「浅野梨郷」展を見学2015年06月16日

 午後4時、仕事が早めに終わったので、東区の「文化のみち二葉館」で16日から開催中の「名古屋歌壇の礎 浅野梨郷」展に行く。先月、中生涯センターでパンフを読み、興味を覚えた。
 中日新聞では13日の夕刊、16日の朝刊の文化面でも大きく紹介記事を書いて後援している。但し、記事の扱いは破格に大きく、力が入っているが、地方歌壇と中央歌壇との対立軸を描いて、結果的に中央に受け入れられず、地方歌壇に埋もれた歌人の印象を持つ。この構図は尾張徳川家と江戸幕府の関係にも似て、微妙なところです。将軍になる人材を送り出せなかった尾張徳川家と中央歌壇で活躍する歌人が出なかったことは全く関係はないが、名古屋文化の土壌の貧しさを物語る。文学で食えないのである。
 そもそも浅野自身の短歌への関心の深まりは東京から愛知県に林業指導のために赴任してきた依田貞種の触発によるところが大きい。記事ではその関係を全くスルーしている。かつて中日新聞が出した事典に採録された人物なのだから知らないはずはない。
 依田貞種は依田秋圃という歌人であり、奥三河の林業指導の傍ら、歌人として、森林、山村や山びとを詠んだ。一方で、大正期に『山と人とを想ひて』を著わし、書名を変えながら、山想派歌人の山の随筆として、長く読み継がれた。想像では、戦前の社会人の登山ブームと期を一にするので登山愛好家らに好まれたのだろうと想う。だから文壇的な短歌史にはないが、瓜生卓造の『日本山岳文学史』(1979年、東京新聞)には名前が挙がっているのである。
 会場に来て、浅野の年譜には依田との交遊が、撚りあうように記述されて安心した。年譜の編纂者はそのことが良く分かっているが、新聞記者は常に先を急ぐプロだから、短期間に理解しなければならず、中央歌壇との対立で分かりやすく紹介にこれ努めた気がする。
 ケースに展示された手紙類は専門家の説明がないと分かりづらい。そう想っていたら、係員らしい女性が来たので説明をしてもらって理解の一端につながった。副館長といわれたが、来館3回目にして初見である。依田秋圃の全歌集もお持ちだそうで、浅野梨郷や依田秋圃が創立した結社「武都紀」の関係者だろうか。
 依田秋圃の歌碑は、足助、額田、刈谷、鳳来寺、闇刈溪谷など数箇所もあるが梨郷は一等地の徳川園に一箇所しかない。この差は何なのか。おそらく弟子を育てるか否か、だろう。梨郷の短歌は歌碑以外は知らない。あの歌だけなら大らかな万葉調とも言えるが、歌人としては理論家で弟子には厳しかったと思える。出てくる時代が早すぎたのか、戦時でもあり、文学どころではなかったかも知れない。
 戦後は戦後で前衛短歌にジャーナリズムが染まってしまった。万葉調など時流に合わないと見られたか。『徒然草』でさえ、古今集より、万葉集がいいと書いてあるそうだ。この展示が、再び、万葉集の自然詠に還るきっかけになるならば意義深いことだ。
 ともあれ、6/27の講演にも参加してみたい。

徳川園の歌碑
 宇つりつつ 静かに色をかへてゆく 登与波多雲の 空のたなび起   梨郷

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