鑑賞 浅野梨郷の歌②2015年07月01日

上松町の山奥から眺めた5月の中央アルプス
歌集『豊旗雲』(昭和31年刊、武都紀叢書)から

麓田の段々の畔のつらなりてひところ白く山をうつす水

*この歌の成立は中々に難しい。掲載の写真は5月初旬の木曽の上松町の山奥で中央アルプスを撮影したもの。残念ながら水面に白い山は映っていない。このことから、雪山が映りこむように田に水を張ってしかも田植えが始まる前である条件がある。3月では早く、6月では遅い。しかも段々の畔の連なる場所つまり棚田でなければならない。棚田はあちこちにあるが、低山では雪がすぐに解けてしまう。木曽谷、伊那谷、飛騨辺りと見られるがどこだろう。

鑑賞 浅野梨郷の歌③2015年07月02日

他の山の雪は消えても能郷白山(4/26撮影)はたっぷり残る
歌集『豊旗雲』(昭和31年刊、武都紀叢書)から

春かすみ立ちてはつづく山又山美濃と信濃と雪をおく山

*立春以降まだ寒い日々が続くが春は確実にやってくる。3月になれば温められた水蒸気の蒸散で霞む。そうではあるが霞の彼方に美濃や信濃の雪山が見えているよ、というのである。具体的な山名を挙げないから勝手に想像を楽しめばよい。
 愛知県図書館の上階にあるレストランのガラス張りの彼方にはそんな風景も簡単に得られそうだ。例えば、北の方角で、春遅くまで雪をいただく山は美濃にあっては能郷白山がある。毎年4/13には猿楽を奉納する信仰の山である。この山は名古屋からもそれと分かる。信濃にあっては御嶽山や背後の中央アルプスであろう。恵那山も黒木に覆われているが早春は白い。

鑑賞 浅野梨郷の歌④2015年07月03日

彼岸のころの伊吹山は班雪(はだれ)も鮮やか
歌集『豊旗雲』(昭和31年刊、武都紀叢書)から

みはるかす伊吹高嶺に春を尚班雪みえつつ日照りあまねし

*この歌集は前半が梨郷、後半は千登勢夫人の構成で共著になっている。この歌は千登勢夫人の作品。しかし、タイトルは梨郷のままで通す。昭和22年に死去。享年51歳だった。愛妻家だった梨郷には痛恨の極みだったにちがいない。梨郷58歳の不幸。
 早春の伊吹山を的確な写生で把握。言葉の斡旋もよくリズミカルに韻をふむところがいい。名古屋人にとって伊吹山が変って行く様は日常であろう。とりわけ雪が日々消えて行く春は愛おしくもある。麓では桜咲く春というのに山ではまだ斑になって残るのが見える。それでも春の日差しはさんさんとふりそそぐことよ。日照りあまねし、とする結句も女性らしい潔さがある。班雪の伊吹に春を惜しみ、春の光を迎える喜びの歌といえる。

鑑賞 浅野梨郷の歌⑤2015年07月04日

飛騨の天蓋山の途中で。左下にひらかむとする辛夷の蕾が見える
歌集『豊旗雲』(昭和31年刊、武都紀叢書)から

やはらかくふくれあがりし辛夷のつぼみ朝光にきほいひらかむけはひ

*これも千登勢夫人の作品。浅野家の書庫のある庭に大きな辛夷の木があったことは依田秋圃の歌で知った。夫人もいくつも詠まれているから好きだったのだろう。
 梨郷は泰山木の花も詠んでいる。白い花、白い雪の山に感性が働くのだろう。梨郷が生まれた東区は白壁町なる地名があった。本名は利郷だが、梨郷の号を名乗った。梨の花も白い。
 これは偶然とは思うが本居宣長の嗜好にも共通する。山桜の白い花、近くの里山で松阪市から見える白猪山、転じて潔癖さだろうか。「からごころ」を嫌い、生まれたままの素直な心を取り戻せと言った。もっと読み込まないと梨郷の真実は見えないが・・・。
 さて、きほいはきほふ、であって、競うの古語。歌意は辛夷のつぼみが膨れて朝の光と競うように開花する気配だよ。わざわざひらがなを多用して優しい気持ちを表現してもいる。

奥美濃 ・大白木山を歩く2015年07月05日

 7/4は大白木山登山。下山後は某所でビバーク訓練、焚き火の練習、ツエルトの張り方など、登山の最中に、余儀なくされた場合を想定して露営訓練の予定だった。ところが、何とか持ってくれるとの期待も空しく、根尾東谷川の上流部の山々には雲が湧き上がる様相に計画は早くも挫折しそうな気配。とりあえず、登山だけでもと峠に行く。
 登山口の折越峠を10時30分に出発。車道を若干下って、鉄パイプで組まれた階段を登ると尾根に到達。ややヤブっぽい道を辿ると杉の大木の疎林に着くがすぐに覆いかぶさるようにシロモジの枝葉が行く手を邪魔する。今時は梅雨であり山は自然の生気に満ちている。ストックで枝に付いた露を払い落としながらの登りになった。かつては中電の巡視路だった登山道はヤブの下に隠れているので歩けるがスムーズには行かない。約40分後、尾根上の藪のないところで、一休みしたが、すぐに平らな地面のある根上がりの桧に付いた。もう少し我慢すべきだった。ここから分岐まではすぐである。一旦下って最低鞍部から登りかえす過程で登山道が怪しくなった。付近一帯は杉の植林地帯なので皆伐されてしまったのだろう。稜線通しのルートは道形も怪しくなった。別の人が右へ濃くなった道を追って登ったのでそこへ合流した。1本隣の枝尾根に移る形で斜面をトラバースしながら登った。
 枝尾根にははっきりした踏み跡もある。登りきると稜線に出た。右へ折れて稜線歩きになった。雲の中で何も見えないが、ヤマボウシの花が迎えてくれた。淡いピンクが混じってとてもきれいな花である。頑張って登りきると12時過ぎ、山頂に着いた。何十年ぶりか。高屋山への縦走以来である。
 以前はあった鉄塔もまず電線が取り払われ、鉄塔も撤去された。今は反射板のみ残されている。優良企業の代名詞だった中電も原発を動かせない今は無配転落。解体作業は利益を生まないので後回しなのだろう。そういえば大須ダムは揚水式のシステムで夜間の電力を利用してドウの天井の近くにあるダムへ汲み上げていたっけ。今はそれどころじゃないだろう。
 メンバー8人がそれぞれ昼食にした。虫が多いので閉口する。早々に退散することにした。12時25分下山。往路を戻る。下りは2時間。このまま手入れしないと本格的なやぶ山になりそうな気がした。
 雨がぱらついた。雨の中でビバーク訓練もあるまいと全員一致で帰名する。関広見ICの手前で猛烈な雨に襲われた。諦めるのに十分な雨でした。

鑑賞 浅野梨郷の歌⑥2015年07月06日

滋賀/岐阜県境のブンゲンより加賀白山を遠望する
『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。

  自叙
 われいとけなくより和歌をこのみよく之をつくる。明治40年初秋の頃依田秋圃氏を訪れ萬葉集を示され、頓に佳境に入る。爾来得るところの作頗る多くして今となりて之を収集すること難し。茲に昭和4、5年の作を纏めて先づ一巻とす、他は之を知らるべし。
 わが此の道に於ける、依田秋圃、伊藤左千夫両氏の導きによるもの頗る多し。常に感謝の念に堪へず。特に誌して記念とす。
  
 昭和6年陽春

                 梨郷記

 明治45年に東京外大を卒業後、鉄道院に就職、以来昭和5年まで勤めた。その後、ツーリストビューローに転じ、昭和7年まで勤務。昭和10年には名古屋市役所に勤務。昭和6年には秋圃らと「武都紀」を創刊。
 昭和16年以降、戦時体制になり、短歌活動、人生においても波乱の時代に突入していった。その集大成が『豊旗雲』であった。
 87歳の生涯の中でも最も平穏だったのはこの歌集に示されている。最も油ののった40歳代の歌である。昭和2年、鉄道院で仙台に異動し、住居も転居した。
 東北本線の車窓からの歌
蔵王嶺は半はかくれ雲ありて雲もるゝ日にところどころ明かし

那須岳に雪ふりおきて雪のうへに噴火のけむり流れゐるなり

*但し、鉄道院での仕事は多忙を極めたようだ。

いとまありて野にも山にも思ふままありきたけれど望みすくなし

*ありきたけれど、はありく、で歩くの古語。暇があれば、ハイキングや登山も楽しみたいが仕事に追われてとても行けそうにないと嘆く。そう詠んではいるが仙台勤務の役得はきちんと享受している。

雪山を前にしてゆくすがしさに雪はくづるゝわがあしもとに

スキーしてのぼる雪山いただきに立てば雪又雪のつらなり

眼の下の雪のたひらに静まれるいでゆの町に歩む人見ゆ

*以上スキー3首の歌、とある。蔵王山と見られる。
日本におけるスキーは明治44年新潟県が発祥の地とされる。そこへ行ったことがある。
 特に2首目の歌は「スキーして登る雪山」はゴンドラやリフトで登るわけではない。今の締め具からは想像できないが、当時はフィットフェルト式の締め具で、スキー板に皮製登山靴のようなスキー靴を固定した。かかとは自由に上がる。スキー板の裏にはシール(あざらしの皮)をはりつけ、滑り止めにした。そして、山頂に向かって雪の上をスキーを履いて登ったのである。そうすることで雪面を固める。これをラッセルといった。滑る際は、滑り止めのシールを剥がした。今の山スキーに近い。北海道の十勝岳温泉には国設スキー場があるがリフトなどの機械設備はなく、スキーを履いて登る、滑るのゲレンデであった。

 昭和4年はニューヨーク大恐慌の有った年。昭和金融恐慌で日本の景気も悪かった。小津安二郎の「大学は出たけれど」の映画がヒット。昭和5年、早稲田大学を卒業した川崎吉蔵は就職先がない。それで、好きだった登山の分野で山岳雑誌『山と溪谷』の発刊を試みると創刊号は3刷という勢いで売れた。景気の悪化に反して勤労大衆は登山やスキーを楽しみ始めた時代であった。
 当時は週休二日制ではなかった。せいぜい土曜半ドンであろう。マイカーもなかったから登山を楽しむのは厳しかっただろう。鉄道、バスを利用してスキーだけは時間を作れたのだろう。レジャーを興し、鉄道需要を喚起する狙いもあったのだろうか。
 「豊旗雲」の歌では雪山に並々ならぬ愛着を見せたわけが分かったような気がする。もっと若いときに、暇があれば好きなだけ山に登っておきたかった。そんな回想もあるかに思える。

鑑賞 浅野梨郷の歌⑦2015年07月07日

『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。

昭和2年鉄道省を退職。ツーリストビューローに転職、関西支社勤務になり奈良市に仮寓。ここは2年余りで退職し、名古屋市に戻る。3年ほど失業期間をおいて名古屋市に勤務。

 月明と題し

すみわたる月の明かきを仰ぎつゝ思いはかなし別れ住む身の

別れ住みて月日はへたれ澄みわたる月に向かひて堪へがてなくに

たゞひとり月を仰げばおのづから涙はたまる胸内をつきて

おほぞらに月すみわたるさびしくていちづに遠き妻をしぞ思ふ

*奈良市仮寓は単身赴任だったようです。身の回りの世話をしてくれる妻がいない寂しさと不便さを言うのです。孤独感を月に象徴的に表現している。しぞ思ふのしは強調の意味。

 帰省と題し

かへり来しわれをむかえてうれしげにはたらく妻は飯を炊くかも

なにげなきふりしてあれど妻と子と共にたうぶる夕餉はうまし

*まるでホームドラマを見ているような気がします。時代は代わっても人間は変らず。

床のべてみるに淋しき部屋のうち妻子はあらずひとり寝る身の

 またと題して

想ひつつ日は過ぎにしか別れ住みていま一と年は尽きなむとする

妻子らをしきりにおもふ夜半にして目ざめさびしくいらえなくに

*いらえは応えの意味もあるが寝ておれないの意だろうか。

つき果てぬおもひかなしくくりかへし夜半の目ざめのこころくるしき

めざめてはむねぐるしさに堪へがたみ職をやめんとしきりにおもふ

*昭和7年、短歌に託した自分の思いを確認するかのように本当に退職してしまいます。単身赴任は今でも不自然なこととの批判が多い。みな堪えているのでしょうが、よほど単身生活が辛かったのです。昔は不便でしたから尚更です。

鑑賞 浅野梨郷の歌⑧2015年07月08日

揖斐川左岸からの伊吹山
『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。

伊吹山雪のましろにいただきの日にてる見へて霧に浮きいづ

*晴れた日は濃尾平野の西に屏風のごとく存在感を見せる伊吹山。名古屋からは木曽川、長良川、揖斐川からあがる水蒸気でガスに包まれていることが多い。それでも積雪期であれば、霧に隠されていても、日光が照れば反射光により霧に浮かんで見えるというのである。
 森澄雄の俳句「雪嶺のひとたび暮れて顕はるる」もこんなイメージではないか。

Iさんのお別れ会に出席2015年07月09日

 今年1月19日に北アルプス五竜岳の山中で山スキー中に行方不明となっていたIさんが6月17日に発見された。彼のお別れ会が、昨夜、名古屋市内のホテルで行われたので私も捜索活動に加わった関係で出席した。
 お別れ会は遺族の主催で行われ、会場内には職場の関係者を中心に大勢が参集した。最初に彼の生前に残した写真を連続的にスクリーンに大写しにして、故人を偲んだ。捜索の中心となった人の挨拶と事故の経緯の報告、山岳会関係者の挨拶が続いた。賑やかなことが好きという故人の希望で立食パーティ形式で行われた。山岳会で「雪山に消えたあいつ」など山の歌を2曲合唱した。

https://www.youtube.com/watch?v=wgQ51-2tzuY

 最後は遺族の挨拶が続いた。
 奥様はイタリア人で、国際結婚だった。息子さんが2人いる。長男は大学を出てこの4月に一流会社に就職したばかりだった。一人前の社会人になった姿を父に見て欲しかったという言葉に落涙を隠せなかった。奥様は言葉が詰まり気味だったのは、まだ夫の死を認めたくないからだろう。悔しさが端々ににじむ話だった。今年3月末には定年退職し、白馬山麓に転居する夢もあったという。身体が不自由で出席できなかった90歳を超える老父の言葉を妹さんが代読された。父親として60年、一流大学を卒業、一流の金融機関に就職、愛する妻を娶り、立派に成長した孫を見て、幸せそのものだった。それが一転して暗雲に包まれるとは。心中お察し申し上げる。
 山岳遭難は家族を不幸のどん底に落し入れる。とはいえ、防止に決め手はない。いつかわが身に、否、遭遇しないように慎重に続ける。

みすずかる信濃の山に消ゆべしや友の心にとはに宿らむ

鑑賞 浅野梨郷の歌⑨2015年07月09日

『梨郷歌集』昭和4、5年の巻(昭和6年7月1日発行、私家版)は梨郷初の歌集だった。装丁は和綴じ、特製原稿用紙を袋とじという古風な体裁。原稿用紙1枚に6首を掲載。昭和4年196首、昭和5年295首を収録。

 依田秋圃歌集「山野」成る、と題して

大きなる歌ふみを得ておのづからうれしき心胸わきかへる

歌ぶみを手にいだきもちうれしさにをどる心をまづは告ぐべし

*秋圃側の年譜には
昭和5年3月
 自選歌集の編集を締め切り、之が刊行のことにつき、浅野梨郷、杉浦亮一両君と協議す。

昭和5年9月
 歌集『山野』発行。本集の刊行には終始浅野梨郷、杉浦亮一両君の友情による所甚大なり。

とあるからこのころである。編集を通じて精読したであろう秋圃の歌に一定の考察の論考が生まれた。昭和6年6月1日の『依田秋圃氏の歌風に対する一考察』である。歌集出版や論考の出版を通じて「武都紀」創刊につながっているように思う。名古屋歌壇の萌芽といえないか。