名古屋市内のホテルで行われたので私も捜索活動に加わった関係で出席した。
お別れ会は遺族の主催で行われ、会場内には職場の関係者を中心に大勢が参集した。最初に彼の生前に残した写真を連続的にスクリーンに大写しにして、故人を偲んだ。捜索の中心となった人の挨拶と事故の経緯の報告、山岳会関係者の挨拶が続いた。賑やかなことが好きという故人の希望で立食パーティ形式で行われた。山岳会で「雪山に消えたあいつ」など山の歌を2曲合唱した。
https://www.youtube.com/watch?v=wgQ51-2tzuY
最後は遺族の挨拶が続いた。
奥様はイタリア人で、国際結婚だった。息子さんが2人いる。長男は大学を出てこの4月に一流会社に就職したばかりだった。一人前の社会人になった姿を父に見て欲しかったという言葉に落涙を隠せなかった。奥様は言葉が詰まり気味だったのは、まだ夫の死を認めたくないからだろう。悔しさが端々ににじむ話だった。今年3月末には定年退職し、白馬山麓に転居する夢もあったという。身体が不自由で出席できなかった90歳を超える老父の言葉を妹さんが代読された。父親として60年、一流大学を卒業、一流の金融機関に就職、愛する妻を娶り、立派に成長した孫を見て、幸せそのものだった。それが一転して暗雲に包まれるとは。心中お察し申し上げる。
山岳遭難は家族を不幸のどん底に落し入れる。とはいえ、防止に決め手はない。いつかわが身に、否、遭遇しないように慎重に続ける。
みすずかる信濃の山に消ゆべしや友の心にとはに宿らむ
お別れ会は遺族の主催で行われ、会場内には職場の関係者を中心に大勢が参集した。最初に彼の生前に残した写真を連続的にスクリーンに大写しにして、故人を偲んだ。捜索の中心となった人の挨拶と事故の経緯の報告、山岳会関係者の挨拶が続いた。賑やかなことが好きという故人の希望で立食パーティ形式で行われた。山岳会で「雪山に消えたあいつ」など山の歌を2曲合唱した。
https://www.youtube.com/watch?v=wgQ51-2tzuY
最後は遺族の挨拶が続いた。
奥様はイタリア人で、国際結婚だった。息子さんが2人いる。長男は大学を出てこの4月に一流会社に就職したばかりだった。一人前の社会人になった姿を父に見て欲しかったという言葉に落涙を隠せなかった。奥様は言葉が詰まり気味だったのは、まだ夫の死を認めたくないからだろう。悔しさが端々ににじむ話だった。今年3月末には定年退職し、白馬山麓に転居する夢もあったという。身体が不自由で出席できなかった90歳を超える老父の言葉を妹さんが代読された。父親として60年、一流大学を卒業、一流の金融機関に就職、愛する妻を娶り、立派に成長した孫を見て、幸せそのものだった。それが一転して暗雲に包まれるとは。心中お察し申し上げる。
山岳遭難は家族を不幸のどん底に落し入れる。とはいえ、防止に決め手はない。いつかわが身に、否、遭遇しないように慎重に続ける。
みすずかる信濃の山に消ゆべしや友の心にとはに宿らむ
鑑賞 浅野梨郷の歌⑨ ― 2015年07月09日
『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。
依田秋圃歌集「山野」成る、と題して
大きなる歌ふみを得ておのづからうれしき心胸わきかへる
歌ぶみを手にいだきもちうれしさにをどる心をまづは告ぐべし
*秋圃側の年譜には
昭和5年3月
自選歌集の編集を締め切り、之が刊行のことにつき、浅野梨郷、杉浦亮一両君と協議す。
昭和5年9月
歌集『山野』発行。本集の刊行には終始浅野梨郷、杉浦亮一両君の友情による所甚大なり。
とあるからこのころである。編集を通じて精読したであろう秋圃の歌に一定の考察の論考が生まれた。昭和6年6月1日の『依田秋圃氏の歌風に対する一考察』である。歌集出版や論考の出版を通じて「武都紀」創刊につながっているように思う。名古屋歌壇の萌芽といえないか。
依田秋圃歌集「山野」成る、と題して
大きなる歌ふみを得ておのづからうれしき心胸わきかへる
歌ぶみを手にいだきもちうれしさにをどる心をまづは告ぐべし
*秋圃側の年譜には
昭和5年3月
自選歌集の編集を締め切り、之が刊行のことにつき、浅野梨郷、杉浦亮一両君と協議す。
昭和5年9月
歌集『山野』発行。本集の刊行には終始浅野梨郷、杉浦亮一両君の友情による所甚大なり。
とあるからこのころである。編集を通じて精読したであろう秋圃の歌に一定の考察の論考が生まれた。昭和6年6月1日の『依田秋圃氏の歌風に対する一考察』である。歌集出版や論考の出版を通じて「武都紀」創刊につながっているように思う。名古屋歌壇の萌芽といえないか。
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