東濃・天瀑山を歩く2015年03月28日

 余りにも天気が良さそうなので撮影のチャンスとばかりに出かけた。交通量はかなり多く、あちこちで渋滞が発生中だ。恵那ICで下りてR19からR257へ。
 懐かしい岩村町に来ると、天瀑山への登山口への案内に、佐藤一斎の町、とあって、へえーいつから売り出したのだろう。多分、小泉純一郎さんが首相時代に佐藤一斎の『言志四録』の一節を引用されてからかな。しかし、真新しい。
 そして坂を登って行くとまた案内板があり左折。終点Pが登山口になっていた。ここから40分とあったのでカメラのみ持参して歩く。但し、遊歩道ではなく、完全な山道だった。しばらくは谷沿いの山道で、松葉、桧の落ち葉で滑りやすいし、砂地でちょっとやばい感じがする。谷からジグザグで尾根に上がる。一部から雪の御嶽山が見えた。岩村の町も俯瞰できた。約20分で佐藤一斎の詩碑にきた。折角なので撮影するが暗くて分かりにくい。ここを後にまた急登する。更に10分で山頂に着いた。4等三角点が埋まっていた。標高はぞろ目の777mで縁起が良い。
 展望は何もないのですぐ下山した。やっぱり水くらいは持参すべきだった。Pに戻るとウグイスの鳴き声だ。今春初めてなので初音ともいう。山を下って、次は岩村城へ向かった。城まで800mとあるので徒歩で登城した。中々に急な坂道であった。しかも石畳なので足には堪える。ここからも御嶽山が良く見える。やがて植林内に入った。大勢の観光客とすれ違う。やや明るくなると本丸址に着いた。平らになって建物はなく、明治維新で廃城になったという。城主が松平姓だから徳川直系になる。薩長から見れば敵方だから謀反を起こされないようにということか。
 ここからは斑雪(はだれ)の恵那山が良く見えた。風格があっていい山である。下山後は歴史資料館に入った。佐藤一斎の学習のためだが、館員さんは佐藤一斎は1回来ただけという。しかも天瀑山に登ってそれっきりだったが、本家のあった美濃市にはしばしば立ち寄ったそうだ。中山道からは山奥になるし、遠いし、で来れなかったのだろう。歴史資料館のPの一角に佐藤一斎の塑像が建っていた。やっぱり、小泉さんの筆になる文字が揮毫されていた。
 岩村の町へ。佐藤一斎の詩を書き付けた看板や詩碑を良く見かける。小泉さんも良いことをしたもんだ。今や大もてなんだろう。どんなことばを残したのか。HPから山や向きの言葉を拾うと

・山に登ったり、川をわたったり、長い旅をしたり、時には野宿したり、時には飢えたり、時には寒さに凍えたりということは生きた学問である。これに比べて、綺麗な机に座って本を読むなどは、力があまりつかないことだ。

・・・・そうか、登山、沢登り、縦走、山でのビバークは生きた学問になるのか。確かに畳の上の水練とか言って、いくら練習しても実際の流れのある川では泳げない。やってみて、苦労してみて、知恵を付けて行くのである。

・登山では上りは倒れないが、下りでつまずくことが多い。失敗というのは順調な時の油断に生じる。

・・・・中々に真理を突いている。50歳で天瀑山に登ったからいわゆる中高年登山の悲哀を共感する。当年とって10歳は違うから今なら60歳から65歳くらいだ。体験からにじみ出たんだろう。

・春風のような優しさで人に接し、冬の霜のような厳しい態度で自分を正すのがよい。

・・・・・登山口の看板にもこの詩が紹介してあった。折りしも今は春だ。確かに春風は優しい。冬のように身を縮めることもない。他人には優しく、自分には厳しくだ。

 R19へ戻って帰名。帰路、最近ガンで入院するとかいう友人宅に寄ったが、留守だった。岩村名物のカステラを買ったのに残念でした。帰宅後電話すると奥さんが出て、すでに入院したらしい。春風のように優しく接する積りが空振りに終わった。